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一輝と和影  作者: 在江
第二章
14/23

6 立ち会い稽古

 夜間学校も三年目になって、和影は日本舞踊の稽古を止めた。

 師匠からは、折角立ち居振舞いが板についてきたのに勿体無いと言われ、実家の母からも中途半端はよくない、と諭されたが、和影は意志を曲げなかった。


 大学受験の勉強をするために、もう少し時間に余裕が欲しかった。工場勤めを辞めるつもりは毛頭なかった。後輩もでき、仕事にも慣れてきて、少しずつ色々な仕事を回されるようになり、働くのが面白くなってきていた。


 夜間学校では、大方単位を取ってしまい、入学当初よりも頻繁に通う必要はなくなっていた。大学受験の勉強は、学校での勉強とは別に、自分で工夫して行わなければならなかった。

 一輝が先輩から不用になった学習参考書や問題集を譲り受けて送ってくれるのを主に使って勉強した。


 入間との一件があってから、一輝は和影を心配したのか、三月に一回くらいはあちこち連れ出した。和影が映画を見たいと言えば映画館へも行った。

 当然ながら手をつなぐようなことはなかった。会えば必ず行くのは本屋で、一輝は文庫を片端から読破する勢いで買い込み、和影は田舎ではなかなかお目にかかれないような種々の雑誌を買った。


 買った雑誌は自分が読み終わると工場へ持って行き、仲間で回覧するのであった。工場の仲間が買ってきた雑誌を見せてもらうこともあり、巷で人気のスターのスナップを眺めたり、新しい化粧品の宣伝を見て仲間と意見を言い合い買うかどうか考えたりした。



 大きな街とはいえ、学生服を着た背の高い一輝は目立つ存在であった。三年もいると、デパートや映画館で工場の仲間か夜間学校の先生などと出くわすこともあり、たちまち和影は名門高校の学生さんと付き合っていることになってしまった。


 和影はいちいち説明するのが面倒なので、適当に相槌を打って放っておくことにしていた。

 それまでは工場の男の同僚から仕事帰りに食事などに誘われることもあったが、噂になって以来、ぴたりと誘いがなくなった。


 どのみち、学校に通わなくてはならないので誘いに乗ることはなかったのだが、それでも和影は少し寂しさを覚えた。さらに、女性の仲間が一輝を紹介するか、同じ高校の学生さんを紹介するように迫ったのには閉口した。

 これには、幼馴染だから他の人は知らない、といいつのるより他なかったが、和影がいっそ工場を辞めようかと考えたくらい、女性達は執拗だった。


 「もう来年は大学へ行くのだから、辞めてもいいのじゃないかな」


 和影が工場の女性達の話をすると、一輝はあっさりと言った。


 「僕も、和影を紹介しろって同輩に煩く言われているけど、聞き流しているよ」


 一輝に言われると、和影も工場を辞めた方がいいのではないかと思い始めた。

 ちょうどお盆休みが近付いていた。折りを見て工場長に話をすると、拍子抜けするほど簡単に退職を認められた。

 形式的に理由を聞かれたので、故郷へ戻るのだと答えると、「例の学生さんと式を挙げるのかね」とからかわれた。


 お盆休みの前まで働いて、最後の日に日割りの給金をもらい、仲間に見送られて工場を後にした。仲間達はお別れ会を開くと言ってくれたが、和影の方で時間がないと断った。


 仲間は和影が退職するのを残念がってくれて、和影は自分の存在を認められたようで嬉しい反面、退職は早まった決断だったかもしれないと後悔の念も生じた。


 これから家に篭って勉強するのも半年限りで、一輝と同じ大学へ進学できれば、都会で花の学生生活が待っているのだ、と和影は自分に言い聞かせた。


 大学へ進学しなくても都会で生活することにはなるのだが、中学の頃のことを考えても、学生でもないのに学内をうろうろすれば怪しまれるし、ここは自分も学生になるしかない、と和影は思ったのだ。


 大学の学問には実のところ、興味を持てなかった。一輝は将来実家を継ぐことを考えて農業学を収めたいと考えているとのことで、和影も同じ学部に入学するつもりで勉強を進めた。


 一輝の通う学校はお盆に入る前から夏休みになっており、これまで和影の休みに合わせて帰省していたのが、和影が工場勤めを辞めたので、一輝はお盆が過ぎても学校の夏休みが終わるまで実家にいるよう予定を組んだ。


 和影も実家に長逗留するつもりで荷物をまとめた。夜間学校はお盆を除くと授業を続けていたが、補習授業などが多く、和影の場合はここで多少学校へ通わなくても卒業には差し支えなかった。



 半年ぶりに実家へ戻ると、母を始め皆変わりなく和影を迎えてくれた。茄子や胡瓜に爪楊枝を刺して動物を作ったり、精進揚げやおはぎを作ったりして迎え盆の準備を手伝っていると、雑誌で見た華やかな都会はどこか遠い別世界のようで、受験勉強をする気も失せていきそうだった。


 青柳家のお墓を掃除して迎え火を焚き、盆料理を食べて送り火を焚き、お盆が過ぎても和影は家に残っていた。お盆が終わったら勉強しよう、と内心決めていたのだが、なかなか気持ちが切り替わらない。


 ぼうっとしているうちに洗濯の手伝いをするはめになった。青柳家でも洗濯機を買ったので、昔ほど手間はかからない。庭に出て下働きのお甲と一緒に物干し竿へ洗濯物をかけていると、一輝が訪ねてきた。柔道着を纏って黒帯を締めている。


