真一郎とエリス~純愛・サイドストーリー~
こちらは香月よう子様とのコラボ作品「純愛~過去の想い出を上書きするは不惑の女~」のサイドストーリーです。
本編の最後にコラボ作品へのタグもありますので、そちらも合わせてお読みいただけると嬉しいです。
自分は何をしているんだろう──。
真宮真一郎はそう思っていた。
父の始めたオーダー製の万年筆会社『リヒト・コーポレーション』。
要望に応えられるだけ応え「世界にひとつしかない万年筆」というコンセプトが人気を博し、数十年で飛躍的に伸びた会社だ。
その規模は大きく、今や海外にまで発展し世界各地に支店がある。
そこの跡取りとして生まれた彼は、次期社長として数々のノウハウを叩き込まれた。
万年筆の歴史から発展、存続、革新。
ありとあらゆる基礎知識に加え、部品ひとつひとつ、インクの製造方法まで学ばされた。
父の真一郎に対する教育は熱心だった。
その熱心さゆえに時には反発することもあったが、真一郎は真面目にそのすべてを吸収していった。
高校卒業後も父の教育方針は変わらなかった。
社長の息子だからといって優遇するわけもなく、自社の下請け工場にバイトに行かせた。
もちろん、見習いとしてだ。
そこで徹底的に万年筆の製作工程を学んだ真一郎は、数年後には一人でオーダー通りの万年筆を作れるようになった。
もともと手先が器用だったのもあるのだろう。
真一郎の作った万年筆は好評を博した。
『素敵な万年筆をありがとう』
そんな手紙をもらったこともある。
彼にとってその頃はまだ、何の疑問もなくただただ客に喜ばれる万年筆を作ることにやりがいを感じていた。
そんな彼がやる気を感じなくなったのは、正式にリヒト・コーポレーションの正社員となり、数年後にひとつの支店を任せられるようになってからだった。
もともと、父の狙いは万年筆作りではなく経営のほうである。
従業員から経営者になったことで、彼の価値観はぐるりと変わった。
毎日、顧客との契約を交わす日々。
店の収入や支出を計算し、赤字を出さないことに躍起になる仕事。
どれだけ会社に利益を与えられるかを常に課せられた。
そのため、おすすめプランを用意しては「今なら追加料金でこんなものもお付けしますよ。どうですか」と心にもないことを進言し、時には破格の値段で新規顧客を取り入れたりもした。
彼にとって万年筆は、どれだけ客を喜ばせられるかではなく、どれだけ儲けられるかの対象となったのである。
「自分は何をしているんだろう」
真一郎がそう思うようになったのは、まさにそんな時だった。
今まで言われるがままに生きてきた彼にとって、初めて疑問が生まれたのである。
この仕事は本当にやりたかった事なのだろうか。
このまま続けていって後悔しないだろうか。
ほかにやりたいことはなかったのか。
絶えず自問自答を繰り返した。
もちろん、我が儘な悩みなのはわかっていた。
生活に困らないからこその贅沢な悩みだということを。
確かにこのまま順調にいけば、それなりの地位につけるかもしれない。
場合によっては父の後釜として社長となれるかもしれない。
しかし、こんなのはただ親の敷いたレールの上を歩いているだけではないか。
親の思い通りに生きているだけではないか。
そう思った彼は、仕事にも精が出なくなり、徐々に任されていた支店の経営をすべて副店長におしつけていった。
幸い、副店長も出世するチャンスと思って頑張ってくれた。
実際、すぐに出世して本社に配属された。
そんな真一郎に苦言を呈したのは他ならぬ社長であり父である真宮大悟である。
彼は別邸に真一郎を呼び出すと、開口一番こう言った。
「どういうつもりか」
それは威厳のある声だった。
少し怒気をはらんでいるようにも感じられた。
