4 杏次郎の結婚
杏次郎と宮内初子の婚礼は、翌年の三月に行われた。
青柳家の菩提寺で式を執り行い、その後家の座敷で披露宴が行われた。
年老いたお甲だけでは人手が足りず、近隣から手伝いの人を何人か頼んで膳の仕度をした。
和影も裏方の手伝いに帰宅した。学部に進級するため引越の準備もあったが、春休み中でもあり予定をやりくりしたのである。
一輝は青柳家の主家に当るので、主賓として宴の方に出席していた。宴には、向坂家から玄梅と玄一も出席していた。玄一も秋には結婚するということだった。
伯父も出席していた。和影には関心のなさそうな風で、他の客と挨拶を交わしていた。伯父の無関心は、和影には幸いだった。
裏方は目の回るような忙しさで、食事をとるのを忘れるほどであった。
式は滞りなく終わり、宴も賑やかに進んでいる。お甲や近隣の人に混じって立ち働きながら、和影は新郎新婦をそっと眺めた。
杏次郎は四月から町の役場に就職が決まり、妻も迎えて記憶にあるより大人びて見えた。やや緊張気味である。
和影が初めて見る新婦の初子は、日本髪のよく似合う物静かな印象の娘で、まだ高校生のあどけない表情を残していた。祝い酒を飲まされたのか緊張しているのか、頬が上気して赤味を帯びているのも初々しい。
新郎新婦はお互いを気にかけながら時折言葉を交わしている。伯父が勧めたというので、互いに意に染まない結婚だったのではないかという和影の心配は、ひとまず消えた。
宴がお開きになって和影は座敷の片付けに追われた。新郎新婦は着替え終わったら、町の方で互いの友人達が開いてくれるというお祝いの会に出席し、そのまま新婚旅行に出発することになっていた。
「新婚旅行か」
杏次郎と初子が羨ましかった。和影は自分の好きなように旅行をしたことがない。今は東京にいて、最近まで好きなように遊んできたが、それは散歩みたいなものである。
一輝が大学を卒業後に帰郷するつもりであるのは聞いている。和影も実家へ戻らねばなるまい。一輝も結婚すれば新婚旅行に出掛けるだろうから、和影も一緒に行くことになるが、それではつまらない。
若様が生まれて、十歳になったら引退して、その後自分はどうなるのだろう。
仕事もなく、結婚もできないのなら、生きていても面白くないのではないだろうか。和影は、歴代の守護人達が引退後にすぐ死んでしまう理由がわかったような気がした。彼らは生きる気力をなくしたのだ。
自分はどうなるのだろう。少なくとも、死ぬ気だけはない、と和影は思った。
次の日は、一輝の家に泊まった宮内も一緒に、三人で帰京することになった。駅へ向かう車中、一輝はずっと不機嫌そうな顔をして黙っていた。電車に乗るや否や、宮内が口を開いた。車内は春休みを楽しむ親子連れで賑わっていた。
「これで僕らも兄弟ですね。和影さん、とお呼びしてもいいでしょうか。それとも、義姉さんの方がいいでしょうか」
「……では、後の方でお願いします」
「嬉しいな。僕、義姉さんが欲しかったのです。これから宜しくお願いします。ところで藤野くんは、ご機嫌斜めだね。昨日のお嬢さん達が気に入らなかったとみえる」
「他にもお客様がいらしたのですか」
「見合いをさせられた」
一輝が不機嫌な顔のまま答える。宮内は面白そうに解説した。
「お祖母様が、お友達を呼んで茶会を開いていましてね。それが皆妙齢の娘を連れて来ているのです。藤野くんが入っていったら一斉にそわそわし始めて、傍で見ていて噴き出しそうになりました」
一向に結婚する気のない一輝に、大お館様が痺れを切らして嫁探しを始めたのだ。青柳家の継主が結婚した焦りもあろう。もう大学も三年生になるし、確かにそろそろ始めてもよい頃合である。
とはいえ、大お館様が連れてきたのは恐らく地元の娘だろうから、東京にあと二年余り住む予定の一輝に紹介するのは少々強引である。
互いに理解を深めるためには、距離が遠すぎる。家を継ぐための結婚に、親睦などいらないのかもしれない。
それにしても一輝はどんな女性が好みなのだろうか。和影はこれまで一輝に女性の影を感じたことがないことに、漸く気付いた。
和影にしても、男性と関わった時には一輝に内緒にしていたのだから、向こうも隠しているだけかもしれない。御当代様の女性関係に気付かないようでは、守護人失格である。探りを入れる必要があった。
「一輝様には、きっとどなたかお心に決めた方でもいらっしゃるのでしょう」
「へえ、浮いた噂は聞いたことがないですよ。第一、義姉さんがいつも側に侍っているから、誰も付け入る隙がないじゃありませんか」
