3 一人暮らし
一輝が案じた通り、和影は中学校を卒業しても高校に進学しなかった。就職もしなかった。
色々探してもみたが、いくら敗戦の打撃から回復したとはいえ、この辺りで一輝の送り迎えに差し支えないような昼間だけの仕事など見つかりそうになかった。
幸い青柳家は暮し向きが不自由ではなかったので、和影は一輝を送った後、町の師匠について日本舞踊を習い始めた。家にいると伯父と顔を合わせる機会が増えるのを嫌ったのである。
これまで武道ばかりに目を向けていたせいか、母は最初怪訝な顔をしたものの、最終的には納得してくれた。
「これから御当代様が上京されることも考えれば、婦人らしく振舞えるような嗜みを何か身に付けておくのもよいことかもしれません。舞は武に通ずとも言いますし」
片瀬は県内の全寮制高校へ進学していった。一輝に恋心を指摘されて以来、和影はなるべく片瀬に近寄らないようにした。片瀬は大分戸惑ったようだが、そのうちに和影がいつも一輝と下校しているのに気付いて和影に近寄らなくなり、夏休みが明けたころには他の女子生徒と付き合っているという噂が流れた。
和影も一輝を送っていく途中で片瀬と噂の女子生徒が一緒に楽しそうにしているのを何度か目撃した。片瀬が他の女子生徒と仲良くしているのを見ると和影の胸は微かに痛んだが、内心を一輝に気取られないよう苦労して明るい話題を探した。
一輝は、あれ以来、そのことについて二度と触れなかったから、気付かれたかどうかは和影にはわからなかった。和影と一輝が付き合っているという噂も一時期流れたが、和影が徹底的に否定したのですぐに消えた。
片瀬と和影が卒業した後も、一輝は相変わらず演劇部で熱心な活動をしていた。
爽やかな笑顔は女子生徒に好評で、下駄箱に恋文が投げ込まれていることも度々あった。
というのも、迎えに来た和影に一輝はいちいち報告するのであった。如何に懸想されても、一輝は誰か特定の生徒と付き合うこともしなかった。和影はもしや自分の送り迎えが邪魔なのではないかと気にして一輝に何度か伺いを立ててみたが、いつも気にする事はない、という返事だった。
「もし本当に好きな人ができたら、和影を気にして一緒に帰らないなんてことはしないよ、きっと」
一輝はにこにこして答えるのだった。そのうちに一輝も中学三年生に進級したので、和影は卒業後の進路についても一輝に聞いてみた。全寮制の高校に進みたい、という答えだった。成績が学年でも一、二位を争うぐらいだ、ということはお館様から母を通じて聞いていた。成績から考えれば、それは妥当な選択であった。
「しかし、その後はどのようにされるおつもりでしょうか」
「父が通っていた大学に進みたいと考えている。父は、学徒出陣で卒業しないまま死んでしまった。代りにという訳でもないけれど、僕は父の顔も覚えていないから、せめて父が青春を過ごした地で自分も一時期を過ごすことで父に近付けたら、と思う」
そう言って一輝は爽やかに笑った。
「そういえば和影の伯父御は、父の守護人を務めてくれた人だね。きっと父の話をたくさん知っておられる筈なのだけど、僕、どうも伯父御が僕を避けているような気がしてなかなか話を聞けない」
和影は一輝が伯父に会わせろというのではないかと思って、緊張した。和影も伯父は苦手である。伯父は近頃では自分の部屋に引きこもっているか、道場で何やら武道の鍛錬をしているばかりで、食事の時以外に顔を合わせることもない。和影の報告は夕食時に家族と一緒の場でなされるようになっていた。
「伯父は、もうほとんど隠居状態なのです。一輝様だけでなく、家の者とも顔を合わせたがりません」
「隠居、か……。僕、まだ引退しなくていいって言ったんだけどな」
「え、何の話ですか」
和影が聞き返すと、一輝は驚いたように和影を見返し、首を振った。
「いや、昔の話だよ。もう五、六年も前の話」
それきり一輝は黙ってしまった。和影は一輝に従って歩きながら、内心で進学の準備を進めようと決意していた。
予定通り、一輝は全寮制の高等学校に進学した。和影も、一輝のいる寮に近い場所に部屋を借り、定時制高校に通い出した。定時制にしたのは、働きながら学ぶ人のために出来た制度なので、時間割や出席日数などの融通が利くためである。
一輝を送り迎えする必要がなくなり、日中働けるだけの時間が取れたので、缶詰工場へ就職することになった。
金銭面では働く必要はないのだが、定時制へ通う口実にもなり、また身体を動かしていないと和影自身が不安になるために仕事を始めたのである。
日本舞踊は、前の師匠から新しい住所の近くで教室を開いている同じ流派の先生を紹介してもらって続けていた。今までは母からその都度着物を借りていたが、引越の際、稽古用に母から古い着物を幾つか分けてもらった。
