時間を守らない婚約者
本を読んでいたステラ・シャロンの「冷めたかも……」という呟きと同時に、カフェの年若い店員がステラに声をかけた。
「お茶のお代わりはいかがですか?」
「ありがとう、お願いします」
「当店自慢のアップルパイが焼きあがりました、いかがですか?」
先ほどから魅惑的な香りがカフェ内に漂っていた。ステラは向かい側の空席に一瞬目をやってから笑顔で答えた。
「お願いします」
ステラの返事を聞いた店員は、かしこまりましたとはにかんだ笑顔を浮かべた。このカフェでは珍しい男子店員だと思っていたけど、まぁ可愛い笑顔だとステラは思った。
店員には販売ノルマでもあるのだろうかと疑問を持ったステラはその直後、可愛い店員の好意を自分はなぜ素直に受け取れないのだろう、いつから何でもうがった見方をするようになったのだろうと省みて少しぎこちない笑顔を返した。
ステラは壁の時計を確認した。午後2時にカフェで待ち合わせをしていたが、もう少しで3時になる。待ち人は来ない。いつものことだ。
ルイ・ピアジェと付き合いはじめた頃のステラは、この待ち時間をぼんやりと過ごしていた。しかし、待ち時間が5分から10分、20分、30分となったことで、ステラは考えるようになった。
ささいな事かもしれないと思いながらも……大事にされていない、待たせて当然な相手だと思われているとステラは感じるようになった。
毎回遅れてくるルイは、謝罪の代わりに必ず長い言い訳をする。急な来客や仕事のトラブルを理由にして終始言い訳を続ける。毎回、ステラは頷くこともなく無言で聞いていた。
ある時、ステラが「仕事の内容を話されても」と言うとルイの遅刻の理由は変化した。ルイは、来る途中の道でケガした猫を助けた、子供が転んで泣いていたから慰めていたと言いはじめた。ステラはいつも聞き流していた。
そんなことを回想しつつステラは、口にアップルパイを運んだ。
優しい風味と美味しさにステラのイラついていた心は穏やかになった。
(スイーツって私にとっての精神安定剤だわ!)
アップルパイを食べ終わり、読んでいた本をしまい、もう帰ろうとステラが席を立った時だった。
「ステラ、遅くなった! いゃ~、時間より早く着くはずが、途中で──」
とびきりの笑顔のルイが1時間以上遅れて待ち合わせ場所に現れた。
ステラはルイを観察する。曇りのない笑顔、服装の乱れなし、汗なし、息切れなし……という観察結果から事故やトラブルの気配は微塵もないという考察に至った。
今までのステラだったら、あきれながらもそれを悟られずにルイの遅刻の言い訳を聞いていた。
しかし、今日のステラは違った。ステラはルイが少しでも遅れて来たら、言うと決めていたセリフがある。
「今日は失礼します」
遅刻の言い訳を遮られたルイは意外そうな表情を浮かべた。
「どうして、せっかく会えたのに……喉が渇いたなぁ」
(何杯もお茶を飲んで待っていたの、私のお腹はタプタプなの! なぜ気づかないの!? せっかくのアップルパイの余韻を台無しにしないで!!)
ルイの遅刻の言い訳を聞くために、これ以上時間を無駄にしないとステラは決めていた。ルイはヘラヘラ笑って遅刻の説明をしたあとには決まって“忙しい自慢”“寝てない自慢”をする。ステラは一方的に話を聞かされ、つまらないという思いが顔に出ないようにテーブルの木目を数え、ルイが来るまで解いていた難問クイズを頭の中で反芻して過ごしていた。
しかし、今日のステラは決めていた。もうそうやって過ごす無駄をやめると。
(なぜ、この人に合わせないといけないと思い込んでいたのかしら?)
「ルイ様、今日は失礼させていただきます」
「えっ、ステラ。あっ、待って……頑張って仕事を終わらせたのに、君とゆっくりしようと思って」
「言葉が足りませんでしたね。
私はどうしても今日は無理だと申し上げました。『少しだけでも会おう、時間を割いて欲しい』とルイ様が仰ったので、仕方なく1時間ぐらいというお約束をしました。その1時間が過ぎました。この後、私には予定が詰まっております」
「えっ、あっ、そうだったかな?
