7 縛めと上京 *
道場で、和影は柔道着を纏って独りで柔道の練習をしていた。
勉強も少しずつ進めていたが、街へ戻れば武道の稽古はできないから、と自分に言い聞かせ、勉強よりも稽古の時間を多くとっていた。
脳裡には、先日の一輝との対戦があった。最後にかろうじて一勝したものの他は全敗の有様で、幼時から厳しく鍛錬してきた自分が、高校へ入学してから柔道を始めた人間に負けて悔しかったこともある。
だがそのほかに、和影は何となく胸がすっきりしなかった。自分でもよくわからないもやもやしたものを抱えたまま、机に向かっても勉強は捗らない。
武道ならばとりあえず身体を動かしていれば稽古の恰好はつく。身体を思いきり動かしていれば、気分もすっきりするかもしれない。そう考えて和影は稽古を続けていた。
あれから一輝は道場へ訪ねてこない。
杏次郎が学校に行って家にいないのがわかったからであろう。和影では相手として不足なのだ。実際対戦してみての結果であるから仕方がない。
伯父が道場へ入ってきた。和影は稽古を止めて挨拶した。
「気にするな。続けてみせろ」
道場ではおろか、家の中でも二人きりになるのは数年ぶりである。先日、一輝と三人で会った時でさえ、緊張したものだ。しかも、伯父の前で武道の稽古をするよう命令されてしまった。
伯父は稽古着ではなく、普段着の和服姿である。紐のようなものを手に持ったまま、腕組みをして道場の扉の前で和影を観察している。
先日の無様な姿を見て、守護人の職務遂行に危機を感じ、鍛錬し直そうとしているに違いない。面倒なことになった。身体を動かすのは好きだが、強制されてするのは嫌である。せめてここできちんとした様子を見せて、伯父のしごきを逃れる可能性に賭けるしかない。
和影は深呼吸し、柔道の受身の型を次々と演じ始めた。一通り終えても、伯父はじっとして動かない。和影は次に合気道の型を始め、それが終わると空手の型を始めた。全部終わった頃には汗だくになっていた。
相手のいるものを独りで真似するのも疲れる。伯父はやはり動かない。和影は終わりの印として、伯父に向かって一礼した。
「守護人としての務めもろくに果たせないくせに、色気だけは一人前と見える」
「は……?!」
和影が投げつけられた言葉に呆然としている間に、伯父が音もなく側に近付き、両腕を持っていた紐で後ろ高手に縛り上げた。
「な、なにを?」
驚きと得体の知れない恐怖が喉元まで突き上げてきて、和影は掠れた声で言葉を搾り出した。伯父は、無言で和影を倒し、猿轡を噛ませた。暴れようにも両足の上に伯父が乗っており、下手に動くと肩の関節が外れそうに痛い。
伯父は器用に和影の柔道着のズボンを下着と一緒に脱がせた。太ももの間が畳に直に触れた。
和影の恐怖は確信を得て更に高まった。肩が外れてもいい覚悟でめちゃめちゃに暴れる。
猿轡を外そうと口を動かし、助けを求めて隙間から声を出す。
道場は家の奥まった場所にあり、すぐ裏は小山になっている。母と義父は村の寄り合いに出掛けて留守で、下働きのお甲も今日は針治療に出掛けると言っていた。もう家にはいないだろう。
和影の声は誰にも届かない。
伯父は、右腕の不自由さを感じさせない動きで和影の動きを封じ、両手を縛った紐の余りで一方の足首を繋いだ。もう一方の足は伯父自身が押さえている。縛られた手足を動かすと節々に激痛が走った。
和影はなんとか縛めを外そうともがきながら、伯父を睨み据えた。表情のない目が和影を射抜いた。傷のある顔がこれまでになく恐ろしく見えた。大きな掌が首に伸びてきた。
和影の気が遠くなった。
十日間ほど、和影は自分の部屋で寝込んでいた。意識朦朧としていたのは二日間ぐらいで、あとは気力が出なかったので日がな布団に潜っていたのである。
伯父に辱められている間も、半分意識はあった。わざと意識を残しておいたのだ、と思った。
意識が朦朧としつつも、途切れ途切れに記憶が残っていた。あの後、最初に気がついたのは自分の部屋だった。
誰が運んできたのかわからない。自分で戻った気はしないから、誰かに運ばれたのだろう。
向坂先生が来て、厳しい顔で和影を覗き込んでいた。傷を診るためだろうが、足を広げようとしたので、暴れた記憶がある。結局どうしたのかはわからない。
足の間の一点が、身体の奥に向かって、ずきん、ずきんと響いていた。痛い。便所はどうしていたのだろう。行った記憶がない。行く気もしない。足を広げるのが怖い。
枕元で、母が誰かに向かって涙声で訴えていた記憶がある。
「……あまりにも酷すぎます」
「御当代様はこれに惹かれている。これも異性として意識し始めている。身体に恐怖を植え付ける必要があった。これで子ができて堕ろせば、万が一交わっても簡単に子はできまい」
「だからと言って、そんなやり方……」
何を言っているのか、わからない。幾つも怖い夢を見た。夢なのか現実の記憶なのか、はっきりとしない。朦朧とした意識の合間には、いつも母が見えていた。母を見て安心すると、また霧がかかったようになって恐ろしい情景が展開した。はっきりとは覚えていないが、泣いても悲鳴を上げても誰も助けにこない、そんな感じだったように思う。
