4 お化け屋敷
「お宅の乱暴な子のせいで、うちの坊やがほら、こんなになってしまいましたのよ。どうしてくれるんですか」
襖を少しだけ開けてそっと覗くと、和影に最初に雪玉を投げつけた男の子が、泥だらけになってしょんぼり立っていた。その横に、洋風のパーマネントを髪にかけてくるくる巻きにし、ハイカラなワンピースを着た女が、コートも脱がずに土間で怒鳴っていた。
対峙しているのは、和影の母である。黒髪を古風な日本髪に結い、いつの間に着替えたのか、さっき和影が玄関で見たのとは違う上等な着物を着、きちんと正座で相対していた。その後姿が毅然としていて、和影は美しいと思った。
「まあ、それはそれは申し訳ございませんでした」
母は両手をついて丁寧に頭を下げ、洋風の女は頭ごしに甲高い声で喚き続けた。母は確かに謝っているのだが、女が喚けば喚くほど、和影には女の品性が下がっていくように感じられ、それは脇に立っている男の子にも感じられたらしく、恥じ入るように俯きながらじりじりと後じさりしていくのであった。
そのうちに、母がつと立ち上がって和影の方へ来たので、和影は襖から飛び退いて玄関から見えない場所へ隠れた。
「和影、いらっしゃい」
襖を開けた母が和影に目もくれず、遠くへ声を掛けて、襖を開けたまま元の位置へ戻った。
和影は深呼吸をして、はーいと大きな声で返事をしながら、早足で一気に土間の上がり口まで出てきた。和影の顔を見た洋風の母子が、はっと息を呑むのがわかった。
「和影、ここへ座って、こちらの方にお謝りなさい」
母は正面を向いたまま、隣を指差した。和影は黙って差された場所へ正座し、手をついて頭を下げた。
「乱暴をしてごめんなさい」
頭を下げたままで、男の子が前へ出てきて母親のコートを引っ張るのが見えた。
コートを着た母親は泥にまみれた男の子の手を思い出したのか、咄嗟に子の手を払いのけ、払いのけたことに狼狽し、急に小さな声で何やら暇を告げると、そそくさと玄関を出て行った。
「ああ、これはこれは」
外から伯父の声が聞こえた。洋風の母親の、さっき母に怒鳴っていたのとは別の媚を売るような甲高い声も聞こえてきた。和影は頭を上げて、母を見た。母は苦笑していた。
「兄様は美男子だからねえ」
和影は異議を唱えかけて、母と目が合った。途端に母は噴き出した。
「あらあら。これはひどいことになっているわね。鏡を御覧なさい、鉈でも振るわれたみたいな顔になっているわよ。でもちょうどよかったかしら。もう、文句を言いに来そうな家はないわよね」
母の後について、鏡を見た和影は自分でも驚いた。額から滲み出た血が、眉毛の間を通って鼻の付け根まで流れ落ち、そのまま固まっていた。もう出血は止まっていて、これ以上流れ落ちる気遣いはないが、顔に大怪我を負ったように見えなくもない。あの母子が急に落ち着かなくなったのも無理はなかった。
母に手当てをしてもらい、伯父の部屋へ行った和影は、改めて事情を聞かれた後に、予想通りしぼられた。母は伯父のことを美男子と言っていたが、和影には怖いばかりでちっとも美男子には見えなかった。
中学校は、小学校と背中合わせに建てられていた。中学生になった和影は、毎朝一輝と杏次郎を小学校へ送り届けてから、小学校の裏手にある柵を乗り越えて、中学校へ登校した。
帰りは、時間があるときだけ正門から回り道をして一輝を迎えに行ったが、大抵は行きと同様にしていた。
小さな学校のことで、和影のやり方はすぐ評判になり、真似をして柵を乗り越える生徒が続出したため、間もなく学校側は乗り越えを禁止し、更に夏休み中に柵を高い塀に建替えると発表した。
和影は家の自転車を借りることにした。一輝達を小学校へ送り届けた後は、猛スピードで自転車を漕いで中学校へ登校するのである。中学校には、他の小学校を卒業した生徒も通学しているので、自転車通学については学校側も何も言わなかった。
新学期早々から柵越えで評判になった和影は、いくつかの運動部から一緒に活動するよう誘われた。
特に陸上部からは、顧問をしていた学年主任を通じて熱心に勧誘された。和影も気を惹かれたが、守護人としての務めがある以上、部活動をしている暇はなかった。
陸上部には、三年生になっている向坂梅子も所属していた。梅子は和影が部活動をすることが出来ない事情を知っていて、なお気を惹かれているのも知って、代りに一輝を送り迎えしようかと言ってくれたが、受験を控えている梅子にさせるのは悪い、と和影の方で断った。
