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一輝と和影  作者: 在江
第三章
21/23

6 異変

 性生活について書かれた本だった。

 何年か前にベストセラーになり、和影も工場に勤めていた時分、男性工員達が回し読みしているのを見た女性工員が噂するのを聞いたことがある。


 のみならず、中年の男性工員が女性工員達の集まっている場所にやってきて、からかい半分見せびらかしていったこともあった。確か、木製の人形で男女の性交の形を示した解説書であった。


 和影は、本の表紙を見つめたまま、固まった。一輝はあれから一向に和影の身体に手を触れる気配がなく、和影は力強い一輝の腕の感触を懐かしみながらもそれ以上のことになるのを恐れる気持ちから、自分から誘っていると思われないように神経を遣ってきた。


 近頃では、一輝には性欲がないのではないかとまで考え始めただけに、こんな本を隠し持っていたことに衝撃を受けた。和影が小説を読まないのを知った上で、ここへ隠していたに違いないのである。


 「お茶を淹れたよ。あっ、それはだめっ!」


 台所から戻ってきた一輝が、慌ててお盆をちゃぶ台に置いて和影の手から本をもぎ取ろうとした。和影が棚に戻そうとして積んであった小説の山に(つまず)く。


 バランスを崩した一輝はちゃぶ台の上のお茶を最優先した。身体を捻ってちゃぶ台から身を逸らす。和影は、咄嗟に受け止めようとして、結果二人はもつれ合って倒れ込んだ。


 「ごめん。大丈夫だった、怪我はない?」


 さっ、と一輝が起き上がって和影を助け起こし、さり気なく本を抜き取ろうとするが、和影が握り締めていたので取れなかった。一輝が困惑した表情になる。


 「あの、高校の先輩が卒業記念に、置き土産でくれた、と言っても信じてくれないかな」


 散らばった芥川や太宰、島崎藤村らに囲まれたまま、和影は本を握り締めて一輝と向かい合った。心の底に(おり)のように沈んでいた記憶が、また掻き立てられるのを感じていた。

 忌まわしい記憶、忘れていたい記憶。しかし、この機会にはっきりさせておいた方がよい。


 「お話があります」

 「はい」


 一輝は、きちんと座り直した。和影は、静かに伯父との間に起こったことを語った。伯父の子を妊娠し、堕胎したことも正直に語った。


 語りながら、一輝の顔色が変わっていくのを眺めていた。もう、お終いだ。あの力強く温かい腕に抱き締めてもらうことも、もうないだろう。でも、自分は守護人としての職務を最後までまっとうしよう。語るうちに、心の重荷が少し軽くなった。心の澱が、外に出すことで少し浄化されたらしい。


 「それ以来、私は男の人とそういうことをするのが怖いのです。ですから、その、佐治さんとも、何もしていません。今まで隠していて、済みませんでした」


 和影は本を脇に置き、手をついて頭を下げた。言いたいこと、言うべきことは終わった。後は審判を待つばかりだ。


 「他の男のことなんか、どうだっていい。それより、僕が和影を抱き締めた時、怖かったの? 本当は僕のこと、好きではなかった?」


 顔を上げると、一輝の悲しげな横顔が目に入った。打ちひしがれたように和影から顔を背け、ちゃぶ台の方を見つめている。和影は慌てて打ち消した。


 「いえ、そういう意味ではありません。一輝様をお慕いしていることは本当です。私は、人の腕があんな風に温かいものだということを、あの時初めて知りました。とても幸せでした。これから私が守護人として生きていくのに、大切な思い出としてしまっておきたいと思っております」


 「だから、嫌いじゃないなら、どうして僕達の関係を終わらせたがるのか、わからないよ。僕は、今の和影が好きだ。和影が僕を好きなのが本当なら、このままでいいじゃないか。和影が、その本にあるようなことをしたくないのなら、しない。子どももいらない。守護人としてでなく、結婚して一生側にいて欲しいんだ」


 「結婚、ですか」


 和影はあ然として一輝の言葉を繰り返した。頭の中を母や弟やお館様達が駆け巡る。いくら一輝が藤野家の当主であっても、それはできない相談である。


 「君は、民法の講義を聞いていなかったのか。結婚は、成人した二人の合意があれば、成り立つ。区役所へ行けばいつでも受け付けてくれる。証人だって、宮内や誰彼すぐにでも用意できるよ」


 呆然とする和影を、一輝の腕が包み込んだ。力強く、同時に優しい腕の感触が、和影の身体の力と思考力をも奪った。


 「愛している、和影」


 もしかしたら、一輝様は、私の心の底に淀む澱を全て浄化してくれるかもしれない。


 「和影。その、キスを、してみても……嫌ならしない」


 一輝が、おずおずと唇を重ねてきた時には、和影は怖いどころか、微笑ましく感じたのだった。



 夏休みに入るまでに、和影は自分の変化を認めざるを得なかった。


 人前では厳に慎んでいたものの、機会さえあれば一輝に触れたくてたまらなかった。幸い部屋が近いこともあり、一輝の部屋に入り浸って半ば同棲状態になった。


 勉強も面倒でならなかったが、一輝が手を抜かないので、一緒に励んだ結果、前期試験で単位を落す心配はなさそうだった。一輝は和影を大事にしたが、大学の勉強もおろそかにしなかった。