 「こんにちは。杏次郎くんはいる?」

 「剣道の練習で、学校へ行っています」


 杏次郎は家から通うことのできる町の男子高校へ進学し、学校での部活動に剣道を選んだ。中学校から続けている生徒ばかりが集まっていて、杏次郎は素振りばかりさせられているらしいが、練習は厳しく夏休み中もお盆を除いて毎日のように学校へ出掛けているということだった。


 合気道の方は相変わらず家で練習している。反対するつもりはないものの、守護人ならともかく武道を修めるなら一つの道を極めた方が容易であるのに、わざわざ違った武道を選ぶ辺り、杏次郎の考えは和影に理解できなかった。


 「そうか。道場を貸してくれないかな」

 「どうぞ」


 和影は洗濯干しをお甲に任せて一輝を道場へ案内した。ひょっとして伯父が練習しているかもしれないと思って緊張しながら扉を開いたが、夏でもひんやりした空気の漂う道場には誰もいなかった。

 一輝は礼を言って荷物を下ろし、柔軟体操を始めた。いつも実家にいるときは、杏次郎と組んでいたのが、今日は独りで練習するつもりなのだ。


 そういえば一輝は冗談にも和影と組もうとしたことはない。近頃練習していないとはいえ、和影も伯父に鍛えられてひととおりの武道の心得はある。女だと思って遠慮しているのだろうか。


 和影は道場を出て自分の部屋へ戻った。勉強しようという気持ちは起こらなかった。考えて見れば一輝だって勉強をしないで稽古をしているのだ。御当代様が武道に励んでいるのに、守護人が机に向かってのほほんとしているのは失礼だ。

 和影は押入れの奥に仕舞い込んでいた柔道着を取り出して着替えた。微かに黴と埃や汗が入り混じった臭いが鼻を突く。稽古から離れた期間の長さが思いやられた。


 何の検定も受けていないので、帯は白色である。台所へ行って、母に道場で稽古すると断りを入れた。一輝が来ていると聞いて母は、


 「あら、後で飲み物でも差し入れましょう」


と言った。


 一輝は無言で練習していた。道場の扉を開けると、ぱっと振り向いて、和影が柔道着姿で入ってくるのを目を丸くして見ていた。


 「お相手仕ります」


 正面まで回り込んで、真面目腐った顔で試合のように一礼した。一輝は戸惑った表情で僅かに後じさりした。


 「和影はここ数年、ろくに練習していないでしょう。背丈も大分違うし、危ないよ」

 「私は、一輝様の守護人でございますから。お相手仕ります」


 和影は組む前から練習不足を指摘されてむっとして答えた。一輝は横を向き、小さくため息をついた。


 「じゃあ、怪我をしないように準備運動をしてから組もう」

 「よろしくお願いします」


 準備運動をしていると、道場の扉が開いて伯父が入ってきた。道場の出入りが多くて気になったらしい。近くで型の練習をしていた一輝が挨拶をして事情を説明すると、伯父が審判を買って出た。


 これで一輝も手加減しないだろう、と和影はこの時ばかりは伯父に内心感謝した。一輝の腕前は、正月に杏次郎と組んでいるところを見ている。相当上達しているが、本気で組めば勝てるだろうと踏んでいた。


 ところが実際取り組んでみると、一輝の方が上手だった。組手まではよかったが、右に左に体をかわして、なかなか技を決めさせてくれない。優勢を取れないまま時間だけが過ぎ、和影が焦っているうちに足を刈られてころりと一本取られてしまった。


 「一本!」


 無表情に伯父が言う。畳に転がった和影に、一輝が手を差し出す。和影は自分で起き上がった。自分でも頭に血が上っているのがわかる。冷静にならなければ、勝てない。


 「もう一回お願いします」


 心配そうな一輝に構わず、伯父も開始の合図をする。やはり和影の技は決まらない。きれいに腰を払われた。


 「一本!」

 「もう一回、お願いします」


 どんどん投げられているうちに、和影は頭が朦朧としてきた。練習不足は否めなかった。どうしても勝てない。

 それでも身体は自然に動いて技をかけようとしていた。投げられればぱっと受身を取ることもできた。

 和影は投げられる側、一輝は投げる側として役割分担がなされ二人の取り組みに馴れ合いのような空気が生じていた。体力の限界にはまだ余裕があるが、これでは一輝の練習にならないと、和影は改めて勝負に出ることにした。


 頭に上っていた血は大分降りたようであった。開始の合図があると、和影はぱっと組みついて素早く一輝の体勢を崩し、体落しをかけようとしたが上手く決まらなかった。一輝は崩された体勢から器用に手足を捌いてけさ固めをかけた。

 上からしっかりと身体を押さえられ、関節も決められて痛い。


 和影は足をばたばたさせて固め技から抜け出そうともがいた。柔道着が着崩れて、下の体操着が露になった。一輝の手が弛んだ。ばん、と畳を叩き、ひるんだ隙に抜け出した和影は、その勢いで起き上がった。

 一輝も素早く立ち上がる。体勢が整う前に組みついて、投げ飛ばそうとした。かわされた。余勢をかって、小内を刈った。畳に一輝が伏せられた。決まった。


 「一本!」


 ほっと一息ついた。むわっと一輝の汗の臭いが下から立ち上り、目が合った。まだ荒い呼吸をして、目だけで微かに笑っていた。


 息がかかるほど顔が近付いているのに気付いて、和影はどぎまぎしながら何となく気まずい思いで身体を起こした。最後の礼をしようと伯父の方を見ると、既に姿はなく、開け放しの扉の向こうから、母がお盆にグラスを載せて運んでくるのが見えた。

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