夜の底
ぱちん、と乾いた音がして、世界が弾け飛んだ。風景は焦迫の気を帯びて存在の底の下へと沈下を始め、私は急速に色褪めて行く世界の残骸の直中で、独り孤独に戦慄いていた。夜の翼は薄気味の悪い冷気を伴ってさっと既可視の領域を撫で斬りにし、無言で凝っと待ち構えていた星々を誘い込み、阿鼻叫喚の冷酷な胎動地獄が展開を活発化させた。異物の詰まった道管の様に時折停滞を見せる様になった時間の裂け目からは忘れ去られていたものどもの絶叫が洩れ出し、仲間を見付けては余勢を買って溢れ返り、ぞっとする様な高笑いを響かせ乍ら、怨嗟の声で星空を塗り潰して行った。私は高い灯と成って目の前に繰り広げられて行く悍ましい光景から目を逸らせずにいた。リズムを持たぬ旋律が我勝ちに盲滅法に重なり合って目眩く季節の変転を編み出し、この世の終わりかと思わせる凄まじい大風は、奇妙な静寂と共にあらゆる雑音を攪乱させ、膨張させ、そして薙ぎ払った。あらゆる価値と表象とが凄惨なまでの鋭利さを露にし、明晰だが御し切れぬ悪夢に出て来る怪物の様に、透明だが確固たる大質量を持って私の前に聳え立ちはだかり、心騒がされる久遠のものへと誘う狂笑めいた呼び掛けを何度も何度も繰り返した。闇と光との狭間から生み出された精妙な質感を持った刃が何処からともなく現れてその呼び掛けに唱和し、ぎらぎらと兇暴な獣染みた輝きを周囲に撒き散らし乍ら、目の粗い布を無理矢理引き裂いた時の様な不快な音響を放って虚空を猛スピードで横断して行った。あちこちの物陰から無数の無言のものどもの気配が立ち上り、目には見えぬ乱舞で大気を騒がせたが、生気に溢れてい乍ら実に荒涼として非人間的なその感触は、昆虫の大群か、自分の死に気付かぬ亡者共の一団を連想させた。
私は今何処に居るのだろう? 私は自問した。———双曲線状に落ち込んだ世界の底だ。では一体誰の? ———恐らくは私のだ。幾つかの不安定な晩に出会った、落ち着きを失くし狼狽えた世界達の、これは集積体なのだ。現に見えているものが、必ずしも恒常的な性格を備えた実体ではないことを思い出さねばならない………。幸い上下の感覚はまだあったので、私は先ず大地を同定することにした。踏み締めるべき地面が無ければ、自分の境界さえ碌に判別出来ない。肉体と云う他者が邪魔だった。足下を見ると私の影が落ちていた。一瞬後、私は今までずっと影でありこれからもまた影であり続けるところのものと入れ替わった。私は夾雑物を捨て、純粋な思念知覚体と成った。美しくも凶々しい夕焼けが在り、私はそちらへ向かって歩いて行った。身の毛のよだつ様な絶対の静寂と、賑やかな死者達の宴が混在する闇の風景は、屡々その闇の中に是も非も無く溶け込んで行ってしまいそうな頼り無き身の上の私にとっては、限り無く恐ろしく邪悪で、獰猛に見えた。やがて濃厚な宵闇が頭上からゆっくりと降下して来てすっぽりと天球を覆い、大量の紫水晶の山にも見える凍った大気の結晶が、夜を凍り付かせて行った。
ふと上空を見ると、厚く濁った雲の幕を護衛に引き連れた、拡散した月の光が血痕の様に星空を犯して現れて来ており、星気の嵐が哄笑しつつ地球を呑み込もうとしていた。私は逃げ道を探しておきたいと云う本能的な衝動に衝き動かされ、飛翔して風景の外側へ出ようと足掻いてみたが、徒労だった。街並みはまるでガラス板の中に閉じ込められた書割の様に闃然として打黙して動かず、冷厳に私の視点の移動を拒み、私をこの夜の中に閉じ込め続けた。私が冷え切ったアスファルトの上で為す術も無く立ち尽くしている内に、濃紺はやがて肚に一物を匿している様な濁った紫の混じった黒へと変化し、唸り、呻き、叫ぶ死者達の無言の声が辺り一面にどよめき始めた。数時間に及ぶ断続的な甲斐の無い格闘の末、私はやおら意を翻してその化け物染みた呪詛の大合唱の直中へと身を投じ、死者達と成った。途端に私を縛り付けていた禁忌が効力を失い、私は気の狂いそうな夜々に経験した、寂寞で凄涼たる光景の数々を、満足の行く孤独の裡に再び眺め下ろすことが出来る様になった。等間隔に無機質な街灯が延々と立ち並ぶ街路へと降下し、その先に照らし出された領域を抉じ開けると、そこはもう無窮の空だった。遙か眼下では気圧の裂け目からどろりとした何かの体液の様な風が洩れ出して澱み、地上を席捲していたが、此方では星気嵐が凄まじく巨大な渦を巻いて荒れ狂って猛然と飛び出し、余りの遠さの為に反照の判別出来ぬ明るい闇の支配する時空間から、一切の虚飾を容赦無く剥ぎ取って行った。何重もの層を成した法外な幾つもの回転がその澄み切った宇宙で独自の理法を宣言し、汚穢に塗れ切った大地の内臓はじりじりと口惜しそうに後退りし、やがて銀に輝く巨大な狼の牙の餌食と成った。それから万物の中で唯一存在していた、人の形をしていたかも知れないものが内側から泥の様に崩れ、見るも汚らわしいその中身をべちゃりと地面に打ち抜けさせた。透明さは一気に苛烈な恐怖へと凝縮し、急激な収縮を始めた宇宙の中で、私は逃走を開始した。世界はそこで潰れた。
それから挫折から生まれた悪鬼めいたものどもに取り囲まれ、記憶には残らぬ悍ましい数幕があった。私は失墜して戦き、必死になって幻視を中断させようと試みた。そして、これから覚めようとしている夢が、果たしてどちらの意味での夢だったのか同定することに意識を集中させた………。