この後は何の用があるの? 少しぐらい遅らせられないの?」
(自分が遅れておいて何を言い出すの? 本当にこの人とは無理だ。今まで、この人が何回か婚約解消している原因は……こういうところだったりして? 私にも婚約破棄歴があるから人の事を言えないか……)
現在、ステラ・シャロンは19歳、ルイ・ピアジェは25歳。昨年、市民パーティーで親の共通の知人を介して知り合った。年齢の割に落ち着いているステラ、年齢よりも若々しく気さくなルイ。2人は貴族出身の上級市民であり、婚約歴があるという共通点があった。それを知った両家ともに、ステラとルイの付き合いを推奨した。当人同士は周囲の勢いで何となく付き合いはじめ、3ヵ月でのスピード婚約に至った。
ステラは単科大学に通う学生で、ルイは弁護士見習いであった。両家とも結婚には慎重で、婚約期間を長めにと考えていた。そして週に1回2時間程度のお茶会デートが婚約条項に盛り込まれていた。
そのお茶会デートに毎回遅刻するルイにステラは複雑な感情を抱いていた。好きから始まった婚約ではなかった。時間をかけて友好・愛情を深めるためのお茶会だった。それが滞っているものの……自身が異を唱えなければ、いずれ結婚することになりそうだとステラは思った。
時間を守れないということは信用されないということ……それは出世どうこうという話以前に、公私ともに大きな損失に繋がるのでは……ステラは、ルイの無責任さが及ぼす未来の暗雲について思いを巡らせるようになっていった。
一方でステラは、自分の心の中にルイを少しでも思う気持ちが育っているか、遅刻してきたルイと少しでも話したいと慕うような気持が芽生えているかを知りたかった。今日の待ち合わせで、ステラは自分自身をも試していた。
(どうしましょう! 婚約がダメになるのが嫌だと思うだけで、婚約者に対して何も感じない。私、恋に恋していただけなのかも、ルイを待っていたのではなく恋を待っていたのかな? 1年待ったけれど、私とルイとの間に恋は始まらなかった。だから……今日限りでもいいよね。決めた、終わりにしよう!)
「予定が詰まっておりますので失礼します」
ステラは晴れ晴れとした顔で言い切った。いつもと違うステラの様子にルイは慌てた。
「えっ……次回を決めよう」
(なぜ守れない約束をしようとするのかしら?)
「いえっ、お忙しそうなので……今、決めるのはやめましょう」
「いや、今日の埋め合わせをするよ」
「でしたら、まず今まで待った分と同じ時間を返していただけますか?」
「えっ……」
(そう、気づいて……失った時間の埋め合わせはできないのよ。それに気づかない安易な遅刻の埋め合わせなんてものは、新たな時間の喪失になるだけだから私はお断りなの。もう、この先が無いということに気づいて……まあ無理よね、気づくぐらいなら毎回遅刻しないはず……)
ステラはその思いを言葉にせず足早に退店した。
心は婚約解消という言葉で埋め尽くされ、ステラの視界は澄み渡った。
うん? と既視感を覚えるステラは、婚約解消、コ~ンヤクカイショウカイショッカイショ~と変な歌を口ずさみながら家に帰った。
この日の夕食後、ステラはルイ・ピアジェとの婚約を解消したい旨を父エドガーと母グレースに伝えた。毎回、険しい顔つきで婚約者とのお茶会デートから帰宅する娘をシャロン夫妻は気にしていた。2人は神妙な面持ちでステラに向き合った。
「ステラはルイ君の事が好きになれない?」
「好きもなにも、話す機会が無くて」
「週に1回、2時間ほど会っているでしょ?」
「毎回、待ち合わせ時間に遅れ、その言い訳を1時間ぐらいして、忙しいからと帰っていくだけなの」
シャロン夫妻は唖然とした。グレースが話を続けた。
「今日は?」
「もう待つのが嫌で会いたくなかったけど、どうしてもって言われて、仕方がないから1時間ぐらいの短い時間だったらという条件で待ち合わせをしたの……」
「そうしたら?」
「1時間以上遅れてきたの」
「あなた! この婚約を白紙に戻しましょう!!」
グレースは夫エドガーに同意を求めた。エドガーは無言で頷いた。
「また婚約をダメにしてしまって……ごめんなさい」
「いいのよ、ステラ。前回の婚約は仮だし非公式だったし……ステラ、まさか、そんなことを気にして1年近く我慢していたの?」
「ステラ、時間を守れないとは論外だ、酒癖が悪いのと同じでタチが悪い」
(父よ、ずいぶんと過激な比較対象を……)
両親の言葉を聞いたステラは、反対されなくて良かった、非難されなくて良かったと思った。そして、前回の婚約も今回の婚約も……「私、コミュ障かな?」と思うぐらいに婚約者との会話らしい会話もなく終わってしまった事をステラは苦々しく感じた。
スピード婚約は文書だけのスマート解消とはいかず、ピアジェ家の強い意向で婚約解消にあたって両家話し合いの場が設けられた。
ステラは話し合いの場と聞いて、ルイは約束の時刻に来るのだろうか? と好奇心に駆られその場への参加に応じた。
(ルイが時間までに来たら、私は見くびられていたことになる。時間までに来なかったら、シャロン家が見くびられていることになる)
両家話し合いの場、約束の時間にルイだけが来なかった。ピアジェ夫妻は息子ルイが来ないことにイライラしていた。シャロン家側は冷静だった。
約束の時間から10分が経過した時、エドガーが話しはじめた。
「そろそろ、話を進めましよう」
「待ってください、当人がいない事には」
ピアジェ夫人が取り乱した。
「これがルイ君のお答えなのでしょう。我々は10分待ちました。これ以上待つことは、ここにいる5人が時間を無駄にすることになります。時間賠償していただけますか?」
「えっ、時間賠償?」
ピアジェ夫人は驚いた。ステラも時間賠償という言葉に驚いた。
「これは価値観の問題です。時間は無限でタダだと思っているか、時間は有限で貴重と思っているかの違いです。我が家では、待ち合わせにおいて時間を守れないこと自体が約束不履行として不誠実と教えています」
(そうよっ、「時間には遅れたけど、ちゃんと約束の場所まで来たから待ち合わせを守った」なんてことにはならないのよ!)
