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一輝と和影  作者: 在江
第二章
13/23

5 工場勤め

 休日に喫茶店で会って以来、入間は夜間学校に来なかったので、和影は今度入間に会ったらどうしよう、という不安を抱えたまま授業を受けていた。

 ただ、もともと入間は学校を休みがちだったので、クラスメートたちが不在を怪しむことはなかった。


  入間に限らず、和影も含めて各自仕事の都合などで休むのはよくあることだった。やがて和影は入間がいないことに慣れた。不安は、心の底に澱のように沈んではいたものの、ほとんど意識に上らなくなった。


それで、十日ぐらい経って入間と校門の前で顔を合わせた時には、足がすくむほど驚いたのであった。入間は深刻な表情でつかつかと和影に近付き、耳元で囁いた。


 「話がある。授業が終わったら、待っていてくれ」


 そして和影が返事をする暇を与えず、さっと門の中へ消えていった。

 心の底に沈んでいた不安が、あっという間に広がって、和影の心を支配した。


  他のクラスメートが登校してきたので、和影の足は自然に動き出したが、それから授業を受けていても不安に心を掻き乱され、教師に指名されても上手く答えられないことが多かった。


 上手く答えられないことで更に和影の不安は増した。一方で入間の深刻な表情は影を潜め、授業の合間にクラスメートと明るく言葉を交わしていた。授業を終えてのろのろと帰り支度をしていると、クラスメートからの夕飯の誘いを断って、入間が和影のもとへやってきた。


 「行こうか」

 「おうおう、若いもんはええのう」


 還暦を迎えてから一念発起して勉強を始めたクラスメートが二人をからかった。


 「そんなんじゃないです」


 入間は笑顔を向けた。その笑顔は、和影の方を向いた時には消えていた。和影は緊張して入間の後についた。


 和影が住んでいた村とは比べ物にならないほど大きな街である。夜間高校の授業が終わる時間帯でも、歩けば通りには勤め帰りらしい人々の群れがあちこちで見られた。


 黙々と家路を急ぐ者は少数派で、酔っ払ってご機嫌な者、これから酔っ払おうとしている者、彼らに散財してもらおうと呼び込みする者の方が多かった。学生服を着た一群もいて、和影は一輝が混じっていないようにと祈りながら顔を伏せて歩いた。


 しばらく歩いた後、入間は終夜営業の看板を掲げている喫茶店に入った。昼間も開店している店らしく、通りに面して窓もあり、夜間営業している喫茶店としては開放的な雰囲気であった。

 店内は半ば席が埋まっていて、二人は入口付近のボックス席に案内された。


 向かい合って座ると、入間はメニューを見て二人分の食事を注文した。女給が席を離れると、二人の間に沈黙が訪れた。和影はテーブルの上に置かれた水の入ったコップを見つめていた。

 入間が水を一口飲んで、コップをテーブルに戻した。


 「じゃあ、話を聞こうか」


 和影は顔を上げた。予想より穏やかな表情の入間がいた。和影の緊張がほぐれた。


 「幼馴染なの」


 入間の身体から力が抜けた。入間も緊張していたのだ、と和影は気付いた。

 コップに口をつけ、冷たい水を流し込んで一息ついた。自分が入間に惹かれていることが、ようやく自覚できた。それでも入間と一生を共にしたいとまで願う気持ちは起こらなかった。この人には全部話さなければならない、と和影は思った。


 「聞いてくれるかしら。長い話があるの」


 話題を変えようとしている入間を遮って、和影は青柳家と藤野家の関わりから話し始めた。和影が一輝を守護するために一生結婚できないことまで話すと、入間の顔が曇ってきた。それでも、和影が話し終わるまで入間は黙っていて、途中運ばれてきた食事にも手をつけないで聞いていた。


