4 定時制高校
木枯らしが吹く頃になって、一輝から呼び出しがあった。一輝が全寮制の高校へ入学してからは、母がひと月かふた月に一回くらい様子を見に来る程度で伯父の束縛も解かれて、和影は一輝から離れた生活に慣れてしまっていた。
正直なところ、面倒臭いという思いが心の底を掠めたが、今の忙しくも自由な暮しも守護人としての役目があればこそだ、という台詞が伯父の顔と共に浮んできて、和影は思わず身震いして姿勢を正した。
家にいた頃と違って和影の住んでいるところには電話がないので、手紙で何度かやり取りした後、和影が休みの日に一輝の高校の近くへ出向くことになった。
「和影、久し振りだね」
一輝に声をかけられるまで、和影は近付く人の気配に気付かなかった。武道の鍛錬を怠るからだ、とまた伯父の顔が脳裡にちらついた。
「ご無沙汰しております」
一輝は半年余り会わない間に、また背が伸びたようであった。入学する時には余り気味だった制服が、身体にぴったり合っていた。男子生徒ばかりの寮生活で揉まれたせいか、幼さの残っていた顔つきも男らしい精悍さを備え始めていたが、笑顔は相変わらず爽やかであった。
「いよっ、ご両人」
「うわ。押すな、押すな」
急に背後で騒ぎが持ち上がった。和影は高校の塀を背にして立っていたのだが、その塀の上から、幾つか黒い頭が覗いていた。一輝が少し慌てて和影の肩を押した。和影は一輝の手に篭った意外な力にどきりとしながら、急いで高校を後にした。
「あの人達は、どうしたんですか」
「寮の同期だよ。僕と和影が手紙のやりとりをしているから、許婚だと思い込んでいるのさ。いちいち説明するのが面倒だから、放ってある」
「まあ」
一輝からは、月に二回ぐらいの割合で、近況を知らせる手紙が来ていた。和影は手紙を読んで、伯父宛てに月一回の報告を送っていた。和影からも一輝に返事を書いていたが、別に書くこともないので段々短くなる傾向にあった。
二人は休日の家族連れで賑わう大通りを歩いた。少し通りを外れると、あちこちで工事をしていて、それもまた賑わいの一因となっていた。
大通りに面してきれいにガラス張りになった喫茶店があったので、中へ入った。揃ってあんみつを注文する。
カウンターにテレビが置いてあって、客はテレビの見える位置を中心に席を埋めていた。テレビから笑い声が聞こえると、客も一斉にどっと笑った。一輝は客が少ない窓際の、テレビが見えない位置に落ち着いたので、和影は少し不満であった。
「一輝様の寮には、テレビが置いてあるのですか」
「食堂にあるよ。ああ、テレビが見たいのだね」
「いえ、いいんです。それより、今日はどういったお話ですか」
和影は自分の心を見透かされて、気恥ずかしくなった。こうして向き合うと、一輝は記憶にあるよりも大人になっていた。もともと年齢に似合わぬ達観したところがあったのが、身体が追い付いてきたようでもある。
手紙には柔道を始めたとあったが、或いは運動で身体が鍛えられたせいかもしれない。
「お待たせしました」
あんみつが運ばれてきた。温かいお茶もついてきた。一輝に勧められて、和影はあんみつに手をつけた。独り暮しなので、実家から送られてきたゆで小豆の缶詰で汁粉を作って食べてみたぐらいで、近頃は甘味に縁が薄い。
あんこと黒蜜が白玉に絡まって豊かな甘さが口中に広がる。ひとしきりあんみつを味わうことに専念する。新鮮さが薄れてきたところでお茶を啜る。再びあんみつに取りかかる。交互にあんみつとお茶を口へ運び、一息ついて気が付くと、一輝が和影の様子を眺めていた。
「女性が独りで生活するのは、大変だろうね」
和影はまた気恥ずかしくなった。そんなに下品に見えたのだろうか。折角日本舞踊を習っていても、きちんとした恰好をしていてもそれでは意味がない。
匙を置いて俯く。テレビからは、和影の気持ちとはかけ離れた植木等の陽気な歌声が聞こえていた。一輝は和影が悄然としたので慌てたようである。慰めの言葉をかけながら椅子から腰を浮かせた。
「いらっしゃいませ」
明るい店員の声が言い終わる前に、黒い影が和影と一輝の間に立った。和影が異変を感じて顔を上げた時には、一輝が襟首を掴まれ床に叩きつけられていた。和影は弾かれたように席を立ち、一輝に駆け寄った。
「大丈夫」
一輝はきれいに柔道の受身を取っており、ぱっちりと目を開けていた。その目が、和影に問いかけている。和影は漸く投げた方に注意が向いた。