しかし真一郎は落ち着いて聞き返した。
「どういうつもりとはなんですか?」
「そんなにこの会社が嫌いか」
ストレートな聞き方に答えにつまる。
嫌いではない。
立派な会社だとは思う。
けれども自分がこのまま続けていいのかわからない。
「僕は……不安なんです」
「不安?」
「このままこの会社で一生を終えていいのか。後悔しないか。もっと他にやりたいことがあったんじゃないかって」
「やりたいことでもあるのか」
「……」
真一郎は答えられなかった。
やりたいこと、それが見つけられない。
「……すいません、父さん。僕には何の夢も希望もありません。やりたいことすらわからない」
大悟は真一郎の言葉に「ふう」と息を吐いた。
今まで、様々な顧客の要望に応えてきた彼だけに、息子の言葉はなんとなく理解できるものだった。
「そうか。まあ、そういう風に育ててきた、わしの責任でもあるな」
大悟にとって最上の幸せとは自分の会社で働くことと信じて疑わなかったため、真一郎に対して他の選択肢を奪っていたのだ。
いまさら他にやりたいことと言っても容易に見つけられるものでもない。
大悟はしばらく思案した後「わかった」と言った。
「お前にはドイツ支社の配属を命じよう」
「ドイツ?」
真一郎は耳を疑った。
なぜそこでドイツが出てくるのか。
確かにリヒト・コーポレーションはグローバル企業だ。
海外にいくつも支店がある。
しかしいきなりドイツと言われても、わけがわからなかった。
「ドイツですか?」
「日本から出ろ、真一郎。わしの目の届くところにいては気が散るだろう。日本から出て、グローバルな視点で自分のやりたいことを見つけろ」
その言葉に、真一郎はハッとした。
ドイツ行きは父の温情なのだ。
いくら会社を辞めようが、金がなくてはやりたいことも見つけられない。
それはつまり、働き口を確保しながら外の世界で自分の道を探せということだ。
「ドイツ支社にはわしから連絡を入れておく」
真一郎は父の優しさに心から感謝し、頭を下げた。
そしてその数週間後にはドイツへと旅立った。
※
ドイツは良いところだった。
街並みはキレイで食べ物も美味しい。
人もフランクだしサバサバしている。
幸い、ドイツに支店があるという理由でドイツ語を学ばされていた真一郎は言葉に困ることはなかった。
宿舎もすぐに決まり(といっても安アパートだが)ドイツでの新たな生活が始まった。
日中はリヒト・コーポレーションドイツ支社の社員として。
夜はいろんな業種の情報を集めてはどんな仕事かを調べた。
でも、どの業種も魅力を感じなかった。
調べれば調べるほど、リヒト・コーポレーションのほうがはるかにやりがいのある会社のように感じられる。
「ふう」
真一郎は、夜になるとため息をつくことが多くなった。
ドイツ支社の社員たちは皆親切だった。
日本人も何人かいたが、ほとんどドイツ人だった。
真一郎が社長の息子と知っているにも関わらず、気軽に話しかけてくれる。
それが彼には嬉しかった。
数カ月もすれば「シンイチロー」と下の名前で呼ばれるようになった。
そんなある日。
同僚の一人が声をかけてきた。
「シンイチロー。今度ギドの家でホームパーティーやるんだけど、君も来ないかい?」
「ホームパーティー?」
日本では馴染みのないイベントである。
真一郎はすぐに興味を持った。
「面白そうだけど……僕が行ってもいいのかい?」
「何を言ってるんだ? 来て欲しいから誘ってるんだよ」
遠慮しがちなところが日本人の悪い癖だよ、と笑われた。
真一郎は「ぜひ」と頷いた。
※
ホームパーティー当日。
真一郎はスーツ姿でギドの家に向かった。
正直、ホームパーティーなど初めてでその格好でいいのか不安だった。
(ホームパーティーって何をするんだろう?)