 「まず、温かいうちに食べよう」


 二人は黙々と箸を動かした。この喫茶店は酒も出しているのか、酔いの回ったご機嫌な声が時々店内を賑わしたが、大抵は大人しく飲むか食べるかして長居をせずに出て行った。


 新たな客は既に酔っていることが多く、店内は徐々に酔客の占める割合が高まっていた。入間は店の奥に吊るしてあるテレビも見ずに、和影が食べ終わるのを待っていた。

 二人が食べ終わるのを見計らったように、膳が下げられた。コップに水が注ぎ足された。


 「この民主主義の時代に、実に封建的な慣習が残っているものだ」


 入間が嘆息した。和影は黙っていた。


 「その藤野の御当代様とやらが結婚するのがいつかわからないが、後継ぎが十歳になって青柳さんが引退してから、誰か好きな人と結婚すればいいじゃないか」

 「でも、相続で争いが起きるといけないから子どもを産めないし、そもそも引退すると、気が弛むのか、皆すぐ死んでしまうのよ」

 「そうか。子どもを作れないのか」


 入間は考え込んでしまった。映画俳優に似た、整った逞しい顔が厳しさを増した。和影は他人事のようにその整った顔を眺めた。


 街場育ちの顔であった。今でこそ、化粧や髪型、洋服を工夫してこの大きな街に溶け込んでいるつもりであるが、工場へ勤め始めた頃、和影は自分の顔が田舎者の札をぶら下げているようで嫌だった。


 見た目を変える事はできるが、しがらみに縛られている田舎の人間である自分と自由な街場に育った入間の間には、越え難い壁があるのだ、と和影は理解した。


 「俺、青柳さんに俺の子どもを産んで欲しかったんだけどな」


 和影は胸がきゅっと締められたように感じた。鼓動が高まり、顔が火照ってきた。入間は目を伏せたままである。この人と結婚することはできないが、この人を失うのは惜しい、と和影は思った。


 「ごめんなさい。でも、嬉しいわ、そんな風に思ってもらえるなんて」

 「……」


 入間の表情が一瞬険しくなった。すぐに元の愁い顔に戻って和影を見、表情を和らげた。


 「俺、最初にあの学生を見たとき、青柳さんが遊ばれているのかと思った。後先考えずに投げ飛ばして、青柳さんがあいつを庇って、それからあいつと目が合った。青柳さんに惚れている目だった。二人が互いに想い合っているのなら、俺の出る幕はない」


 「でも俺は青柳さんが好きで、青柳さんも俺のことを好いてくれていると思っていた。わからなくなった。悩んだ。答えは出ない。とにかく聞いてみようと思った。事情はわかった。藤野の家に大事にされているんだな、青柳さんは。なあ、暫くの間、もししきたりがなかったら、俺と所帯を持ってくれたかもしれない、と信じていてもいいか」


 和影は黙って頷いた。入間がそう考えてくれることは、自分にも心の支えになるだろう、と密かに思った。


 それから入間は普通のクラスメートとして振舞ったので、和影も普通に接することができた。

 年末年始には工場も休みになり、一輝と一緒に実家へ戻り、家にいる間は杏次郎を相手に稽古に明け暮れた。


 杏次郎は合気道の稽古を怠らず、独り暮しになってからろくに鍛錬していない和影より余程上達していた。


 一輝が青柳家に来て、柔道の練習をする時にも杏次郎が相手を務めた。伯父はそういう時、道場の隅で一輝と杏次郎の取り組みをじっと見ていた。


 その他では相変わらず部屋に篭ることが多く、家の行事で顔を合わせても言葉を交わすこともなく、和影は内心ほっと胸をなでおろした。


 家にいる時には何気なく思っていたことが、独り暮しを始めてから家事の煩雑さなどに目覚めた和影は、実家へ戻っている間、よく母を手伝った。



 和影が家を出てから、家では下働きの人数を減らし、今も残っているのは身寄りのないお甲だけであったので、母は和影が手伝うのを喜んだ。

 藤野の御当代様が大学へ進学する予定であることを知った母は、和影と並んで立ち働きながら工場で働かずに、学業に専念して一緒に大学へ進学してはどうかと勧めた。


 「でも、工場を辞めると、昼間することがなさ過ぎるわ」

 「勉強すればいいじゃないの」

 義務教育を終えてすぐ結婚した母は、こともなげに言うのであった。


 正月も過ぎて街へ戻ると、松の内が過ぎていないせいか、街はまだ正月の雰囲気で、初売りの呼び声も賑やかであった。和影は慣れ親しんだ田舎の静けさを懐かしく思った。


 工場へ出勤すると、最初の日は仕事始めと称してほとんど働かずにすんだ。上司を始め、皆正月気分が抜けていないようであった。夜間学校は松の内が過ぎるまで休校だったので、和影は学校が始まるまでの間、工場から帰ってゆっくり休みながら、街の生活を取り戻していった。

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