「はぁ、ですが……そう杓子定規に仰らなくても……」
「ピアジェ家は、そう言って汽車の発車時刻を遅らせるのですか? 試験開始や始業時刻を遅らせてきたのですか?
我々は、約束の時間より10分早く来いと言っているわけではないのです。
こうしている間も我々の時間は刻一刻と失われているのです!」
(父よ、本当に無駄が嫌なのね、だから無駄口も少なかったのね)
ステラは父エドガーが無口であることの根本的な理由に気づき、この場に足を運んで良かったと思った。
「愚息が大変申し訳なかった。この話は、場合によってはこちらの有責で──」
「貴方、なぜそんな簡単に……ルイが来るまでもう少し待ってください」
ピアジェ夫人がヒステリックに叫んだ。
「ピアジェ夫人、あなたは待ってあげてください。我々は話を進めます」
エドガーは静かな口調で粛々と婚約解消について話を進めた。
婚約時の取り決めであったお茶会デートの開始時刻をルイ・ピアジェが守らなかったことによる婚約不履行となり、ピアジェ家がシャロン家に解決金を支払い、弁護士見習いというルイの立場を考慮して婚約破棄ではなく“価値観の相違”を理由に婚約解消という形で決着した。ものの数分で話し合いは終了した。
「ステラ、帰りましょう」
「はい、お母様」
ステラは当たり障りない笑顔でピアジェ夫妻に礼をとった。
何も言わずに出口に向かって歩き出した父をみて、無駄のない人だと父のブレなさに感心したステラは、踵を返し父の後に続いた。
「ステラさん、そんなに許せない、ルイが時間に遅れたことが……。
たったそれだけのことなのよ!」
ステラの背後からピアジェ夫人の声が襲ってきた。それをピアジェ氏が止めた。
「もう、やめろっ。全て終わったのだ。
自分の息子に約束を守らせれば良かっただけのことだろう。
何度も似たような理由で破談になっている、なぜ気づかない」
「そんな……貴方はいつもルイの落ち度は私のせいだと責めるばかり……」
(えっ、やはり。それに家長として息子を指導する立場にいながら、妻だけを責めるなんて……変だよ。私はピアジェ家ともう関係ないから良かった!)
ピアジェ夫人が泣き崩れた。
昨夜、ステラはグレースから変な話を聞いた。相手が自分の事をどれぐらい待てるかで愛情をはかる小説が少し前に流行り、誤解した令息令嬢がそれに倣って、結果的に多くの破談が生まれたと。ピアジェ夫人がそれを知らないのか、今もその小説を信仰しているのかは不明だ。
「ピアジェ夫人、私は『たったそれだけのこと』を守っていただきたかった。
ご理解いただけないようで残念です」
(シャロン家とピアジェ家では完全に価値観が違う、受け入れられないそれを強いられたら、私は私でなくなるかも……)
「……っ、待たせた! あっ、遅くなりました」
最悪ともいえる絶妙のタイミングでルイがやってきた。
「ステラに花を選んでいたら遅れた。母上、何を泣いていらっしゃるのですか?」
花束を持ち、ルイがヘラヘラと笑っている。
(服装の乱れなし、汗なし、息切れなし。はい、最後の観察終了~!)