初めて家を出て暮すことになり、和影は煩い存在の伯父から離れられたことが最初はとても嬉しかった。
ところが、いざ独り暮しを始めてみると、炊事洗濯掃除はもとより、家賃や光熱費や町会費といった支払いや、下水掃除の当番や回覧板の受渡しなど、今まで家の者に任せていた仕事を自分でしなければならないことに気付き、工場でのなれない仕事や二年ぶりの学業もあって、半年ぐらいの間、和影は何をするにも疲れていた。
幸い一輝の方は寮生活に満足しているらしく、休日も外出せずに本ばかり読んでいるとかで余り和影の出番はなく、和影は休日にはゆっくり休むことができた。工場から出る給料は月極めで、毎月末に各自が事務局に出頭して現金で支払われることになっていた。
和影は仕送りがあるので給料の額について不満はなかったが、仲間の中学卒である女性の工員達に言わせると「学がないと侮ってあこぎなことをされている」らしかった。また他の工員達によると、税金や保険は給料から差し引かれて工場が代りにまとめて支払うことになっているので、手元に残る金額が少なくなるのは仕方ない、ということだった。
いずれにしても和影にはどうでもいいことであった。ある時きまぐれに、工場からもらう給料で一ヶ月の家賃などの出費が賄えるか計算してみたが、日本舞踊や定時制高校の月謝を別にしてもぎりぎりのところであった。
そもそも工場で働いている者は自宅から通うか、寮に入っているのが普通で、和影のように独身の女性が寮にも入らず独り暮しをしていること自体、収入から考えると贅沢なのであった。女性の工員の中には、給料を全額家に入れている者もおり、和影は自分が呑気に日本舞踊など踊っていてよいのか疑問に思うこともあった。そういうときには、自分の本来の仕事は一輝の守護人であると考えることにした。
半年ほど経つと、和影は独り暮しにも慣れてきた。工場の仲間に触発され、家計のやりくりも自分で工夫する余裕が出てきた。仕事が終わってから高校へ通い、また帰宅後裸電球の下で勉強するのにも慣れた。一度高校の帰りに痴漢に遭ったが、和影がみぞおちに肘鉄を食らわせてから投げ飛ばし、思いきり悲鳴を上げると近所の住人が出てきたこともあって痴漢は逃げて行き、以来襲われることもなかった。
不思議なことに、翌日高校のクラスメートが皆事件を知っていて、畏敬の眼差しで話しかけてくるようになった。定時制高校には、中学を卒業してすぐ働かなければならないが勉学を続けたい者や、事情があって昔学校へ行けなかった者などが集まって勉強していた。
勤めを持っている者でも学べるように、夕方から夜にかけて授業が行われるため、夜間高校とも呼ばれる。幅広い年齢の生徒が集まっており、勤めの都合で週何日かだけ通う生徒もいて、入れ替わりも激しいので、昼間の高校に入学すれば周囲より二つ年上になる恰好の和影には目立たないという意味で都合がよかった。
入学したての頃は仕事疲れと生活疲れで黙々と授業をこなし、終わると真っ先に帰っていたのだが、その様子を見ていると和影にことさら話しかけ難かったのだ、と後でクラスメートは言った。
中でも年齢の近い入間とは、授業の合間に話すようになった。和影は自分の身上について詳しく語らなかったが、入間は聞かれないのに自分のことをよく話した。
入間は小さい頃に両親が離婚したので、母親の実家に母子で身を寄せていた。義務教育なので中学校までは卒業させてもらったが、高校に行きたいと言い出せずに実家の伝で印刷工場に就職した。入間の就職と同時に母親が実家を出たので、今は母子二人暮らしである。
家計が厳しい時には工場の仕事の合間に工事現場で日雇いの仕事も請け負って働いている。幸い工場の経営者が理解のある人で、何年か勤めて仕事に熟練してきたせいもあって、この春から夜間高校へ入学した。
次の正月を迎えれば、入間は二十歳になる。クラスメートの中には還暦を迎えるような人も混じっているので、和影も入間も若い方として数えられていたが、和影から見ると早くから社会へ出て働いてきただけあって、年齢は僅かしか違わないのに、入間は随分と大人びて見えた。
一度、映画に誘われたことがあって、休みが合った日に赤木圭一郎主演の映画を見に行った。再上映にもかかわらず、大入り満員で立ち見しかできなかったので、はぐれないように入間が手を引いてくれた。和影はそんな風に男性に手を預けたことがなかったので、久し振りに足を運んだ映画館の暗闇の中、胸がどきどきして映画の内容がまるで頭に入らなかった。
ただ主演の俳優が入間に似ていると思った。




