3 雪の日曜日
佐治と和影が時々会うようになったのは、夏休みの最後の方であった。
夏休み中、和影は帰省期間中を除いて、出来たばかりのイタリア料理店でアルバイトをしていたのだが、そこへ佐治が女性と二人連れで食事をしにきたのである。
佐治はすぐに気付いて目配せしたので、和影も心得て知らぬ振りを通した。翌日、佐治は一人で店へ来た。
「昨日はありがとうな」
「きれいな人でしたね。恋人ですか」
「まさか。同志や、同志。ところで、仕事は何時に上がるんや。飯おごったるさかいに」
「いいですよ、別に。予定がありますし」
「ほな、何日なら空いているんや」
「月曜日の夕方なら、多分……」
「よっしゃ。月曜日やな。ほな、月曜日の正午に、ハチ公前で待ち合わせや」
「あの……」
「うまいもん食わしたるで。ほな、月曜日にな。ごちそうさん」
そう言って、佐治は水だけ飲んで席を立った。アクの強い関西弁でまくし立てられて、勢いで和影は食事の約束をしてしまった。
当日、食事に誘った佐治は、待ち合わせの時間に三十分も遅刻した。
和影は空腹と暑さでいらいらしていたが、佐治が関西弁でまくし立てる言い訳が余りに阿呆らしくて、つい笑って許してしまった。
佐治が連れて行ってくれたのは、本格的インドカレーの店で、初めて食べる料理だった。今までに経験したことのないような不思議な味で、しかも美味しかった。
膨れた腹を抱えて街中をぶらぶら歩き、プラネタリウムを見に行った。これも和影には初めてだった。東京は夜も明るすぎて、実家にいる時のように星空を満足に見ることができなかったのが、昼間から解説付きで星を見られる場所があるのは驚きだった。
プラネタリウムの上映中、佐治は肘掛ごと和影の手を握り締め、和影は反射的に手を引っ込めた。プラネタリウムが終わって外に出ると、まだ辺りは午後の明るさで、今までのことが夢の中のように感じられた。
佐治は手を握ったことについては触れずに、相変わらず面白いことばかり話して、和影を笑わせた。
夏休みが終わると、佐治と和影は日曜日毎に会うようになった。都合の悪い時には、和影が外の公衆電話から佐治の部屋へ電話をかけた。
和影は佐治と付き合っていることを、一輝に知られないように気を遣っていた。佐治から付き合ってくれ、といわれていないので、付き合っている訳ではない、と自分に言い聞かせていたが、その実これが付き合っている状態であることを自覚していた。
一輝が和影の恋愛について咎め立てするつもりがないのは知っていた。むしろ、和影が守護人を引退した後、佐治と結婚できるように計らいさえするだろう。
しかし、和影は佐治と結婚までは考えていなかった。引退した後、どうせ長生きはできないのに、遠い大阪まで嫁入りする気はなかった。
佐治は、女性一人では入れそうにない店を沢山知っており、いろいろな所へ連れて行ってくれる。和影は楽しかった。
今や佐治は出掛ける時には和影の手を握っているが、それも気にならなかった。
ある日曜日、和影と佐治が映画館から出ると、外は珍しく雪が降りしきっていた。
「ひどい雪やなあ。少し飲みながら、止むのを待とうや。近くにええバーがあるから、連れてったるわ」
佐治は、雪から和影を庇うように肩に手を回しながら誘った。下宿にいた頃と違い、和影は佐治と出かけるようになってからまだ一度も酒を酌み交わしていなかったので、喜んでついていった。
行った先は、洒落た雰囲気の店で、メニューには、マティーニとかスクリュードライバーとか、聞いたこともない名前の飲み物が並んでいて、何を注文したらよいのかわからず、佐治に任せた。
佐治はカラフルで甘い飲み物を次々と勧め、和影は勧められるまま飲み干した。皆ジュースのようだった。
暫くして、急激にめまいを感じた。
「帰ります」
「えらい酔うたな。送るわ」
「え、駅まででいいでふ」
「ろれつ回ってへんで」
断ってふらふらと席を立った。電車に乗ると気持ちが悪くなり、何度も途中下車してベンチで気分を落ち着けた。
雪は小止みになっていた。何とかアパートまで帰りついた。部屋の鍵が入らない。誰かが開けてくれた。
玄関へ倒れ込む。板の間のひんやりとした感触が心地よい。まだふわふわする。身体が熱いので、襟に手を入れる。
靴と上着を脱がされて身体が軽くなる。脇で布団がばたばたする。煩いと思っているうちに、自分が布団に寝かされた。唇に柔らかい感触。太腿の内側に、自分のものではない手が滑った。