「シャロン家の皆様、どうぞお帰りください」
「先に失礼する」
ルイはピアジェ夫人から事の次第を聞いている。その横で、家長同士が挨拶して全てが終わった。
……はずだった。ステラは背中から投げかけられたルイの感情的な声を耳にした。
「ステラ、君だって怒らなかったじゃないか!」
つい振り向いてしまったステラには、ルイの憮然とした表情の理由と発言の意図が理解できなかった。好奇心からここまで来たステラは、やはり今日の参加を見送るべきだったと痛感した。その反面、最初の婚約破棄のとき同様、ここではっきりケリをつける必要があるとステラは判断した。
(周囲に流され深く考えず婚約したツケがこれ? 次の婚約こそは慎重にしよう! ……とにかく今は頑張ろう!)
「私が怒れば、ルイ様は遅刻をやめたのですか?」
「ああっ、もう少し早く着くように努力した」
(ダメでしょ。結局、遅刻ありきじゃない!)
「ステラは今までの婚約者と違い怒らないから、遅刻を気にしないのかと……」
「(えっ、遅刻されて嫌じゃない人っているの?)それで?」
「そんなに待つのが嫌だったら、僕に早めの時間を告げれば良かったのに……」
このルイの言い分に、ステラはあきれ果てた。
(何を言っているの、どうしてそんな発想が生まれるの? 悪いのは私なの……なんだか全てが嫌になってきた、泣きそう。この人は、ハザウェイ国で育った分別あるいい歳の大人で時計を持っているよね?)
一瞬、気が遠くなったステラは息を静かに吐いて呼吸を整えた。
「なぜ、私が待ち合わせのたびにルイ様に対して『早めの時間を告げる』という不実をしなければいけないのですか? 自分の告げた時刻より遅れて到着するという約束を破る行為を平然としなければならないのですか?
ルイ様自身の時間管理の甘さのその先が……なぜ、私に不正を強いる発言に繋がるのですか?」
「あっ、そんなつもりは……ステラ、これからは──」
その様子を見守っていたエドガーは、お互いの着地点が異なる非建設的な会話をこれ以上娘に続けさせるのは良くないと判断した。
「ルイ君、全ては終わったのだよ。君とステラにこれからは無い!
時間を守らない君のために娘は我慢を強いられた。人目のあるところで、女性を1人で待たせて何とも思わなかったのか? それも毎回毎回。婚約期間中……君は娘のために何を我慢して、どんな努力をしたのかな? 娘と楽しい時間を過ごした記憶はあるのかな?
君が時間を守れないのは君の個性だ、それが良いという女性もいるだろう。だが婚約条項に記載された内容は最低限履行すべきだったな。
ステラは時間や約束を大切にする大人になるように育てた。先に約束を破ったのはそちらだ、諦めてくれ!」
(父よ、私のモヤモヤを全て言葉にしてくれてありがとう、そうなの、そう!)
無口な父がルイにトドメを刺し、自分の言い残したことを正確に発言してもらえたことが嬉しくて、ステラの目には涙が浮かんだ。
「ステラ、泣かないで。あなたは頑張ったのよ、もう大丈夫よ。道で泣いている子を慰めて遅刻なさったこともあったとか……その間、婚約者を放置して泣かせるような相手だったなんて……よく我慢したわね。それなのに責められるなんて……」
(母よ、私の涙を利用して優位を保ったままこの場から退散しようとしているでしょう。私は、涙ぐんだだけで泣いてない! そんな強く顔を拭かないで、痛い!)
ステラが浮かべた涙をグレースは大げさにハンカチで拭いた。
その様子を見たルイは驚いた。そして自身の遅刻という行為が、相手を怒らせるだけでなく泣かせるほどの事だったと気づかされた。ルイは、自身の時間に対する概念が一般的ではないのかもしれないという疑念をはじめて持った。
今までの婚約者は、待ち合わせに遅れるだけで怒り、数カ月すると「何か違った」「誠意を感じられない」と漠然とした理由で婚約を断ってきた。
(あれは……「(時間を守らない)そんな人と思わなかった」「(遅刻が多く)誠意がない」ということだったのか? 自分の遅刻という振る舞いが、相手を怒らせるだけでなく傷つけ泣かせていたのか……それが、自身に跳ね返ってきていたにも関わらず気づいていなかったと?)
