2 東京オリンピック
迎え盆、送り盆と過ぎる間、和影は伯父にも一輝にも会わなかった。
伯父のいない実家の生活にも慣れてきて、和影は心の底に小さな警戒心を残しつつも、大方くつろいで過ごした。
東京へ戻る日は、来た時と同様に義父が車で駅まで一輝ともども送ってくれた。
電車は空いていて、和影も一輝も座ることができた。二人共、来た時よりも荷物が増えていた。各々の母が、家の野菜や何かを持たせたのである。道中、一輝は実家で聞いた噂の数々を披露した。和影は何の気もなしに聞き流していた。
「片瀬先輩が結婚したそうだ。学校の先生になるのは諦めたらしい」
中学生の時に和影がほのかな恋心を抱いた片瀬は、教師を目指して地元の大学へ進学したものの、家庭教師の教え子と恋に落ち、退学結婚したという。
教え子が妊娠している、とまでは一輝は言わなかったが、和影には容易に想像がついた。片瀬との淡い思い出も遠い過去として、和影の耳元を通り過ぎて行った。
「お見合いさせられるところだったよ」
「え」
和影は一輝の顔を見た。一輝は開け放した窓から外を眺めて目を細めている。風が、一輝の髪をなびかせていた。
「祖母が熱心でね。僕はまだ早いからと断った」
「そうですか」
和影は、何と答えたらよいかわからなかった。藤野家としては、早く後継ぎが欲しいところである。しかし、ここで一輝が結婚したら、東京で学生生活は送れまい。必然的に和影も実家へ戻ることになる。
お盆に帰省するのとは訳が違う。和影は東京の生活が気に入っていた。勉強も面白いが、遊びに行きたい場所もまだ沢山ある。守護人としては、御当代様の意向に従うしかないのだが、一輝が断ったと聞き和影は安堵した。
結局テレビは買わなかった。生活費に回した方がよい、と考えたのである。大学には学生の生活に不便がないよう、書籍や食料品まで売っている他、安い食堂もあり、テレビが備え付けてあった。
オリンピックが始まったら、和影は食堂のテレビと一輝の下宿にあるテレビを見せてもらうことにした。
選手村が大学の近くに出来たせいもあって、開幕が近付くにつれ学生の間でもオリンピックの話題が盛り上がってきた。時々オリンピックの話題で脱線する授業もあった。
当日は前日までの雨が嘘のように晴れ渡り、開幕にふさわしい日となった。
和影は一輝の下宿に行って一緒にテレビを見せてもらった。他にも下宿している学生がそれぞれ知人を連れてきていたので、気兼ねなく観戦できた。
どこへ行ってもオリンピック三昧だった。授業が終わってから下宿に行く途中でも、必ずどこかでオリンピックの番組や話題を見聞きした。体操競技が行われた時は、教授達も落ち着かないらしく、臨時休講まであった。
食堂のテレビはいつ見てもオリンピックの番組を流していた。日本はあちこちで活躍し、和影は夢中になってテレビとラジオにかじりついた。
一輝も、オリンピックの期間中は図書館での勉強をなしにして、一緒にテレビ観戦をした。下宿に連日通う和影は、たちまち下宿の学生達に顔を覚えられた。一輝を含め四人しかいないので、和影も学生達の顔を覚えることになった。四人共、同じ大学に通っている。
宮内は文学部を志望し、テレビよりも読書が好きな性質で、同じ高校の出身ということもあって一つ年下になる一輝と気が合うようだった。田中は医学部志望だが、ほとんど留守で、顔を合わせる機会も少なかった。佐治は関西出身の法学部志望の学生で、田中と同じ二年生だった。
佐治は賑やかなことを好み、下宿に友人を連れてきて食堂で宴会をした。和影はここで酒を覚えた。佐治は未成年の一輝にも酒を勧め、一緒に飲んだ。
一輝は余り酒に強くないらしく、周囲に酒を勧められても適当にあしらって自分のペースで飲んでいた。オリンピック開催中は、テレビ観戦していると、佐治が連れてきた友人との宴会に巻き込まれた。
宮内は最初のうちは一緒に宴会にいるのだが、夕食をとり終わるといつの間にか自分の部屋へ戻っていて、最後に残るのは和影と一輝とへべれけの佐治であった。
佐治は和影を酒豪とみて気に入ったようであった。マラソンが行われた日には、一緒に授業をさぼって沿道まで見に行ってくれた。珍しく一輝も授業を欠席してついてきた。
競技場に近い沿道は既に鈴なりの見物人がいて、三人は人垣の後ろから伸びをしながら道路を眺めていた。佐治がラジオを担いで来て、実況中継を聞きつつ様子を見ていた。
「来るぞ」
人垣が沿道にはみ出さんばかりになった。やがて上空からヘリコプターの音が近付き、人の波がこちらに動くのが見えた。見物人達はどよめいた。
先頭を切っているのは裸足で走っている黒人だった。人々は拍手を送って続く選手を待った。
暫くして日本人選手がきた時には、見物人達から割れんばかりの拍手と声援が湧き起こった。
和影は佐治のラジオから聞こえる実況中継に興奮し、飛び上がって沿道を見ようとしたが、人の頭ばかりで見えなかった。その時一輝が、
「背負おうか」
と言った。和影は考える間もなく一輝の背に乗った。かろうじて走り去る日本人選手の後ろ姿が、他の選手に紛れながらも見えた。
大声で声援を送った後、和影ははっと我に返った。
「す、すみません! 降ります」