 「きちんと卒業して、一人前になったら誰にも文句は言わせない」


 口癖のように繰り返した。


 大学生活は順調に進んでいたが、夏休みに入ると和影は落ち着かなくなった。

 実家は杏次郎が就職して実質的にも代替わりし、安定した収入を元に農業の方にも手を入れて効率化を図っている。

 決して困ってはいないが、さほど余裕がある訳でもない。


 このままでは生活費に事欠くので、和影はアルバイトをしたいのに、一緒にいたいと一輝に止められたのである。

 和影の気持ちも同じではあるが、生活できなければ元も子もない。もう一つ、帰省の問題があった。


 例年通り、お盆の前後だけ帰省する予定である。実家で、一輝は二人の結婚についてお館様達に話をするというのである。まず順番として藤野家の意見を統一してから、青柳家に向かうというのが、一輝の考えだった。

 そう上手くいくだろうか、と和影は心配だった。


 生活費の方は、大体一輝の部屋で過ごし食事もまとめて自炊するので、当初思ったよりも掛からなかった。

 帰省の方は予定通り、重い心を抱えたまま、和影は一輝と共に電車に乗った。


 数日前から一輝は緊張から風邪でも引いたのか、体調が優れず、だるそうにしていた。

 和影は医者へ行くよう勧めたが、課題を優先して、時間をとらないまま、帰省の日を迎えたのである。

 車中、一輝は気を遣い、努めて明るく振舞ったので、和影は心配しつつ調子を合わせ、不安を表に出さなかった。


 駅には、いつも通り義父が自動車で迎えに来ていた。藤野家の門で自動車が停まると、一輝は義父に言った。


 「和影もここで降ります。青柳家には、後で顔を出しますから」

 「わかりました。当主に申し伝えます」


 義父は不審な顔もせず頷いた。自動車が走り去ると、一輝は和影の手に触れ、微笑みかけた。


 「僕がいるから、安心しておいで」


 藤野家の玄関に入ると、自動車の音を聞きつけたのか、お館様(やかたさま)が座って待っていた。和影の姿を見て、はっとする。

 しかし、言葉には出さず一輝へ視線を戻した。


 「おかえりなさい。道中長いから疲れているでしょうが、おばあさまもお待ちになっておられるから、まずはご挨拶なさい」

 「まず、お線香を上げてからにする。和影も上がるよ」

 「お邪魔致します」

 「どうぞ。お久しぶりね」


 仏間には、藤野家の先祖と共に、一輝の父と祖父の位牌が並んでいる。和影は一輝と線香を上げて手を合わせた。

 これからどんな事が起ころうとも、一輝様をお守りくださるようお願い致します。


 一輝の祖母、大お館様とは、和影はお館様以上に疎遠だった。守護人は御当代様個人に仕えるのであって、家門に仕えるのではない、とされていた。


 まして、一輝は高校入学と同時に家を出ており、尚更知る機会も少なかった。お館様に導かれ、一輝の後について大お館様の部屋へ入ると、ぼやけていた記憶の輪郭が鮮明になり、木彫り人形のような痩せた老女となって現れた。

 大お館様は、和影の姿を見て眉根を寄せた。


 「ご無沙汰しております。ただ今戻りました」


 一輝は大お館様と対座した。和影は一輝の後ろに正座し、黙って手をついた。お館様は、一輝と和影の横顔が見える位置で、脇に侍している。一輝が何も言わないので、大お館様は和影を無視して時候の挨拶などをかわした。

 一通りの挨拶が終わったところで、一輝が切り出した。


 「今日は、特別なお話があります」


 大お館様の顔が引き締まる。顔に刻まれた深い皺が一層寄って、陰影を濃くする。お館様が居住まいを正し、伏した目の端から和影を盗み見た。


 「僕の結婚問題について、おばあさまがご尽力してくださっているのは承知しておりますが、僕は自分で伴侶を選びたいのです。ここまでは、ご理解いただけますか」

 「それで」


 大お館様の表情は動かない。ひた、と一輝を見据えている。


 「僕は、青柳和影と結婚します」

 「一輝!」


 お館様が思わず叫び、両手で口を覆う。もともと白い大お館様の顔色が、紙のように白くなった。唇を半開きにしたまま、わなわなと全身を震わせている。

 と、その目が急に動いて、和影を睨みつけた。同時にばね仕掛けの人形のように勢いよく立ち上がる。


 「この泥棒猫! お前、守護人の本分を忘れたのみならず、藤野の当主を誘惑までしおったか!」


 座布団を蹴って和影に襲いかかる。老齢とは思えない素早い動きだった。

 きれいに撫でつけた白い髪が勢いでほつれ、さながら鬼女の如き様相を呈した。

 和影は緊張し続けた挙句の恐怖で咄嗟に動けず、立ち上がろうとして尻餅をついた。


 パシッ!


 和影の頬から乾いた小枝を折るような音がした。続いて振り上げられた痩せ枯れた腕は、一輝に押さえられた。


 「おばあさま、落ち着いてください。和影は悪くありません。和影は守護人として立派に務めを果たしていました。悪いのは僕です」

 「うるさい、男と女が一緒にいて惹かれ合うのは当り前じゃ。そこを何とかするのが守護人というに、この、不忠者っ! 一輝、放しなさい!」


 力任せに振り切った腕が一輝の顔に当った。痛さに声を上げながらも、一輝は手をを放さない。

 お館様も我に返り、止めに入った。和影は呆然として動けない。と、一輝の鼻から血が流れ出した。


 「一輝様、鼻血が!」


 大お館様の動きが止まる。一輝の身体から力が抜け、大お館様の身体から滑り落ちる。畳に崩折れた一輝の元へ、女三人が一斉に駆け寄る。


 「一輝!」

 「一輝様!」


 返事はない。意識を失っていた。

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