ルイは混乱した。学生時代に仲良くなった友人と1~2回出かけると、次にその友人と外出を共にすることがなかったことを思い出した。職場の上司は、期限が迫っている案件は後輩に任せるようになっている。
期限・約束を守るというのが世の常で、それを侵害され泣いている弱者を守るためにルイは弁護士を目指したはずだった。法を守る弁護士になりたいと思いながら、時間を守らない自身の今までがどういう事かに気づいたルイは血の気が引いた。
自分は何をやっていたのだ……声なき弱者を助けたくて弁護士を目指しているのに、ステラに向かって「君だって怒らなかったじゃないか!」と逆切れし横暴な態度をとったことにルイは気づいた。
取り返しがつかないことをしていたと悟ったルイは、まずステラに謝ることから今までの過ちに向き合うことにした。
「ステラ、今まで酷いことをした、申し訳なかった」
ルイが真剣に謝る姿をはじめて目にしたステラには何の感情も湧かなかった。ステラは「ごきげんよう」と告げ、グレースに手を取られてその場を後にした。
その後、ルイ・ピアジェから復縁を申し出るようなことはなく、解決金の他にお詫びの品が届いて、ステラの2度目の婚約は解消という形で幕を引いた。
ルイ・ピアジェと婚約解消して1カ月が経とうとするころ、ステラは母からの提案にげんなりした。
「ステラ、卒業したらしばらくまた留学したら?」
(母よ、何を言い出す。私は勉強が好きではない。こうなったら……)
「お父様お母様、私、働こうと思うの」
ステラの突拍子もない発言に無口のエドガーと早口のグレースが固まった。
まずグレースが言葉と共に正気に戻った。
「何を言っているの!? 働くって……」
「2度も婚約をダメにしちゃったから縁談は嫌なの、それに勉強も嫌なの、家で遊んでいるわけにはいかないから、仕事をしてみようかと」
(あ~、父の顔が険しい。「仕事は遊びじゃない」とか言われそう)
「遊びの代わりに仕事をするというの? あなたは上級市民なのよ、高位貴族からも縁談のお話が次々に来ているのよ……」
(母よ、縁談はしばらく諦めてくれ……10年ぐらいは、いや永遠に封印してくれてもいいのよ……)
数年前、このハザウェイ国では、増えすぎた王侯貴族の整理縮小が図られた。これによりハザウェイ国は、王族・貴族・上級市民・平民という身分体系になった。
貴族制度改正法に基づき、尊属4親等以内に王の血を持たない貴族は貴族籍から抜けることとなった。5年という長めの施行期間にも関わらず、施行前後は混乱した。
シャロン侯爵家は法改正後も貴族籍に残るはずだったが、エドガーはこの騒ぎに乗じて目立たない形で貴族籍から抜けた。
尊属3親等で王にたどり着くエドガー、他国の王位継承権をもつグレースとステラのいるシャロン家は、貴族籍を抜けたあとは家名と領地を継承した上級市民となった。シャロン家は申し出によりいつでも貴族籍に戻れることになっている。
シャロン夫妻は、貴族特権がなくなった見返りに宮中行事やノブレスオブリージュから解放されたことを喜び領地経営に励み財を増やしていた。シャロン家のように頭角を現す上級市民は多く、貴族と上級市民の財政事情は逆転し、身分の序列との歪みが生じていた。貴族は息子・娘の結婚相手として上級市民へ縁談を打診することも珍しくなかった。
ステラの最初の婚約、伯爵令息アラン・アルバとの婚約は爵位と血統絡みでこじれにこじれてステラは嫌な思いをした。次の婚約者ルイ・ピアジェとは身分の垣根は無かったものの価値観が違い歩み寄れなかった。
婚約破棄と婚約解消を経験したステラは、しばらく結婚については考えたくなかった。
しかし、婚約もしないでステラが家にいると変な話が次々と持ち込まれることは、母の発言からしても明らかだった。そして、自身の血統目当ての縁談は、ステラには受け入れられないものになっていた。
19歳での婚約解消を深刻に捉えたステラが自身の今後を考えた時、残された道は……契約婚約か、経済力をつけるかのどちらかしかないと密かに考えるようになっていた。
(契約結婚は最後の手段よ!)
「お父様、お母様、実は試しに採用試験を受けたの」
「何の採用試験?」
「王都シエラの事務官採用試験。正確には1次試験が通ったの、2次はこれからだけど」
置物のように座っていただけのエドガーが反応した。
「なに! ステラ、1次試験を通ったって……上級文官枠か!?」
「そう。お給料表が公開されていて、意外と高給だったから上級事務官枠を受験してみたの」
「文官試験対策塾に通っていたのか?」
(父よ、塾ってなに、学校受験以外にも塾があるの?)