それすらよくわかっていない。
しかし同僚は皆いい人たちなので、きっと細かいことは言ってこないだろうとも踏んでいた。
たとえ浮いていたとしても笑い飛ばしてくれるはずに違いない。
それだけ彼はドイツの社員たちに心を許していた。
手ぶらなのもなんだと思い、花屋で花束を買った。
スーツ姿に花束。
まるでこれからプロポーズでもするかのような格好に、彼自身笑ってしまう。
そんな真一郎の目に、一人のみすぼらしい女性が止まった。
ぱさぱさの金色の髪に汚れた服。
化粧っ気のない顔。
うつろな表情。
一瞬、ホームレスの女性かと本気で思った。
女性は真一郎には目もくれずトボトボと歩いている。
どこに向かっているのかわからない。
いや、目的地などないのかもしれない。
死んだ魚のような目で路地を歩いている。
「君」
真一郎は思わず声をかけた。
女性はその声に反応して彼を見た。
死んだ魚の目がますます濁った気がした。
「大丈夫かい?」
声をかけたはいいものの、なんて言っていいかわからず、ようやく出た言葉がそれだった。
「……」
女性は何も答えなかった。
ただ、じっと彼を見つめていた。
「どこの人だい?」
「……」
「この辺りの人かな」
「……」
何も答えない女性に居心地が悪くなる。
真一郎は早くも声をかけたことを後悔した。
「……まあ、答えたくないならいいさ。呼び止めて悪かったね」
そう言って行こうとすると女性は言った。
「……エリス」
それはか細くて今にも泣きだしそうな声だった。
「え?」
「エリス……」
女性は同じ言葉をつぶやいた。
「あ、ああ。エリスか。いい名前だね」
エリスと名乗った女性はその言葉に少しだけ微笑むとそのまま去ろうとした。
刹那、真一郎の心が警鐘を鳴らす。
(このまま行かせちゃダメだ)
なぜそう思ったかはわからない。
けれども唐突にそう思った。
真一郎は立ち去ろうとするエリスの前に立ちふさがった。
「ねえ、どこに行こうとしてるんだい?」
まさか、死のうとしてるんじゃないか? という言葉は飲み込んだ。
彼女の顔は、まさに数カ月前の彼の顔にそっくりだ。
「僕の部屋に来なさい」
真一郎はそう言って半ば無理やりアパートに連れて帰った。
同僚にはキャンセルの連絡をした。
「残念だ」と言いつつ、理由も聞かないところがドイツ人らしいといえばドイツ人らしかった。
「Es tut mir leid.(すまない)」
「Keine Sorge.(気にするな)」
軽く笑い飛ばしてくれるところがありがたかった。
真一郎はエリスをアパートに連れ帰るとすぐにシャワーを浴びさせた。
多少は警戒されるかもと思っていたが、エリスはなんの抵抗もなく言われるがまま服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
もちろんその間、真一郎はアパートの外に出て待っていた。
季節は春から夏へと変わろうとしている。
夜の外はまだ肌寒い。
待っている間、彼は手にした花束を見つめていた。
自分で買っておきながら処理に困る。
「男の一人暮らしに飾っておくには華やかすぎるな」
そうつぶやいて一人苦笑した。
やがて部屋のドアがコンコンと内側からノックされた。
エリスがシャワーを浴び終えた合図だ。
そっと玄関のドアを開けて中を覗くと、そこには体中から湯気を上げているバスタオル姿のエリスがいた。
すぐに中に入り、ドアを閉める。
「さっぱりしたかい?」
尋ねる真一郎にエリスはコクリと頷いた。
さすがにそのままにしておくわけにはいかず、部屋の奥へと連れて行く。
「ちょっとサイズが大きいかもしれないけど、これ着なさい」
そう言って真一郎は部屋で着ている自分のトレーナーを渡した。
下着は仕方ないにしても、さすがに彼女が着ていた服は汚すぎた。
エリスは言われるがまま渡されたトレーナーを着た。
袖や裾はダボダボしていたものの、何も着ていないよりはマシだった。
コーヒーを淹れてエリスに差し出す。
「どうぞ」
「Danke」
エリスはダボダボのトレーナーの袖でコーヒーカップの取っ手をつかむと、口に運んだ。
「おいしい……」
「そう? よかった」
エリスは何度も何度もコーヒーを口に運び、その味を噛みしめていた。
真一郎も自分の淹れたコーヒーを口にする。
しばらく沈黙が訪れたため、テレビのリモコンへと手を伸ばした。
「テレビでも観るかい?」
エリスは首を振った。
どうやらこの沈黙が好きなようだった。
真一郎はリモコンから手を放し、一緒にコーヒーを飲んだ。
どれくらいそうしていただろう。
やがて、エリスが口を開いた。
「スーツ……」
「ん?」
「スーツ着てる。仕事に行く途中だったの?」
真一郎はエリスに言われて初めて自分がまだスーツ姿だったことに気付いた。
「あ、ごめん。仕事じゃないよ。友人のところに行く途中だったんだ」
そう言って、すぐにスーツのジャケットを脱ぐ。
幸い、トレーナーはもう一着あった。
