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一輝と和影  作者: 在江
序 章 輝重と影久
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3 福の懐妊

 影久様と藤野様が下宿を出られる前日、私は指定された時間に逢引の場所で待っておりました。影久様は藤野様とご一緒に、お仲間がささやかな壮行会を催されるのに出席されるので、昼間からお出かけになられておりました。


 丁度新月の頃で、辺りは国民総節約や灯火管制もあって真っ暗です。人通りも全くございません。私は影久様に会えるという希望だけで、その暗い場所に潜んでおりました。やがて、何人かの人の足音が聞こえてきました。見つかりませんように、と祈りながら小さくなっていると、影久様が入ってこられました。


 他には誰もいないようでしたので、私が暗闇の怖さに音を聞き違えたのだと思いました。影久様は、手探りで私の居場所を探り当てると、優しく抱き締めてくださいました。

 普段の影久様から受ける印象とは全く違い、私は殿方とそのような事をするのは初めてでございましたが、本当に最後まで優しくしてくださいましたので、最後に思わず私は、「愛しています」と囁いてしまいました。


 影久様は怒ることなく、もう一度私を抱き締めてくださいました。それから、風のように去って行ってしまわれたのでございます。私は身繕いもございますし、帰る先が一緒なので、同じ時間に戻っては怪しまれる、と予め影久様に言い含められておりましたので、引き留めることも致しませんでした。


 ええ、それでは私の息子は影久様のお子ではないかとおっしゃられるのですね。お蓮さんがそのように思われるのも無理はございません。どうか最後まで私の話をお聞き下さいませ。これまで誰にも打ち明けられなかった私の胸の内を、考えてみれば影久様の妹御でいらっしゃるお蓮さんに聞いていただくのが一番よろしいかと存じます。


 翌朝早く、影久様と藤野様は出立されました。下宿の者で玄関までお見送り致しました。

 甘い言葉を交わす暇などございませんでした。藤野様はいつもの通りにこやかに、影久様はその後ろで厳しい顔付きで出立されました。

 私が自分の部屋へ戻りますと、文机の上に見たこともない本がございました。扉を開きますと、間に分厚い文が挟まっておりまして、表に「半年経ったら開いてください」とありました。いつの間に忍び込まれたのか、影久様が置いて行かれたに間違いございません。私は、その本を胸に抱いて昨夜の温もりを感じ取ったのでございます。


 半年は長うございました。月のものが止まりましたので、影久様のお子を宿したことは確信できましたものの、下手に近所の噂になり堕ろすようなことになっては、と気を揉み、医者へもかからず、また折角授かったお命を流すことになってはならない、と密かに妊婦の心得を学びまして、重いものを持たないように気を遣っておりました。


 戦時中のことで食べる物も贅沢ができませんで、お腹が大きくならなかったのが幸いでございました。

 もう下宿されている方々もいなくなりましたので、人のお世話という意味では大した仕事もございませんでした。母も父が召集されて暇になったのか、私と一緒によく働いておりました。

 指折り数えて半年後、私は独り部屋へ篭り影久様から頂いた文を隠し所から取り出しました。


 文は二重に包まれてございました。一枚めくるとその下に「お福ちゃんへ」とまた表書きがございました。私は奇異に感じながらも封を開きました。

 すると、細長いものが転がり落ちました。慌てて拾ってみると、印鑑でございます。「藤野」と彫ってございました。得体の知れない不安に駆られながら、私は文を読み始めました。


 すると、そこには藤野様の私に対する愛が切々と綴られていたのでございます。あの夜の契りのことまで赤裸々にございました。私は最後まで読まずに文を投げ出しました。私と契られたのは、影久様ではなく、藤野様だったのでございます。


 何故このような事になったのでございましょう。私は逢引の約束を誰にも話さずにおきました。影久様が藤野様に話されたのでございましょうか。そして私に懸想された藤野様が影久様を出し抜かれて……いいえ、違います。


 もし影久様が藤野様に出し抜かれたのであれば、あの夜私と連絡をとろうとした筈でございます。それに、藤野様はそのようなはかりごとをされるようなお方ではございません。


 「福殿は、ほかの男の人から好かれたことはないのですか」

 茫然と部屋の隅に蹲っていると、恐ろしい疑念が浮んでまいりました。


 影久様は何もかもご承知だったのでございます。影久様のご協力なくしては、藤野様が私と契られることはなかった筈なのです。藤野様は私が影久様をお慕いしていることなど、ちっともご存知なかったのでございます。ですから影久様は、私がうっかり影久様とお呼びすることのないよう、声を立てないように言い含められたのでございます。


 恐らく、藤野様にもそれらしい理由を立てて声を出さないように言い含められたのでしょう。そうして、入れ違いにすぐに気付かれて折角授かった子を堕ろされることのないよう、半年という期間をおいたのでしょう。


 私は影久様も藤野様も呪いました。男などみんなこの世から消えてしまえと思いました。

 愛する人だからこそ、操を捧げて子まで成したのに、全て偽りだったのです。藤野様が私に懸想さえしなければ、影久様と契れたかもしれないと思うと、やはり影久様よりは藤野様の方が憎うございました。


 おのれこの腹の子をどうしてくれよう、と私は自分の腹を睨みつけました。その時、ぽこぽこと奇妙な具合にお腹が鳴ったのでございます。鳴る、というよりも叩かれているような感触。

 私は、無意識に腹へ手を当てました。すると、まるで私の手をめがけているように、確かに内側から何かが腹を叩くのでございます。

 そうです。腹の子が、私を蹴っているのでございました。


 この子は生きている。

 私の心を推し量ったかのように存在を主張し始めた腹の子に、ふと愛着を覚えました。父親が誰であろうと、私の子には間違いございません。もう男など懲り懲りでございます。子どもさえいれば、老後の慰みにもなりましょう。まずはこの子を無事に産み落とさねばならぬ、と先刻までの呪いの勢いはどこへやら、今度は腹の子に関心が集中致しました。

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