「いえ、7~8カ月ぐらい前に書店で王都の事務官採用試験対策問題集を買って、それを覚えただけです」
エドガーにとって、ステラの王都事務官採用試験1次合格という発言は寝耳に水だった。「実は好きな人がいるの」と言われるよりも驚くことだった。
地方文官とはいえ王都シエラの文官となると男子でも狭き門だというのに、娘がまさか受験していたとは……事前に相談されていたら、エドガーは不合格でステラが傷つかないように間違いなく受験自体を諦めさせていただろう。
(女の子だからといって視野が狭くならないように家訓通りに留学させ、より良い伴侶をとカレッジに通わせていたというのに……ステラはその先を見ていたのか? 文官という実力主義の堅実な就職先をステラが知っていただけでなく、1次を突破していたとは……ステラは伴侶どころか、親に頼らない人生設計をしているのかもしれない……寂しいなぁ。
2度の婚約がよほど堪えたのだろう。可哀想なことをした。そうか、ステラは仕事に生きると決めたのだな!)
「ステラ、文官になりたいのだな?」
(父よ、それは少し、いやかなり違うかな。問題集を少し解けるようになって、受験料不要だと知って、受験会場の都庁舎の内部に入ってみたくて、見学を兼ねて受験してみただけ……なんて言えないよ、どうしよう?)
ステラは書店で多数の地方事務官採用1次試験対策問題集を目にした時、ルイの発言「事務官相手の僕の仕事は大変だ」をふと思い出し、何となく気になって購入した。
ルイとのお茶会デートで待たされている間にステラは少しずつそれを読んでいた。はじめは訳が分からなくページをめくっては眺めているだけだった。だんだんと読めるようになり、理解しはじめ、途中から難問クイズを解いている気分になり、繰り返し解いてステラは遊んでいた。
(私、どれだけルイに待たされていたの? この本のせいで、婚約解消に至ったとか!? いや、この本のおかげで結果的に婚約解消へと踏み切れた? 1次とはいえ試験に受かって考えに変化が生じたとか……)
ステラは少し前の婚約解消を思い出し、微妙な気分になった。
「あなた、ステラ、何の話? ステラは結婚してもしなくてもこの家にいるのよ」
「お母様、私、この家にいるなら余計に仕事を持った方が良いと思うの」
(母よ、この屋敷は巨大、維持するだけでもかなりのお金と知識が必要よ。
父と母は先に死んでしまうでしょ。そのあと路頭に迷いたくないの、私)
「グレース、心配することはない。王都の文官ならこの家からも通える」
国の文官は異動が多く国内を転々とするが、王都の文官は王都内の転勤しかない。文官になれれば単身のままでもステラの社会的信用度は増す。生まれついた身分や血統といったものは政治や制度に左右されてアテにならん。それに比べて自身で掴んだ文官職は確実なものだ。王都の文官であれば、私とグレースとステラは一緒に暮らせる。そうか、そのためにステラは王都の文官を受験したのだなとエドガーは考えを巡らせた。
文官というものはシャロン家とは縁もゆかりもなかった。特にグレースにとっては、娘が男性のように働くということが理解できない。娘を実力社会の文官として働かせるというのは、魑魅魍魎の世界に娘を置き去りにするようなものでしかなかった。グレースは、娘に結婚を無理強いしない代わりにとにかく進学させようと考えた。
先手を取ったのはエドガーだった。
「ステラ、2次試験の記述と論述の勉強は進んでいるのか?」
「それが……1次試験も受かると思っていなかったから、婚約解消の少し前に1次の合格を知って、慌てて記述と論述の問題集を買ったけど(問題文に使われている全ての単語が新鮮というか未知!?)なかなか難しくて……」
「リシャールに勉強をみてもらいなさい。私から伝えよう。
ステラ、簡単な試験ではない。不合格という結果に嫌な思いをするかもしれない。だが来年、また受ければ良い、今年はできるところまで頑張ってみなさい」
(父よ、そこまで事務官になりたいわけでは……ここは穏便に、とりあえず……)
「はい、お父様」
エドガーは有能な執事のリシャールを呼びつけ事情を説明した。
「有能さん、私のすべきことは」
「お嬢様、私はリシャールと申します。まず私の名を覚えていただけますか?」
「リシャールさん、よろしくお願いします」
「リシャールとお呼びください」
リシャールはステラが10歳の時からシャロン家に仕え始めた。リシャールから見たステラは空想好きな夢見がちな少女であった。そのステラが15歳の時、自身の婚約に見切りをつけた判断力の確かさにリシャールは驚いた。それからリシャールは、シャロン家で大切にされているステラの成長を興味深く見守っていた。シャロン家が侯爵位を返上し上級市民になった際にリシャールは執事に昇格した。
今に至るまで、ステラはリシャールのことを「有能さん」と呼ぶ。リシャールはいつまでも距離を取られているようで近頃は寂しく感じていた。