「あっ」
一気に目が覚めた。起き上がる目の前から佐治が素早く身をかわす。
吐き気がこみ上げてきた。和影は猛然と佐治を押しのけ、部屋の外へ出た。
アパートはどこもそうだったが、ここの便所もまた共用だった。ひたすら便所で吐き散らし、口をゆすぎついでに洗顔もすると、気分が少しすっきりした。
汚れた便器を簡単に掃除し、部屋へ戻る。佐治が部屋で煙草を吸いながら待っていた。灰皿がないので、手を伸ばして流しに灰を落している。
和影は不安を顔に出さないよう努めながら、まず送ってきてもらった礼を言った。佐治は立ち上がり、吸殻を流しの底で押し潰した。
「吐いたら気分もすっきりしたやろ。ほな、一発やろか」
「一発って……」
意味するところはわかりすぎるくらいわかっていたが、和影は佐治がそんなことをいうとは信じられず、オウム返しに佐治の言葉を繰り返し、入ってきたままの恰好で玄関に突っ立っていた。佐治の表情が曇った。
「何や。二十二歳にもなって、そんなことも知らんのか。ええか。男が女に飯おごったり酒おごったりするのは、セックスしたいからや。今は男女同権の社会や。金払わんのやったら、代りに身体でももらわな同権とはいわへん。今までさんざんおごらせておいて、お前もそのつもりやったんと違うか? 俺も別にお前と結婚するつもりはないねん。遊びや遊び。一発でええねん。大したことないやろ。みんな、そうしとんのや」
和影は世間知らずの自分を呪った。佐治の言うことの真偽はともかく、和影は誰とも性交する気はなかったし、まして結婚する気もない男と身体を交わらせるつもりなど毛頭なかった。
考えるだけで身震いした。玄関脇に、和影のバッグが投げ出されていた。
紐を掴んでバッグを引き寄せ、財布からありたけの札を取り出して佐治に突き出した。佐治が目を丸くする。
「今あるのはこれだけ。足りなければ、後で請求して。これを受け取ったら出ていってください。もう二度と会いたくありません」
「そんなはした金で足りるか。一発やった方が早いわ」
佐治が近寄り、腕を掴もうと手を伸ばした。和影は投げ飛ばそうと身構えた。
コンコン。ノックの音がした。二人共、はっとした。
コンコン、コンコン。ノックは繰り返される。和影は、佐治を警戒しながらドアを開けた。
「夜分に失礼します」
一輝が立っていた。和影を通り越して佐治の方を見ている。和影が見たこともないほど、厳しい顔つきだった。佐治は突然の一輝の出現に驚いたのか、無言である。
和影は身体の向きを僅かに変え、佐治の様子を窺った。やはり面食らっている。
「佐治さん、こんな夜中に女性の部屋で何を揉めているのですか。警察を呼びますよ」
警察、と聞いて佐治の顔色が微かに変わった。
「犬め! こんな女、俺の方から願い下げや」
和影から札束をひったくり、靴を突っかけざまに出て行った。その後姿を見送って、一輝が厳しい顔付きのまま、和影に視線を移した。
「全く、君という人は困ったものだ」
「すみません」
謝るしかなかった。正直なところ、ここ数年武道の鍛錬を怠っている。佐治の力に対抗できる自信はなかった。伯父との忌まわしい記憶が蘇り、和影は再び吐き気を催し、流しで吐いた。
流しには佐治の残した吸殻がそのままになっており、煙草の残り香が更なる嘔吐を起こさせたが、吐いても吐いても苦い胃液しか出てこなかった。
和影は流しの縁に胃を押し付け、身体を折り曲げるようにして吐き続けた。気が付くと、一輝が背中をさすっていた。
吸殻はいつのまにか何処かへ片付けられている。和影は蛇口をひねって口をすすぎ、手の甲で唇を拭った。
「もう、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
一輝は手を離していた。厳しい表情は消えている。
「今日はもう寝なさい。もうあの男は戻ってこないと思うけど、戸締りには気を付けて」
「はい」
とても眠る気にはなれなかった。しかし、一輝にこれ以上迷惑をかける訳にもいかなかった。
後で聞いたところによると、佐治は女たらしで有名で、学生運動を熱心に行っているうち思想団体にのめりこみ、今では学生の勧誘係を請け負っているらしかった。
和影は佐治との件に懲りて、それからは休日も一人では出歩かないようにした。




