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一輝と和影  作者: 在江
第三章
20/23

5 告白

 佐治は連れていた若い女性をその場に残し、足早に二人に近付いてきた。一輝が、すっと前へ出た。


 「何や。お前ら出来ておったんか。危うく美人局(つつもたせ)させられるところやったわ。立派な犯罪やで。訴えたろうか」

 「佐治さんが訴えたいのなら、邪魔をするつもりはありません。しかるべき手続きを踏んでください。こちらも、法に基づいて対応します」


 一輝は落ち着いた様子で答えた。佐治の目が嫌な光を放った。


 「藤野。お前、そいつをやたら庇うがな、もう俺が摘んじまったんや。生娘ちゃうんやで」


 嘘である。和影はかっとなった。凍った足はたちまち解けて、前へ出ようとしたが、一輝の手がしっかり和影の腕を掴んでいて、出られなかった。口を開いた一輝は、あくまでも平静だった。


 「処女性を重んずるのは、基督教の考えです。僕は基督教徒ではありません。その基督は、娼婦であったマグダラのマリアを許しました。人間の価値は、性行為の回数で決まる訳ではありません」


 「うるせえ。御託(ごたく)を並べとらんと、金を出しや。俺がその女に貢いだ分をよこしやがれ」

 「法律に基づいて手続きを踏んでください」

 「なんやと」


 佐治がじりっ、と間合いを詰めた。一輝は引かない。和影の腕を放し、僅かに四肢を動かすと、自然に立っているように見えて、いつでも攻撃できる型がぴたりと決まった。


 佐治も武術の心得があるのか、一輝の構えに気付いて足を引いた。それで勝負は決まったようなものだった。

 ちっ、佐治が派手に舌打ちした。


 「今日はこの辺で勘弁したるわ」


 大声で言い捨て、連れの若い女性の元へ戻っていった。一輝はその背をじっと見つめ、姿が消えるまで動かなかった。


 「一輝様、私は」

 「うん?」


 振り向いた顔は、柔和な表情である。和影は佐治とは何もなかった、と言おうとしていたのだが、言葉に詰まった。

 佐治が言った通り、和影は生娘ではないのである。相手が誰でも同じことであった。

 一輝は和影の様子を佐治に脅かされたせいと考えたのか、和影の手を引いて木陰に座らせた。


 「落ち着いて。しばらく休もう」


 並んで座っていると、実際放心状態だった和影の心に、じわじわと暗い思いが広がってきた。反射的に立ち上がる。一輝も、ぱっと立った。


 「申し訳ございません。私、御当代様に御迷惑ばかりかけて、守護人失格です。もうお側にお仕え出来ません」


 頭を下げたまま、和影は言った。答えはない。風が木の間を渡る音が耳につく。頭を上げると、一輝と目があった。無表情である。脅かされている訳でもないのに目が離せない。いつぞやの厳しい目で見られた方がましだった。


 「和影が守護人を辞めたら、誰が私の守護人になるのだ」

 「そ、それは……」

 「代りがいるのか」

 「……いえ」

 「私としては、和影に守護人を辞められるのが最大の迷惑だ。それでも辞めたいか」

 「……」


 一輝は和影から目を逸らし、細くため息をついた。


 「辞めたいのなら、仕方がない。私に止める権利はない」


 和影の側を通り抜けた。そのまま一輝は去ろうとしている。和影は混乱した。

 何故守護人を辞めるなどと言い出してしまったのだろう。一輝が引きとめてくれると内心期待していたのではないか。一輝は引きとめなかった。


 守護人がいなくても、御当代様は立派に生きていくことができる。和影が守護人を辞めたら、その先をどう生きれば良いのだろう。


 これまで散々、一輝の寛容さに甘え、武芸の稽古や御当代様の警護といった務めに手を抜き、浮いた時間で好きなように遊んできたにも関わらず、和影はいざ守護人を辞めるという事態に直面し、自分でも信じがたいほどに動揺していた。手抜きができるのは立場があってこそ、守護人を辞めて困るのは、和影の方だった。


 一輝がいなければ、今の自分はない。伯父に犯された時も、一輝の側に仕えるという責務が、和影を起き上がらせた。佐治の手から逃れたのも、一輝の側にいたからだった。和影は、既に遠くなった背中に向かって叫んだ。


 「お待ちください」


 同時に走り出した。歩み去る背中に追いつこうと、必死に走った。大きくなる背中の歩みが止まった。和影は痛むわき腹を押さえ、息を切らしながら背中に訴えた。


 「わ、私が、ま、間違って、おりました。ど、どうか、守護人として、お側に、置いて、ください」


 返事はない。急に止まったので、心臓が波打っている。こんな時にも、鍛錬不足を思い知らされるが、取り繕う気力もなかった。

 手をついた方が楽になれる気がして、和影は地面に手をついた、つもりだったが、地面に手が届く前に視界が暗くなった。


 「無理をするな。和影が守護人でいたくないのなら、僕が祖母たちと青柳家を説得する。もっと早くにそうすべきだった。和影もこんな生活は辛かったろう。引き留めるような事を言って済まなかった」


