1 帰省
東京は大都会の名にふさわしかった。
部屋を借りるため上京し、駅に降り立った和影は、まず行き交う人の多さに圧倒された。
隙間なく大きなビルディングが建ち、空中に道路が走り、ごてごてと看板がせめぎあっている。駅近くの市場では、様々な食べ物のほかに、見たこともないようなものが所狭しと並び売られていた。
地上ばかりでなく、地下を電車が走っているのも驚きだった。一緒に行った一輝も都会の空気に圧倒されているようだったが、お館様は嫁ぐ前まで東京で育ったせいか、慣れた様子で、あれは何、それは何とあちこち乗り換えて移動する電車の窓から指差して和影と一輝に教えた。
お館様が東京で育ったとは言っても、最後に見たのは終戦時の荒れ果てた状態であった。だから場所によっては風景が激変しており、戸惑うこともあった。それでもお館様の導きで、一輝は大学の近所の賄いつき下宿、和影にはその近くで六畳一間台所つきの部屋を借りることができた。
東京は大都会であったが、和影達が通う大学の敷地内は緑が多く、和影は部屋にいるよりも落ち着きを感じた。
授業も、高校までに学んだものからは想像もつかない新鮮な内容ばかりで、聞くだけでも面白味を感じた。
一輝は進級に必要かどうかに関係なく、時間割の許す限りの授業を選んだので、ほぼ同じ授業を選択した和影は予習復習に苦労した。
その代わり一輝はサークル活動には加わらなかった。
入学式でも、入学した後でも、新入生と見るなりしつこいほど勧誘された。
特に少数派である女性の和影は、腕をとられんばかりにして勧誘された。
和影としては、運動系、できれば武道関係のサークルに所属したかったのであるが、一輝の生活時間帯を考えるとまともに練習に参加できそうになく、また練習を覗いてみると、男子学生ばかりが大声を張り上げて練習しており、女子学生は洗濯をしたりと男子学生の世話係のようなので、練習ができないのならば仕方がないと諦めた。
一輝は朝一番から最終までみっちり講義を受けた後、今度は図書館に立て篭もって閉館時間まで勉強し、まっすぐ下宿へ戻る生活を続けていた。
大学の図書館が閉まる休日には、町の図書館へ行って勉強をするのが常で、和影は大抵一輝のお供をした。
例外は一輝が大学の友人や下宿の仲間と遊びに行く時で、本当は尾行してでもついていくべきところであるが、一輝の言葉に甘え和影は好きなように時間を過ごしていた。
工場に勤めていた時分に読んだ雑誌の記憶でも、楽しそうな場所が東京にはたくさんあった。折角住むのだから、一度くらい本に載っているような場所へ行ってみたい、と和影は考えていた。
映画館一つ取っても、地方と違ってあちこちで様々な映画を学生割引で観ることができたし、数多くあるデパートの売り場には最新流行の服を来たマネキン人形が飾られ、見るだけでも楽しかった。
和影は自分が贅沢な性分だとは思っていなかったが、夏休み前には、実家から送金される分では手元不如意になりそうな気配になってきた。
勿論、和影が足りないと言えば送金される筈だが、近年実家の農業が不振になりつつあるのを知っているだけに、自分で好きなことをして送金が不足だとは言い出せなかった。
加えて、和影には欲しいものがあった。テレビである。独り暮しをしてからラジオしか聞かない。工場に勤めている頃には忙しかったので事足りていた。
しかし今年の秋に、日本に初めてオリンピックが来るのである。東京住まいなのだから競技場まで見に行ってもよさそうなものだが、チケットがなくて見られるかどうかわからないし、どのみち全部を見ることはできない。
夏休みの間に東京で働けば、カラーは無理でも白黒テレビくらい買えるのではないか、と考えていた。
下心があるから、ますます送金を増やすようには言い難かった。
ただ、夏休み中東京で働くには、いくつか問題があった。一輝が帰省すると言えば、和影はついていかなければならない。図書館からの帰り道、和影は一輝に夏休みの予定について聞いてみた。
東京の夏は夜でも暑い日が時々あり、今日も夜道を歩いているだけでじっとりと湿気が身体にまつわりつくようであった。一輝はハンカチで額を拭いながら、和影の質問に間髪いれずに答えた。
「お盆は電車が混雑するから、前後に少し日程をずらして帰省しようかと思う。長居するつもりはないんだけど」
和影ががっかりして黙り込むと、一輝に顔を覗かれた。
「また和影は何かたくらんでいるな」
「え、そんなことはありません」
「そうかな。もしかして、好きな人でもできた? それで帰りたくない?」
「そんな暇ありませんっ」
実際、一輝の側にいなくてもいい日は一人で当てもなく出歩いているので、誰か特定の異性と付き合う機会もなく、目新しいものが多い東京では、異性に目を向ける暇もなかった。