「宮内、口が過ぎる」
表情を変えずに、一輝が言った。とても静かな口調だったにもかかわらず、宮内は叩かれたように口を噤んだ。
和影は、一輝が十歳になった正月の儀式を思い出した。まだ子どもにしか見えないのに、藤野家の当主としてふさわしい威厳が備わっていた。
御当代様はそれから着実に当主としての道を歩んでいる。それにひきかえ自分は、あの頃から全く成長していないのではないか、和影は自らを省みて密かに落ち込んだ。
三年生に進級した和影達は、学部のある町へ引っ越した。今度も一輝は和影と同じアパートに住むことになった。
閑静な住宅街から、出版社や医療機器などの小さな会社がひしめきあう活気のある場所へ移り、同じ東京でも色々な顔があることを学んだ。
農学部は大学の広い敷地の中でも、道路を挟んだ飛び地の方にあり、授業を受ける分には他の学部の学生と行き会うことはほぼなかった。
密かに佐治と出くわすことを恐れていた和影は、学部の様子を見取って安堵した。学部に進級すると、実験の授業や実験の課題が格段に増え、和影も一輝も実験室に篭る時間が多くなった。
自宅ではできない課題をこなすため、休日も大学で過ごすことがあり、三年生になってからは一輝に隠れて異性と付き合う暇はなかった。
一輝は相変わらず時間割を一杯に埋めて勉強に励んでおり、和影が気をつけて見ていても、異性の影をまるきり感じさせなかった。
大学本部のある敷地には医学部附属病院や歴史的建築物もあるため、学生だけでなく老若男女も行き交い、大学自体がひとつの町の様相を呈していた。
普段食事に行く時や休日に本部の方へ足を踏み入れると、恋仲らしい男女の姿をちらほら見かけた。課題がうまくいかない時に互いの世界に浸る男女を見ると、和影などはいらいらしたが、一輝は気に留める風もなかった。
「一輝様は、勉強ばかりしていて楽しいのですか」
つい聞いてしまった。その日も天気のよい休日なのに、課題をこなすために朝から実験室へ篭り、当分終わりそうにないので昼食を取りに一旦外へ出たところだった。
正門の前の定食屋は、休日をのんびり過ごす恋人達が狭い店内を占領し、遅い昼食を取りながら熱い空気を周囲に発散させていた。大学の食堂は閉まっているので、他へ行くことになり、空腹もあって和影はいらいらしてきた。
気持ちが表情に出たのか、一輝は驚いたように和影の顔を見つめた。
「楽しいばかりではないよ。和影は大分疲れているみたいだね。とにかくお昼を食べてしまおう」
少し歩き安い店を見つけて昼御飯を済ませると、和影の気持ちも落ち着いてきた。一輝が勉強は楽しいばかりではない、と言ったのもよかった。
また実験室へ戻る気力が湧いてきて、店の外へ出て深呼吸をしていると、一輝が急にこんなことを言った。
「今日は、これから何処かへ遊びに行こうか」
「え、でも課題はどうするのですか」
「明日また続きをすれば間に合うよ。こっちへ引っ越してから、和影は休日も僕に付き合ってろくに休んでいないでしょう。たまには気分転換をしないと、卒業まで持たないよ」
確かに、学部へ来てからは一人で遊びにいくこともなく、大学と部屋との往復ばかりだった。
ただし一人で遊びに行かないのは、佐治との件以来、町で男性に会って同じことになるのを恐れて自分から控えているのであり、別に一輝のせいではなかった。
しかし、一輝が遊びに行こうと言うのであれば、和影には止める理由はなかった。
坂を下って歩きながら話をしていると、公園まで出てしまい、結局動物園に行くことにした。
和影も一輝もパンダを実際に見たことがなかったので、辛抱強く行列に並び、ガラス越しに笹を食べる巨大な白黒熊を見た。中国語では、大熊猫というそうである。
他にも、首の長い麒麟や鼻の長い象や、孔雀やライオンなど、珍しい動物が次々と現れて、和影を魅了した。
動物園の中は広々として、檻から檻へ歩くにも時間がかかったが、和影は疲れを感じなかった。鮮やかな朱色をしたフラミンゴの群れも、空を飛べないペンギンも、見ていて飽きなかった。
「ああ面白かった。世界には本当に色々な生物がいるのだね」
「ええ。とても楽しゅうございました。今日はありがとうございました」
いらいらした気持ちはすっかり消えて、和影の頭の中は動物園で見た駱駝や虎や何やらで一杯だった。二人は午後の日差しも傾いて、人影もまばらになった大学構内を横切っていた。このまま帰るつもりだった。
「よう。青柳ちゃん。元気そうやな」
和影の足が凍りついた。聞き覚えのある声は、佐治だった。




