2 演劇部
和影が三年生に進級すると、一輝が中学校に入学してきた。入学してすぐ、一輝が演劇部に入部したいと言ったので、和影は内心を見破られたような気がしてどぎまぎした。
「演劇に興味がおありなのですか」
「将来家を継ぐことになるから、今のうちしかできないことをしようと思って。それに、違う人になるところが、面白そうじゃないか」
一輝は屈託なさそうに答えた。朝だけ途中まで一緒に登校する杏次郎が、真面目くさって付け加える。
「姉様だって、近頃よく演劇の話をしていたじゃないか」
しまった、と和影は思った。夏休み中に片瀬と親しく話をしてから、和影はしばしば学校でも片瀬と言葉を交わすようになっていた。
片瀬は演劇部に入っているだけのことはあって、裏方だけでなく表の舞台にも詳しく、東京でかかっている人気芝居のチラシなどを持ってきて和影を楽しませてくれた。
日々暮している田舎ではお目にかかれないような華やかな世界を語る片瀬に、和影も知らず知らず影響を受け、もしかしたら一輝にまで影響を及ぼしたかもしれなかった。しかし、原因はどうあれ、一輝が決めたことに反対できるほどの明確な理由もなかった。
お館様も部活動で演劇をすることについて賛成していると聞いては、なおさらである。
これからは、一輝の部活動が終わるまで待って帰ることになるだろう、とまで考えて和影は心が躍るのを感じた。一輝の迎えにかこつけて、演劇部に出入りできるかもしれない、と気が付いたのである。
それも一瞬のことで、一輝を迎えに行くために演劇部に出入りしたら、また皆に何を言われるかわからないということにも気付き、和影はまた沈んだ。僅かな間に浮いたり沈んだりしている和影の様子を見て、一輝が心配そうな顔をして、杏次郎をつついた。杏次郎は、気にするな、という感じで肩をすくめて見せた。
演劇部は万年部員不足に悩んでおり、一輝はすんなり入部できた。小学校六年生から急に背が伸び出した一輝は、中学に入って和影の背を追い越した。他の中学生に比べても背が高い。
爽やかな笑顔と素直な性格、台詞覚えを始めとする呑み込みの早さで、たちまちのうちに一年生の中で頭角を現した。
舞台の主要な役は三年生から埋まり、下級生である一輝に大した役は回ってこない。そこで不平を言うでもなく、背の高いのを利用して裏方の手伝いなども積極的にするので、上級生からも好かれているようだった。
和影は授業が終わると教室で友人達とお喋りをし、友人達がクラブ活動や帰宅のため別れを告げると、図書館へ行った。和影は読書より身体を動かす方が好きなので、図書館へ行っても本を借りず、本棚の間をうろうろしたり窓から校庭で練習している生徒達をぼんやり眺めていることが多かった。
それにも飽きると、仕方なく数少ない絵本や漫画、新聞、図版など絵が多いものを探して、ぱらぱらとめくりながら閉館時間まで過ごした。
放課後になると校庭も体育館も運動部の活動で目一杯使われているので、和影のように何処にも所属していない生徒が自由に使うことはできなかったのである。
図書館には自習室が併設されていて、いつも何人かの決まった生徒が静かに勉強していた。彼らはおおむね成績が優秀で、かつ家が裕福ではない生徒達で、家でなかなか勉強に専念できない分を学校で勉強しているのであった。
この中学校では、高校に進学する生徒と就職する生徒は、ちょうど半々ぐらいであった。和影は卒業後の進路について、明確に決めていなかった。どの高校へ通っても、一輝の送り迎えに支障が出るからである。高校は男女別で、小中学校とは離れた町場にあった。
図書館が閉館すると、和影は居所がなくなって、演劇部が使っている教室の外に出て、爪先立ちで窓からそっと覗いているしかなかった。段々日が長くなる季節、窓の外から覗く姿は目立った。演劇部員が和影の姿に気付くようになる。ある日、和影が爪先立ちに疲れて窓の下に座っていると、がたん、と窓が開いた。