「お嬢様、その記述・論述試験はいつですか?」
「2週間後なの」
「時間が少ないですね。
わかりました、睡眠も含めて私の言うとおりに2週間を過ごしてください」
「リシャール、今から謝っておくけど……私、頑張るけど結果は期待しないで」
「はい、来年もあります」
(あの、その、だから……そこまで私は事務官になりたいわけでは……)
「お嬢様、勉強は役に立つとは限りませんが無駄にはなりません」
「(すでに期待されていない……良かった)はい」
親子3人どころか、当主夫妻の考えも噛み合わないまま、シャロン家はステラの採用試験結果発表に臨んだ。王都中心にそびえ立つシエラ都庁舎の公示板横に採用合格者番号と氏名が張り出された。2週間という短期決戦が良かったのか、ステラは王都の上級事務官採用試験に合格した。
王都シエラの事務官採用試験は成績順位や得点表が希望者に公開される。ステラは、自分の合格を実感するためにそれを希望した。国立大学の法・政治・経済学部在籍・卒業生が合格者のほとんどを占める王都の事務官採用試験で、私立女子大学文学部のステラが採用順位中盤に位置したことは快挙である。その場で、そのことに気づいていたのはエドガーとリシャールだけだった。
エドガーは「よくやった!」と喜んだが、グレースは「えっ、受験だけで本気で文官になるつもりはないのよね? ステラ、働くならもっと綺麗な服を着て明るい職場のほうが良いのでは? 大きい建物に通いたいなら採用辞退して総合大学に通いなさい」と不思議な理屈をこね難色を示した。リシャールは「おめでとうございます」と優しい微笑みを浮かべた。
カレッジの進路課の窓口では「当女子大から事務官採用試験の合格者が出るはずがないのよ、縁談の斡旋希望かしら?」と話にならず、ステラは進路決定表を提出して帰宅した。数日後、副学長がシャロン家を訪ね「都庁舎の発表を確認してきました、おめでとうございます。当校は花嫁学校としてその名が先行してしまいがちでしたが、これで働く女性の進学先としても評価されます。ありがとうございます、よく頑張りましたね、おめでとうございます」とお礼とお祝いの言葉をくれた。
カレッジの友人達の反応はバラバラだった。「すごいね」「文官試験って難しいって聞いていたけど簡単なのね。私も受ければよかった」「えっ、働くの? どうなさったの? シャロン家が困窮していらっしゃるなら父に頼んで融資しましょうか?」と幅広い反応だった。
王都の事務官、通称文官、私には場違いなのだろうか? と、ステラは不安になった。ステラは自分に与えられたものに拒否権を使うことがあっても、新しいものを自分で選択する経験がほとんどなかった。
ステラは12歳の時に隣国に留学した時を思い出した。仲良くなったルームメイトのリリーは家業を継いでいる。シャロン家の領地経営を継ぐために進学すべきなのだろうか? いや、父エドガーとリシャールがいるとステラは進学しない理由を見つけた。
カレッジの友人の半分は就職するが、親の関連会社へ秘書枠で内定を取っている。その先に結婚が見え隠れする秘書という職業にステラは魅力を感じなかった。
とはいえ王都の事務官は私には場違いなのだろうか? そもそも事務官って何をするの? とステラの頭の中で進学・結婚・事務官というワードがグルグルと渦巻いていた。
事務官採用試験合格発表日から日がたつにつれ食欲をなくすステラをみて、リシャールが声をかけた。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「リシャール、せっかく合格させてもらったのに……事務官なんて無理かな? と思ったりして、どうしたら良いかわからなくなってしまって」
「お嬢様、事務官採用試験に受かったのはお嬢様の実力です。あれだけの出題想定問題を暗記なさったのはお見事です。特に傾向が変わった論述試験では時間内によくまとめられましたね。実力ですよ」
(リシャールよ、それはあなたが鬼の形相で隙間ない時間割を……辛かったぁ。もうその笑顔が信じられない……)
「事務官になって何をするの? と、友人に聞かれても何も浮かばなかったの。
そういうことを全く考えていなかったから」
「お嬢様は書店で何となく問題集を手にしただけと仰いますが……興味ない職業や嫌う職業の採用試験問題集だったら手に取らなかったはずです。仮に購入しても開かなかったはずです。関心を持たれ、塾にも通わず、1次試験に合格する実力があったからこそ、旦那様も動かれたのです。
はじめて働くときは、誰しもが未経験です。文官が嫌でないのなら、他にやりたいことがないのなら、文官に進まれてから先の事を考えられるのもアリです」
「アリかな?」
「アリです、就職はゴールではありませんから」
ゴールではない……婚約・結婚がゴールではないと思ったステラは、その先を考えて婚約を2度流した。確かに就職も人生のゴールではないとステラは思いを巡らせた。
(私、何をどうしたいのだろう?)