目が覚めるとやはり、母が側に座っていた。和影と目が合って、素早く涙を拭った。部屋の中はかなり暗い。夕方らしい。どうして布団に寝ているのだろう、と考え始めて嫌な記憶を呼び起こしかけ、思わず目を瞑った。衝動に耐え、無理矢理記憶を封じ込めてから再び目を開ける。手足がばらばらになったような感覚。
「気が付いたのね」
母はほっとした様子であった。身だしなみが大分乱れている。いつもきちんとしている母なのに、と思うと涙がこぼれてきた。母ももらい泣きして涙を流しながら、和影の頬をそっと拭った。
「少し食べた方がいいわ。お粥を作ってきたから、どう、食べる?」
顎を僅かに引いて承諾の合図を送る。食欲など全く感じられなかった。それでも仄かに温かい粥を口へ運んでもらうと、微かな塩気が美味しいと思った。一口二口嚥下して、吸い口で番茶をもらうと、和影は眠気に襲われた。
次に目が覚めた時は、部屋の中は明るかった。やはり枕元に母がいた。
前回よりも硬めの粥をもらい、今度は椀の半分ぐらいを平らげた。足の間の痛みはなくなっていたが、胸につかえがあるようで気分は優れなかった。
こんな風になっても御飯も食べられて、眠ることもできるのだ、と思うと悲しくなった。母がまた零れた涙を拭いてくれた。泣いているうちに眠くなってきて、目を閉じた。
母が膳を運んでくる音で目が覚めた。部屋の中は暗かった。
「電気を点ける?」
首を振った。考えたくないことばかりの中で、気になることがあった。
「御当代様は……」
「向坂家の方達にお願いしておきました。安静にしていなければならないからと言って、向坂先生にも内聞にとよく申し上げておいたから、安心なさい」
梅子は短期大学を卒業して実家にいるそうだから、一輝の守護は梅子に頼んであるのだろう。次玄は地元の大学を卒業して何処か大きな会社へ就職したと聞いている。社会人ではなかなか休みも取れまい。和影はほっとしてまた眠りに落ちた。
意識がはっきりしてくると、布団から出るのが怖くなった。布団に全身包まれた自分の身体によって占められている領域だけが、安心できる場所のように感じられた。
母は根気よく、三度の食事を運んできては、和影に食べさせてくれた。義父も、杏次郎も、一輝も誰も部屋には訪れなかった。母と二人の世界の中、和影は意識下で嫌な記憶を消し去ろうと闘っていた。母が去って独りになると、和影は目を覚まして嫌なことを考えまいと自分に言い聞かせるのであった。
考えまいとすればするほど、嫌な記憶は蘇ってきて、和影を苦しめた。しまいには記憶との格闘に疲れ果てて、眠りに陥るのであったが、夢の中でも暗い記憶は跳梁していた。一向に、和影の勝利は見えないのであった。
和影が布団から出ようと決めたのは、母から一輝が高校の寮へ戻ったと聞いてからである。予想通り、向坂梅子が寮まで送っていったという話であった。
「私も街へ戻る。大学へ行く勉強をする」
「そうね。それがいいと思うわ」
母は静かに賛成した。
街へ戻ってからも、和影はしばらく勉強が手につかなかった。独りで部屋にいるのも落ち着かない。部屋の外を人が通る度に神経が高ぶった。街へ出ても、一人で歩いている伯父に似た男性が近くを通ると、気付かれないよう息を詰めて過ぎるのを待った。
伯父がこの街にいる筈がない、と頭で理解していても、似た人間を見かける度に落ち着かなくなった。銭湯へ行くのが嫌だった。自分に傷があって、裸体を皆がじろじろ見ているような気がした。
心配した母からは、二、三日に一度の割合で安否を問う手紙が届いた。和影は逐一返事は出さなかった。一輝からも手紙が届いた。何かわからないが大病を患ったと聞いているとのことで、自分は寮生活で心配ないから養生するように、と認めてあった。和影はお言葉に甘えてこれにも返事を出さず、一輝に会おうともしなかった。
久し振りに夜間学校へ出席した時は、相当緊張した。和影が心配したように、クラスメートが好奇の視線を送ることもなく、長い間欠席していた理由を問い質すこともなかった。
ただいつものように互いに、久し振りだね、と軽い挨拶を交わす程度であった。以前と同じように授業を受けているうちに、和影に現実の感覚が戻ってきた。大学受験、という差し迫った目標があったことも幸いしていたかもしれない。和影は本格的に受験勉強を始めた。
いったん始めると、問題をこなすことに熱中した。ひたすら勉強をして、合間に食事をして、眠くなるまで勉強を続け、布団に潜ると泥のようにすぐ眠った。嫌な記憶を呼び覚ます機会を頭に与えないよう、必死になっていた。
大学への入学試験の出来は自分でもよくわからなかったが、和影は無事合格した。嬉しくて、一輝に電報を打った。一輝からも合格したとの返事が電報で来た。一輝には試験を受けるために上京する際、久々に再会していた。余り変わっていなかった。和影は痩せた、と言われた。
結局、和影は実家へは一度も戻らないまま、大学に通うために上京した。




