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一輝と和影  作者: 在江
第三章
23/23

8 遺言

 和影と一輝の婚礼は、ごく内輪だけで簡単に行われた。

 入籍に当り、和影は向坂家の養子になって、向坂家の人間として出る形をとった。

 そのことは、和影が青柳家の守護人ではなく、藤野家のお館様となることを意味していた。


 一輝は、差し当って症状が安定している間、できる限り自宅で療養するように、これは向坂家の玄梅と玄一父子が取り計らってくれた。


 しかし大学は退学することになった。和影については休学にしてはどうかという勧めもあったが、二人とも退学の手続きをとった。

 東京のアパートは引き払った。向坂梅子と次玄が和影と一緒に上京して、万事手伝ってくれた。


 「ややこしいことになりましたねえ」

 「あら、姉妹になった方が、何かとお手伝いしやすくて便利だわ」


 久し振りに再会した兄妹は戸惑いながらも和影のために快く働いてくれた。

 梅子は嫁ぎ先で三児の母となり、次玄も玄一の結婚を待って来年には結婚する予定だった。

 和影は向坂兄妹の話を聞きながら、一輝の子を身篭ることへの自信がぐらついてくるのを感じていた。



 藤野家としては、まさにそのために和影を娶らせたのであるが、病身の一輝を気遣い、和影は婚約以来なるべく事を控えていた。

 誰憚ることなく、一輝の側にいられるだけで幸せだった。将来の不安は頭の片隅に追いやっていた。



 東京から戻った途端、和影は猛烈な吐気に襲われて便所へ駆け込んだ。佐治に甘い酒を飲まされて以来の嘔吐である。

 慣れない体力仕事と長い道中で疲労が溜まったに違いない。胃の中のものを全部吐いても、吐気は治まらなかった。きれいに磨かれた便所の床に手をついて呼吸を整えていると、後ろに人の気配がした。


 「大丈夫? 引越しも、移動も疲れたでしょう」


 離れで横になっている筈の一輝だった。お館様もその後ろから顔を出している。和影は立ち上がり、手を洗うのもそこそこに頭を下げた。


 「もう平気で」


 す、と言う前にまた吐き気が起こった。胃液も出し切り、もう出るものはない。内臓を裏返しにして吐き出したい気持ちだった。背中をさすられ、耳元でお館様の声がした。


 「あの、もしかして月のものが止まっていないかしら」

 「そういえば」


 和影は急に吐気が治まるのを感じ、そのまま吐気を胸の底に押し込み記憶を辿った。


 「ここふた月ばかり来ていないようです」


 もともと生理は軽い方で、最初に予定通り来なかった時には多少気にしたが、ちょうど一輝とのことで悩んでいたためかと自分で納得し、その後は余りにも色々な出来事がありすぎて、そういうものがあること自体忘れていた。

 お館様は和影を立ち上がらせて、両手を握った。


 「いずれにしても、明日向坂先生に診てもらいましょう」


 向坂玄梅はもともと外科医だが、医師の少ない土地で患者の選り好みは出来ず、看護婦の妻に助産婦の資格までとらせて、今では大抵のことはこなしていた。

 診察に訪れた和影に問診といくつかの検査を施し、暫く待たせた後で重々しく宣告した。


 「妊娠しとる。三ヶ月くらいだ。なんなら、町の病院へ行ったらいい。産むのはここでも出来るが」


 町の病院で検査しても、やはり三ヶ月目だった。和影の妊娠を知って、藤野家だけでなく青柳家でも喜びに湧いた。

 藤野の家に遠慮して訪れることのなかった母が、こっそり和影に会いに来て、お祝いを手渡しがてら妊娠中の注意を事細かく教え、最後に付け加えた。


 「杏次郎達も子どもを作らないといけないわね」


 和影の子の守護人と青柳家の継主のことである。脇で聞いていた一輝が、帰る母を見送りながら呟いた。


 「僕達の子どもは、普通に育って欲しいな」

 「普通、と申しますと?」

 「守護人なんて、時代がかった制度は本当は止めたいんだ」


 一輝は向き直り、手を伸ばして和影のお腹をいとおしむように撫でる。暫く沈黙した後、言葉を継いだ。


 「自分の子どもが常に守られるのは、確かに安心だけれど、守る人の負担を考えるべきだ。今は戦乱の世でも戦時中でもないし、必要のないことを惰性で続けると、弊害の方が多い。この子が十歳になるまで生きられたら、止めさせるのに」