「リシャールはどうして執事という仕事を選んだの?」
「幼いころに法律家をめざした私は、学費を旦那様に援助していただいておりました。学校を卒業し執事見習いをしながらロースクールに進学したころ、お嬢様がアラン様との婚約を破棄なさったのです。その時、旦那様は婚約不履行裁判を見越して私に相談なさったのです。私は旦那様から相談されたことを嬉しく思いました。法律家として事務所を構え法廷で戦うだけでなく、法律を使って身近な人をお助けすることができると実感したのです」
「リシャールって有能だけでなく優秀で優しいのね」
リシャールはステラの微妙な物言いに苦笑した。
「有能で優秀で優しい執事になろうと私は頑張っているだけです。
お嬢様、夢や目標や生きがいといった大きなものを仕事や人生に求めなくても良いのです。給与にみあう働きをするという目標からスタートしても良いのです。事務官採用試験に受かったからと言って、採用と同時に第一線での活躍を要求されません。何となくでも良いのです」
リシャールの『何となくでも良い』という言葉でステラの心は少し軽くなった。
「そうよね、新規学卒採用枠だし、辛ければ早々に転職もアリかしら?」
「お嬢様、採用されても半年は研修で、配属決定後もしばらくは研修が続きます。
せめて実務についてから1~2年経過してから転職を判断すべきかと」
(えっ、また勉強……でも結婚を考えるよりはマシよね、お給料もらえるし……だけど……)
ステラには気がかりなことがあった。卒業後の進路を巡って両親の意見が対立していることだった。
貴族制度改正法施行でハザウェイ国の王侯貴族の影響力はますます勢いがなくなった。かつての留学先・隣国スニミキラでは中央と地方格差が問題になっている。親友リリーの国では王政復興が叫ばれている。
ステラは以前のこじれた婚約をきっかけに、過ぎた何かに囚われて得られぬ未来に固執しないように心がけていた。周囲の変化を注視していた。しかし、激しい変化にステラの考えは追い付いていけず息切れを起こし始めていた。
ステラの父エドガーは爵位を手放し多くの財を得た。それでもエドガーは日々の努力をやめない。母グレースも侯爵夫人というものに執着しなかった。変化に対応しながら未来を塗り替え続ける両親の姿にステラは尊敬の念と同時に憧れを抱いていた。
ステラが文官になるということは、父と母が築いたような家庭を自分は手放すことになるかもしれない。時代が動き、結婚観も変わっている。現に、2回目の婚約解消においても、ステラの両親は積極的に動いてくれた。
その父母の意見が対立……ステラは母の進学の願いを払いのけてまで王都の事務官になるほどの覚悟を持てず、卒業後の進路選びは迷走していた。
「……お母様が、文官になったら縁遠くなると嘆いているの……」
「お嬢様、職場結婚という言葉もありますよ」
「おおっ、それよ!! 私、事務官になるわ」
(事務官は男性職場! 普通に話せる人との出会いを望めそう、それに……)
「間違いなく、文官という職業に就く人は時間に正確なはずよね」
(仕事をしたから縁遠くなるなんて決まりはないのよ! これから自分の進む道は自分で決めよう! 今はお母様は反対するけれど、私が事務官になり堅実な人と結婚して幸せになったら……お母様は喜んでくれるはず。
職場結婚! 書類を渡すときに手と手が触れあって、そこからぁ~、ふふっ)
「……お嬢様、あと半年はカレッジに通い、ちゃんと卒業してくださいね」
王都の事務官になって恋に仕事にぃ〜と珍しく妄想の世界に浸ったステラをリシャールは呼び戻した。
19歳のステラは、働き給与を得るということは大変なことだと覚悟している。その覚悟以上に実際はもっと大変なのだろうという予想もしている。そして、ステラは、普通に恋をするということがいかに難しいことかにも気づいている。
それでも、「恋をしたい」とステラは夢見てしまう。
ステラは少し先の将来を考えると……恋に仕事に〜と歌ってしまう。
ステラは半年後にカレッジを無事に卒業した。
2度の婚約を経験し20歳になったステラ・シャロンは王都の事務官になった。
── 時間を守らない婚約者・おわり ──