和影が帰省したくない理由は夏休みに働きたいという理由だけではないが、それを一輝に言うつもりはなかった。しかし問い詰められ、仕方なく和影はテレビが欲しいので、夏休みは東京で働きたい、と白状した。
「ああ、なるほど。うちへ来て見ればいい。食堂にテレビがあって、食堂までなら女性も入れるから」
「そういう訳にも……」
あっさり言われて和影は窮した。テレビも見たいが、要は働きたいのである。
「図書館への送り迎えをしてくれれば、帰省の前後に働くのは構わないよ。あと、勉強で遅れをとらないこと」
「あ、ありがとうございます!」
東京では働き口も多く、和影は洒落たレストランでのウェイトレスの仕事をやすやすと見つけた。他のウェイトレスは皆あか抜けていて、和影は最初気後れしながら働いていたが、そのうち話をしてみると、皆地方出身だとわかって安心した。
仕事は見た目よりも重労働で、仕事が終わると図書館へ行って一輝の近くで勉強しようとするのだが、いつのまにか居眠りしていることがほとんどだった。
それで、テレビを見るために一輝の下宿へ足を踏み入れるには至らないものの、同じ下宿に住む学生にはよく行き会った。彼らは高校生のようにからかうこともなく、和影にも礼儀正しく挨拶した。
やがてお盆が近付き、帰省する日になった。
「大丈夫? 気分悪そうだよ」
一輝が心配そうに尋ねる。和影は苦労して笑みを浮かべた。電車はお盆を避けたので比較的空いていたが、道のりの半分位までは座れなかった。
開け放した窓から入ってくる風は生ぬるく、天井につけられた扇風機もぬるい空気を掻き混ぜているだけだった。暑さと仕事の疲れも確かにあったが、和影の気分を重くしているのは帰省そのものであった。
駅に降り立つと、さすがに故郷は東京よりも涼しく感じられた。人のざわめきの代りに、蝉が喧しい。改札を出ると、義父の寛介が車で迎えに来ていた。互いに簡単な挨拶を交わし車に乗り込む。
車中、三人とも無言であった。
一輝を藤野家の門前で下ろして、車内は和影と義父の二人になった。青柳家までは、車ですぐそこである。
「東京では楽しくやっているかね」
「はい」
「それはよかった」
義父が心から言っているのがわかったので、和影は却って気分が暗くなった。青柳家の門内で車を降りると、一年ぶりに見た実家のたたずまいに胸が絞めつけられるように感じ、和影はその場から動けなくなった。
子どもの時から育った我が家への愛着と、最近起こった嫌な記憶がないまぜになり和影の足に絡み付いていた。前に進みたくはない。しかし、ここまで来て引き返すこともできない。
義父は和影の身の上に起こったことを薄々知っているように感じた。
杏次郎も知っているだろうか。お甲は。どんな顔をして会えばいいのか。そして、伯父はどうしているのか。
死んでいればいい、和影は不意に浮んだ自分の願いにどきりとした。
「お帰りなさい」
母が玄関から出てきた。母に会うのはそれほど久し振りでもない。いつものように着物姿で、何気ない顔で和影が提げた荷物を持つ。空いた方で和影に手を掛け、家へいざなった。
「兄様は御飯も別にしています。普通にしていなさい」
普通にしていればいいのだ。今の和影には、普通というのがどういうものかはわからなかった。しかし、母の手が触れた途端、足の呪縛は解けた。
お甲は台所で忙しく働いていた。杏次郎は学校へ部活動の練習に行っている。義父は車をしまうと、今度は軽トラックで田畑へ出掛けたようである。
母に先導され自分の部屋まで来た。家の手伝いをする必要はないから、夕食まで自分の部屋にいるように、と言い置き母が去ると、和影は急に力が抜けて畳に座り込んだ。
伯父には会わなかった。ここにいれば、大丈夫だ。母が保証してくれたにもかかわらず、緊張していたらしい。夕食時にも、伯父は姿を見せなかった。誰も伯父がいないことに疑念を差し挟まなかった。
最初警戒しながら箸を動かしていた和影も、杏次郎にせがまれて東京の話をするうちに、気持ちがほぐれ、笑い声さえ出てきた。
夜中に、目が覚めた。悪い夢を見た気がするが、思い出せない。
和影は布団の上に半身を起こした。時計を見る。真夜中である。蚊が耳元で唸っている。掴まえようと、じっと耳を澄ませた。
ふと、外が気になった。襖を開けても誰もいない。廊下の窓から外を眺める。明かりが和影の目を引きつけた。道場から光が漏れる。伯父が稽古しているのだ。
いつか見た、無言で真剣を振り回す様が脳裡に浮んだ。ちくりと腕に痛みが走った。ぴしゃりと腕を叩き、掌を見る。蚊が潰れていた。早くも和影の血を吸ったようで、黒白の縞々が赤黒い液体に塗れていた。
和影は身震いをして、部屋へ戻った。