梅子とは以来、時々言葉を交わすようになった。梅子は自分なりに和影の役に立ちたい、と考えているらしかった。
現在高校に通っている次玄が、困ったらいつでも相談してくれと言っていることも梅子から聞いた。実際手助けしてもらう場面はなくとも、和影にとっては年上の人間の助力を当てにできると考えただけで大きな安心になった。
中学生になって良かったことが他にもあった。伯父の影久にしごかれなくなったことである。毎日の報告は欠かさずに続いていたが、その後は引き留められずに自分の時間を持てるようになった。
「今後は、強制ではなく、自分で精進しろ」
伯父に言われてしばらくの間は顔色を窺うようにしてこれまで通り武道の練習をしていたが、そのうち宿題も増えてきて続かなくなった。
ある日を境にぱったり練習を止めたが、伯父は何も言わなかった。伯父が言わないのをいいことに運動を全くしないでいたら、しばらくして急に身体がだるく感じられ、手足の筋肉が攣り易くなった。制服がきつくなり、杏次郎には、最近ぶくぶくしてきたと言われた。
たまたま梅子に話をすると、医者の娘で陸上選手でもある梅子は、「運動不足よ」と即座に断言した。仕方なしに和影は、武道の練習を再開することにした。
青柳家には、個人の家にしては立派な道場がある。道場には伯父の部屋が隣接していることもあって、和影は用がない限り、伯父の部屋にはもちろん、道場にも近付かないでいたのであった。
この日、伯父にいつもの報告を済ませ、一旦自分の部屋へ下がって練習の仕度をしてから和影が道場に近付くと人の気配がした。誰がいるのかわかっていたが、足音を忍ばせて扉の隙間から中を覗いた。
やはり伯父であった。剣道着も袴も真っ白なものを身につけ、無言で振り回しているのは真剣だった。明かりの所為か、顔色が常にも増して青白く見え、荒い息を吐きながら道場を動き回る伯父の姿には、鬼気迫るものがあった。
和影は、今伯父と目を合わせたら斬られるのではないかと思い、折角思い立った練習ではあるが、また別の日にしようと扉から離れた。
息を詰めて方向転換し、忍び足を踏み出した途端、扉が開いた。和影は足を踏み出した形のまま、その場に硬直してしまった。
「遠慮せず練習しろ。もう済んだ」
首まで固まった和影の横をすり抜けながら、伯父が言った。刀は既に鞘に収まっていた。
それから和影が道場で伯父に会うことはなく、無理のない程度に自分で工夫して練習を続けたので、気が付くと身体のだるさも取れて数ヶ月経った頃には、大体元の体型に戻っていた。
制服は多少きつかったが、これは別の要因によるものであった。背が伸びたのである。
背の低い杏次郎が羨ましがって、伯父に朝稽古をつけてもらうことになった。しばらくして杏次郎に伯父の稽古について聞いてみた。
「僕合気道を教わっているんだけど、とても分かり易く教えてくれるから、面白いよ」
「伯父様が怖くないの」
「怒られたことはないなあ。姉様は怒られたの」
一輝の手前もあり、和影は慌てて話を逸らした。自分はさんざんしごかれたので、杏次郎が楽しく稽古をしているのが不満だった。しかし自分は守護人としての武道、弟は所詮手慰みだ、と考えて己を納得させた。
秋には中学校で文化祭が催された。和影のクラスはお化け屋敷を作ることになり、併せて開催されるバレーボール大会の決勝戦にも出場が決まったので、部活動の発表会にも人を取られて、所属する部のない和影はてんてこまいだった。
当日は残暑が感じられる上天気で、和影は客寄せとして四谷怪談のお岩に扮装して入場券を配っていたが、心配していた季節外れと言う声はなく、客の関心もまずまずといった按配であった。
そのうち杏次郎と母と義父が連れ立ってきて、後ろに一輝とお館様までいたので、和影は恥ずかしく穴があったら入りたかった。
「うまく化けたなあ」
義父は褒めているつもりらしかったが、和影はお化けに扮装している訳なので、微妙な心持だった。
「姉様、切符ちょうだい。一輝様、後で一緒に入りましょう」
「あんまり怖くないといいな」
「気をつけます」
一輝は笑って杏次郎から入場券を受け取った。後で入ってきたのは2人の子ども達だけで、お館様と両親は外で待っていたらしかった。
一輝も杏次郎も、きゃあきゃあ悲鳴を上げながら、その癖楽しそうにお化け屋敷を通り抜けた。
バレーボール大会では、和影のクラスは決勝に惜しくも破れて準優勝だったが、副賞に皆で分けて食べられるほどのかりんとうを一山もらい、楽しい思い出となった。