早くも半身を起こした一輝を庇いながら、背後に立っていた人物の顔を見た。入間だった。
工事現場で働いていたのか、作業着を着ており、土と汗にまみれて強張った表情で息を弾ませていた。一輝に駆け寄った和影の姿に戸惑っているようでもあった。和影もまた、入間に何と言ったものか、言葉が出てこなかった。
瞬時、二人は無言で見詰め合った。和影の後ろで一輝が立ち上がる気配がした。入間の視線が外れ、口元がほぐれた。
喫茶店のドアが開いて、作業服の男達がどやどやと入って来た。
「入ちゃん、何やってんだよ」
「昼飯の時間、終わっちまうじゃないか」
「行こうぜ、行こうぜ」
テレビをそっちのけに、固唾を呑んで成り行きを見守る客を掻き分けながら入間を取り囲み、引き摺るようにして数人がかりであっという間に連れ去った。
入間が店から消えると、店内の客もテレビを見に戻り、窓ガラスに貼りつき覗いていた野次馬も通りへ流れて行った。和影は、引き摺られるように連れ去られる入間から目が離せなかった。
入間の目が和影と合い、表情が奇妙に歪んだ。唇が何か言うように素早く動いたが、声は聞こえなかった。
「出ようか」
伝票を掴んで、一輝が言った。和影は我に返った。一輝の頬に血が滲んでいる。入間に倒された時に床で擦ったのだ。
「頬に血が」
「なに、かすり傷だ」
和影がハンカチーフを取り出すより先に一輝は自分の手の甲で頬を拭った。精算する際、一輝が店主に謝ると、店主は釣りを数えながらにやにやした。
「いやあ、店が壊れた訳でもなし、大した怪我人も出ずにようございました。学生さんも別嬪さんを連れ歩くときにはご用心なさいませよ」
喫茶店を出て歩く一輝の後を、和影は黙ってついていった。大通りを抜けると木枯らしが吹きつけてきて顔が冷たく痺れた。
休日の上天気に、何処へ行っても人通りが絶えなかった。すれ違う家族連れや若い夫婦連れが時折和影達に目をやった。他の人達には、自分たちが恋人同士に見えるのだろうか、和影はふと小学生の頃に一輝との間柄をからかわれたことを思い出した。
どのように見えようと、藤野家と青柳家の間柄は変わらない。和影は一輝の守護人である。肝心な時に、一輝を助けることができなかった。
しかも相手は入間である。和影が原因に違いない。自分のせいで、藤野家の御当代様を傷つけたとあっては、守護人の面目丸潰れであった。
「和影、この辺に座ろう」
公園に来ていた。木枯らしが吹く中、小さな子ども達が散策する人々の間をすり抜けて元気に広場を駆け巡っていた。広場の周りにベンチが並べてあり、親らしき男女がそれぞれベンチから子ども達を見守っていた。
一輝は空いているベンチを見つけ、端へ腰掛けた。
「済みませんでした」
立ったまま、和影は頭を下げた。下げたまま、頭を上げられなくなった。
「頭を上げなさい」
穏やかに、一輝が命令した。和影の頭は急に軽くなった。頭を上げると、一輝の手真似に従って、隣へ腰掛けた。何処かから、甘栗を焼く匂いが漂ってきた。
「すみません」
「彼と交際しているんだね」
「いえ、そのようなつもりでは……」
「しょうがない人だ」
一輝が語気を強めたので、和影は緊張して言葉が継げなかった。目の前を子ども達が嬌声を上げながら駆け抜けて行った。
「一緒に映画を見に行ったでしょう」
「そ、それは」
「和影にいちいち言わなかったけど、僕、先輩や同輩達と一緒に映画を見に行ったりしているんだよ。暮れに実家へ帰って和影が責められては酷だから、話を合わせておこうと思って呼んだのに、君の方でそんな隠し事をされては困る」
「すみません」
ひたすら和影が小さくなって謝り続けると、一輝は漸く愁眉を開いたが、口調はまだ固かった。和影から顔をそむけるようにして、目は広場で遊ぶ子供達を追っている。
「映画館のように暗い場所へ二人きりで行くことを了解するということは、ある種の男にしてみれば深い関係を結ぶことを了解したことと同義なのだよ。僕らのような学生ならともかく、まして彼はもう自分で生計を立てているようだからね。和影は彼と交際するつもりはないと言うけれど、喫茶店での様子では、彼は本気で君のことを思っているに違いない。もう少し、男の人との付き合い方を考えた方がいい」
「はい」
和影は頷くしかなかった。