「何やっているの」
片瀬が窓枠に手をかけて、和影を見下ろしていた。窓の下に和影の顔を認めて、片瀬が驚きながらも嬉しそうな顔になった。
「青柳かあ。変態じゃないかって、騒ぐ部員がいるから、危うく先生を呼びにいくところだったよ。興味あるなら、中に入って見ていきなよ」
「でも、他の人に悪いし、そろそろ帰るから」
「そうか、残念だな。今度見たい時には、遠慮しないで言ってくれよ」
片瀬は残念そうだった。和影は礼を言ってその場を去り、一輝が出てくるまで待つのに適当な隠れ場所を苦労して探したが、一輝が片瀬や他の部員と一緒に帰ってきたので、やり過ごして後からついていく羽目になった。
幸い、他の文科系クラブの生徒達も帰宅する時間にぶつかり、何とか紛れてついていくことができたものの、知っている生徒に声をかけられやしないかとひやひやした。
少しずつ、一輝の周りにいる人間が減って行く。和影の前を歩く人間もそれぞれの帰り道に分かれていく。大分歩いた後で、漸く和影は一輝に追い付いて声を掛けることができた。一輝は驚いた様子もなく、和影と並んで歩いた。
演劇部での話ができるようになったのは、二人の他に歩いている人間が誰もいなくなってからである。
「和影は、片瀬先輩のことが好きなのでしょう」
一輝はいきなり核心をついてきた。和影は自分でもきちんと認識していなかったことに気付き、頬がかあっと熱くなるのを感じた。
「え。ま、まさか。どうしてですか」
「今日、和影が窓の外にいて演劇部の練習を見ていたのがわかって、先輩嬉しそうだったよ。片瀬先輩は、和影のことが好きだと思うな」
一輝は和影の火照っているであろう顔を見ないように気遣っているのか、遠くに視線を投げながら歩を進め、次の言葉を口に出すのに一瞬躊躇った。
「僕、一人で学校に行けるし帰れるから、和影は好きな人と好きなことをしたらいいよ。和影は高校へも行かないつもりでいるでしょう?」
和影は返事に詰まった。返事を待たず、一輝は続ける。
「もう、変えるべきだと思うんだ」
守護人は主を守るために独り身を通すのが長い間続く慣わしであった。
一輝の許しを得るまでもなく、結婚さえしなければ、片瀬と付き合っても、一応は掟を破ったことにはならない。
しかし、守護人が誰かと恋愛関係にあれば、本来守るべき者に対する守護がおろそかになるのは自明の理でもある。あの煩い伯父にも繰り返し説かれている。守護人は、実質、恋愛もしてはいけないのである。
藤野家の当主である一輝もそのことは当然知っているに違いない。それを敢えて破る許可を出した。しかも、和影の将来まで案じての発言である。変えるべき、というのは、藤野家に仕える青柳家、という関係性を指すに違いない。
自分の恋愛感情さえ把握していなかった和影と比較して、とても中学生になったばかりの者の言い様とは思われなかった。
和影の心に、藤野家と青柳家の歴史の重みがずしりとのしかかった。青柳家の者は、永久に藤野家の当主には敵わないのかもしれない。
「一輝様をお守りすることが私の役目なのです。私は、一輝様のようなご主人様を持つことができ、とても嬉しく思っております。片瀬さんのことについては、一輝様に誤解されるような振舞いをいたしまして、申し訳ございません。お気遣いされるようなことはございませんので、一輝様は和影のことなどご心配なさらずにお好きなことに打ち込んでください」
「でも……」
「さ、一輝様、お家に着きましたよ」
和影は殊更にこやかに、下働きの者に一輝を引き渡した。一輝は戸惑った様子のまま、促されて門内に入っていった。和影は何故か一輝に勝ったような気がした。もちろん、片瀬とのことにはけりをつけるつもりであった。