慌てて一輝の背中から降り、蒼くなって頭を下げた。佐治は目を丸くして二人を見ていたが、詮索はしなかった。
翌々日、今度は女子バレーボールの決勝戦が夜にあった。生中継とあって、和影はわくわくしながら一輝の下宿へ行った。
既に佐治とその友人達が酒盛りを始めていて、和影の姿を見ると歓迎の乾杯をし、コップを呷った。一旦部屋へ戻った一輝が宮内を連れてきた時には、和影にも酒が入っていた。
決勝戦は盛り上がり、宴会も盛り上がった。最終的に日本がソ連に勝ったので、勝利の酔いもあって宮内までも一緒になって宴会を続けた。
そこへ田中が帰ってきた。騒いでいる一同を呆れたように眺め、急に憤ったように一喝した。
「君達、そんな馬鹿騒ぎをしている場合じゃないんだぞ!」
静まりかえった一同を尻目に、さっと自分の部屋へ引き揚げてしまった。一同は酔いも冷めて、無言で食堂を片付け出した。テレビの中には、未だ勝利に酔いしれる競技会場があった。
しばらくすると、田中が下宿から出て行ったまま、帰ってこなくなった。佐治によると、田中は学部内の揉め事で何やら動いているらしかった。
年末年始にも一輝が帰郷したので、和影もお供した。
元旦には一輝は成人式に出席し、成人代表として挨拶をした。父兄に紛れて見ていた和影に、感慨が湧いた。思えば自分が成人を迎える年には、実家へ戻らず式を欠席していたのである。一輝の成人式を見て、自分も漸く成人したような気持ちになった。
和影には政治や思想のことはさっぱりわからなかった。理解する気がなかったと言ってよい。時折、急に休講になることがあると、一輝は急に空いた時間を図書館で自習して過ごすことに費やし、和影も一緒に勉強して試験を乗り切った。試験がないまま終わる講義もあった。
三月の末、一輝は引越をして、和影と同じアパートに来た。下宿の大家さんが年明けに急逝し、遺族が下宿を閉めることに決めたのである。
田中は年が明けても戻らないままで、家族が上京して荷物を引き揚げた。佐治は無事進級し法学部のある方へ引っ越し、宮内はやはり賄いつきの下宿を探して引っ越した。
一輝は大家さんの家族に交渉して、食堂にあったテレビを安く売ってもらった。それを和影に譲ろうとしたので、和影は驚いて断った。
「でも僕、別に見ないから」
「家にあると、勉強を忘れて留年しそうです」
「じゃあ、僕の部屋に置いておくから見たい時は来なさい」
「はい」
と、和影は答えたが、なかなか行けるものではなかった。賄いはなくなったが、学生生協が充実しているお蔭で、一輝は食堂で食べる他に食品売り場で惣菜を買ったりして上手に過ごしていた。
和影は時々煮物などを多めに作ってお裾分けをした。一輝は喜んで持ち帰った。
そのうち、少しずつ料理に興味を示し、おかずの作り方を和影に聞くようになった。夏休み前には、手料理をごちそうするからと部屋に呼ばれた。
和影もおかずを持って訪ねると、部屋には宮内も来ていた。小さなちゃぶ台の上には一輝作のひじき煮や、にら玉などが並んでいる。
予想していたよりも美味しかった。
宮内も美味しい美味しいと言いながら食べていて、一輝は嬉しそうに自分も箸を運んでいた。
「佐治さんが青柳さんとまた一緒に飲みたい、と言っていましたよ」
「佐治さんと会ったの?」
一輝が箸を置いて尋ねる。宮内は首を振った。
「佐治さんの後輩の長尾って奴が、僕と同じサークルなんだ。法学部生を集めた飲み会があったらしい。ところで、青柳さんには、杏次郎くんという弟さんがいませんか」
「はい、おります」
和影も箸を置いた。突然出てきた弟の名前に戸惑いを覚えた。宮内は二人の様子を見て慌てて説明した。
「そんなに緊張するような事ではありません。僕の妹に初子というのがいるのですが、見合い話が持ち上がっておりまして、お相手が青柳杏次郎くんというのです。同じ出身地で名字も同じなので、もしやと思ってお聞きした次第です。いや、世間は狭いですね。初子はまだ高校生なので、卒業するまで式は挙げないと思いますが、うちの両親は乗り気でして。何でも、父が青柳さんの伯父さんと同じ高校で後輩に当るとか。どうしました? 顔色が優れないようですが」
「いえ、何でもありません。本当に世間は狭いですね。これも食べていいですか」
「ああ、どうぞ。ところで宮内くんは、青柳家の慣習は知っているの?」
「ええ、藤野くんとも関係のあることでしょう。先祖代々禰宜をしていたから、もちろん知っています。もっとも家は分家だけど」
食事は続けられたが、話は弾まなかった。和影は機械的に箸を動かしながら、何故自分が動揺したのかを考えていた。
杏次郎が高校卒業後、公務員にでもなって実家を継ぐことは聞いていた。見合いの件は初耳である。
藤野家の御当代様がいつ結婚されてもよいように、青柳家でも早く準備を進めるのは当然である。杏次郎が大学へ進学しないで就職するのも、一輝の年齢を考えた上のことであろう。
やはり伯父の名前が出たせいだろうか。和影はあれ以来、伯父と顔を合わせていない。不意打ちで伯父の存在を知らされたことが、和影の心を乱したのだ。
二年も経つのに、と和影は自分の弱さに歯ぎしりしたい思いだった。