 一輝の表情が曇り、顔色が悪くなる。和影は慌てて一輝を寝かせ、約束した。


 「もし、一輝様が私より先に往かれるとしても、私、一輝様のおっしゃる通りにこの子を育てます。どうかご心配なさらずに。身体に障ります」

 「和影が僕より先に往くようでは困る」


 一輝が苦笑した。間もなく、一輝の病状は悪化し、町の病院へ入院した。



 医者の見立ては正確だった。年が明けると、一輝は目に見えて末期の様相を示し始め、藁にもすがる思いで看病していた和影達を嘆かせた。


 和影のお腹は余り大きくならなかったが、もう子どもがごろごろ動くのが外からもわかるようになっていた。

 一輝は、和影のお腹に耳や手を当て、しきりに子どもに話しかけていた。

 痛み止めも余り効かなくなってきている様子だが、文句も言わずによく耐えていた。



 「男の子かな、女の子かな。暇だから名前をたくさん考えてしまったよ。男の子だったら、和影の和をとって和輝、女の子だったらひっくり返して『キワ』、男の子でも『テルカズ』と読めばいい。和影の影の字を取ったら、男の子で影輝、女の子はやっぱりひっくり返して『キエ』か『テルエ』。どう思う?」

 「私の名前を入れなくてもいいですよ。影の字も入れると字画が多すぎて、気難しい子になりそうです」


 そればかりではない。影の字を使えば、わざわざ和影を向坂家へ養子に出した意味が薄れてしまう。


 青柳家でも、生まれた子には影の字を使うだろう。お館様になることを思えば、自分の名前の影さえも消したいと思う和影にしてみれば、子どもにはとびきり明るい将来を約束するような名前をつけてやりたかった。


 「優しい子に育ってほしいから、優輝というのは如何ですか。男の子でも女の子でもおかしくないと思いますが」

 「それもよさそうだね。勇気のある子に育ちそうだ。藤野家と青柳家の歴史を変えてくれるかもしれない」


 一輝は和影のお腹を撫でながら、半ばは子どもに話しかけるように言った。


 二月に入ると、一輝の意識はほとんど混濁状態だった。和影は、周囲の制止を聞かず、面会時間の初めから終わりまでずっと付き添った。

 いざとなれば、病院の中なのだから、これほど安全な場所もない、と言い張る和影に藤野の大お館様も折れた。


 大お館様は年が明けてから心労が重なったのか、床に臥しがちになり、お館様は実質一人で家を切り盛りしていた。和影以外に見舞う者もいなかった。


 一輝の意識がはっきりする時間はどんどん短くなっていった。

 和影は一輝の意識が回復している間に、一言でも多くを語り合うために、起きている間中、枕元で一輝の顔を見つめ、言葉を掛けていた。


 「一輝様、青柳家の初子さんのお腹も順調に育っているそうですよ。私達の子と同じ学年に間に合いそうです。よいお友達になれるといいですね。一輝様、愛しています。あなたが私を好きになったとおっしゃった十歳の儀式の時から、私も一輝様のことをお慕いしておりました。当時は守護人として、でした。でも、一輝様が素敵な殿方だということは、ちゃんとわかっておりましたよ。さあ、外の景色を御覧になりますか。夕焼けで空が赤く染まっております。近頃の季節では珍しいこと」


 「和影」


 窓の外の景色に、つい気を取られた和影が振り向くと、一輝が目を開けていた。和影は握っていた手に力を篭めた。


 「もう時間がない。伯父御を恨まないでくれ」

 「何をおっしゃっているのですか。しっかりしてください」


 和影は、痛みで意識が錯乱しているのだと思い、看護婦を呼ぼうとしたが、一輝は握られている手を僅かに動かし、注意を引いた。目は天井から離さない。


 「嫌なことを思い出させて済まない。あれは、僕のせいだ。僕が和影を愛しているのを気付かれた。だから、伯父御を引退させるな。引退は、死を意味する」


 近頃では驚くほどに明瞭に話し、一輝は目を閉じた。一気に話したせいか、呼吸が常になく荒い。

 和影は看護婦を呼んだ。一輝の言葉を考える暇はなかった。

 連絡を受けた藤野家と青柳家に見守られる中、一輝は意識を取り戻すことなくその短い生涯を閉じた。


 春になって、()()は男の子を産んだ。

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