 視界が暗くなったのは、一輝が和影を抱きとめているからであった。和影は一輝の胸に顔を埋めたまま、戸惑う。心臓はまだ早鐘を打っていたが、走ったせいなのか自分でもわからなかった。


 一輝の腕は温かく、心地よかった。


 小さい頃から、和影はこんな風に抱き締めてもらった記憶がなかった。物心ついた時には、伯父の影久が和影の養育係として厳しく鍛錬を課し、無意味に肌に触れることはなかった。あの時を除けば。


 長じた後も、せいぜい手を握られる程度の経験しかなかった。

 しかも伯父との忌まわしい交渉以来、抱擁など考えるだに怖気(おぞけ)を震うことだったのに、今、和影は一輝の腕の中で安心していた。


 和影から身体の力が抜けた。抱き締められる腕に、力が篭るのがわかった。暫くして、腕の力が緩められた。


 一輝の心地よい感触を身体に残したまま、和影はぼんやりと顔を上げた。一輝の真面目な顔がすぐ近くにあった。また心臓の鼓動が早まるのを感じた。


 「それで、和影は本当は、何をしたいの?」


 はっと目が覚めた。身体に力が入ったのがわかったのか、一輝の腕が和影の体から滑り落ちる。思わず和影は一輝にしがみついた。大きく見開かれた一輝の目に緊張が走った。


 「違うのです。私は、一輝様のお側にいたいのです。辛いことは確かにありましたが、一輝様がいらしたから、今まで生きてこられたのです。一輝様こそ、私にお気遣いなさらずに、ご自分のお好きなことをなさってください」

 「僕は、僕は……」


 再び和影は一輝の腕の中にいた。心臓が高鳴る。自分のものではない鼓動も感じた。


 「……和影が、好きだ。当主になった時から、ずっと好きだった。だから僕は、和影に好きなことをしてもらいたい」


 急に和影の身体は引き離された。両腕を掴まれ、正面から目を覗きこまれた。


 「和影は、僕のことを男として、どう思っているの? 正直に答えて欲しい」


 和影の脳裡を、過去の記憶が次々と走り抜けた。和影の恋愛感情を、当の和影よりも早く言い当てたこと、入間や高校の同期生、そして佐治に恋人と誤解されても解こうとしなかったこと、女性の影を感じさせなかったこと、全ての記憶が、一輝の告白で新しい光を当てられた。


 では、和影は一輝をどう思っているのか。御当代様(ごとうだいさま)として、一輝を敬愛している。それは間違いなかった。しかし、一輝が今聞いているのは、そんな事ではない。


 恋愛感情。これまで御主人様として崇めてきた人を男性として見られるか。


 嫌いではない。答えを待つ一輝の目が、初めて見る気弱さを湛えていることに、和影は気付いた。

 すっかり忘れていたが、一輝は和影より二つも年下だった。やはりこの人を守るのは私の役目だ、と和影は思い、気持ちが定まった。


 「私も、一輝様をお慕いしております」


 嘘ではなかった。答えを聞いた一輝が幸せそうに微笑むのを見て、和影も幸せな気持ちになった。



 それから一輝は、勉強熱心なのは相変わらずだったが、休日には時々和影を連れて気分転換に出掛けるようにもなった。平日の夕食も、部屋に呼んで二人で一緒に取った。宮内が時々遊びに来ると、夕食は三人になった。


 「義姉さんはきれいになりましたね。最近良いことがあったのですか」

 「僕にも良いことがあったよ」


 一輝がにこにこしながら言うと、宮内は大きく頷いた。


 「そうか。藤野くんの気持ちがやっと通じたのか」


 宮内は同じ下宿の頃から、一輝の良き相談相手だったのだ。和影は宮内から実家へ話が漏れないか、心配になって後で一輝に聞いてみた。


 「彼は信用できる」


 というのが一輝の返事だった。実際、藤野家からも青柳家からも、その件に関して音沙汰はなかった。



 夕食後、一輝が皿洗いをする間、和影はテレビを見るのが常だった。

 梅雨時で狭いアパートは湿気がこもりがちで、団扇(うちわ)を使っても肌にまとわりつくようだった。


 昼間の実験で肩が凝って(あお)ぐにも疲れて伸びをすると、腕が後ろの本棚に当り、積んであった本がどさどさと落ちてきた。


 慌てて棚に戻す。一輝は本棚をきちんと整頓する性質である。棚は二段空いていて、参考書の棚と小説の棚が崩れたらしく入り混じっていた。


 和影は自分では小説を読まない。芥川竜之介、とか太宰治といった名前は教養として知っているものの、教科書や試験に出たことしか記憶にない。


 周りに残った本から推測して、本を並べ直しながら、まとめて棚に戻した。最後の小説の山を戻そうとした時、ふと残っている小説の裏から、向きが変わった本が覗いているのに気付いた。

 崩れた時に位置がずれたのかと思い、取り出す。手に力が入った。

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