次いで、玄関先に放置していた花束を思い出すと、無造作に持ってきてエリスに差し出した。
「これ……」
「え?」
「これあげるよ」
「花?」
「さっき言った友人にあげるつもりで買ったけど、必要なくなったから」
「受け取れないわ」
「……そうか」
真一郎はそう言うと、テーブルの上に花束を置いた。
確かに見ず知らずの相手からいきなり花束を贈られても困るだろう。
別に他意はなかったが、気まずさが増した。
真一郎はトレーナーに着替え終わるとエリスの前に腰を下ろして改めて尋ねた。
「さて、と。それじゃあ教えてくれないか? 君はどこの誰なんだい?」
「私は……」
言いかけて口をつぐむ。
どうやらよほど人には言いたくない何かがあるらしい。
けれども真一郎は気にも止めなかった。
人には隠し事の一つや二つあるものだ。
それは彼自身、よくわかっていた。
大企業の社長の息子ということでチヤホヤされていた幼少期。
仲の良かった友達も、自分が社長の息子と知るやよそよそしくなった。
それが嫌で、中学・高校は遠く離れた場所を選択し、自分の正体をひたすら隠した。
それでもいずれはバレてクラスで浮く存在になってしまった。
自分のことを話したくない気持ちは理解している。
だからだろうか、真一郎にとってエリスはなんだか他人とは思えなかった。
「まあ、言いたくなければ言わなくていいさ」
「え?」
「僕は深く詮索する気はないよ」
「……」
その言葉にエリスは明らかにホッとした表情を浮かべた。
詮索しない、それがかえって安心感を与えたようだった。
「あ、あの……お願いがあるんですが……」
安心したのか、エリスは戸惑いながらも真一郎に頭を下げた。
「しばらくの間、私をこの家に置いていただけないでしょうか……」
「は?」
「掃除も洗濯も料理もなんでもします。少しの間だけでいいんです。私を置いていただけませんか?」
「いや、そうは言っても……」
さすがに困惑した。
いくら能天気な彼でも、どこの誰ともわからない女性を置いておくほどお人よしではない。
「……ダメ、でしょうか」
しゅんとうなだれる彼女を見て(これはとんでもない女性と関わってしまったな)と思った。
一瞬、新手の詐欺かとも思ったが、すぐにその考えを打ち消す。
詐欺だったらもっと巧妙に自分の気を引こうとするだろう。
けれども彼女は一度は立ち去ろうとしていた。
引き留めたのは他でもない、彼自身なのだ。
それに真一郎には盗られて困るようなものはなかった。
カードは常に肌身離さず持っているし、パスポートは隠した金庫に保管している。
所持金もたかが知れている。
真一郎は「ふう」とため息をつくと
「しばらくの間だけなら」
と言った。
とたんにエリスの顔がパアッと輝く。
「ほんとですか⁉」
さきほどまでのうつろな表情とは違い、美しい笑顔だと思った。
「Danke! Danke schoen!」
ぎゅっと手を握ってくるエリス。
真一郎は改めて自分の部屋に女性がいるということに気が付いて、顔を真っ赤に染めながらそっぽを向いた。
※
その日から、真一郎はエリスとの不思議な同棲生活が始まった。
真一郎は日中仕事に出かけ、エリスは自分で言った通り洗濯や掃除、料理をして彼の帰りを待った。
エリスは洗濯も掃除も料理の腕も完璧だった。
どこで習ったのかと思えるほど、レパートリーが広い。
必要な食材はあらかじめ伝えてもらい、仕事帰りに買ってきた。
「うん、うまい」
「うふふ、そう?」
料理の味を褒めれば褒めるほどエリスはさらに張り切った。
そんなエリスが可愛くて、真一郎も仕事が終わると真っすぐにアパートに直行した。
あまりに急いで帰るものだから、ドイツ支社の社員たちも「恋人でもできたか?」と冷やかした。
真一郎は「そんなんじゃないよ」と否定したが、誰も信じなかった。
事実、エリスは恋人ではなかった。
でも真一郎にとっては大事な人になりつつあった。
部屋に帰れば彼女が料理を作って待っていてくれる。
それだけで幸せに感じた。
(一人の時とは雲泥の差だ)
待ち人がいるというだけで仕事にも精が出た。
もう、別の仕事を探そうという気持ちはなくなっていた。
※
二人の仲は、日ごとに進展していった。
お互い「シンイチロー」「エリス」と呼び合い、休日は一緒に過ごした。
特に真一郎の好きな場所はエリスの膝の上だった。
長ソファーに座るエリスの膝に頭を乗せ、優しくなでられる。
それが最高に気持ちが良く、いつもその状態で眠っていた。
エリスはエリスで、真一郎の他愛もない話が大好きだった。
彼の同僚とのやりとりや仕事での失敗談、日本での暮らしぶりをいつもせがんだ。
真一郎はそのたびに新鮮な話を聞かせ、彼女を笑わせた。
彼女は純真だった。
真一郎の話すべてに目を輝かせていた。
しかし彼女は一度も外へ出たがらなかった。
「映画でも行こうか」と誘っても首を振るだけ。
「外の空気でも吸ったほうがいいぞ」と勧めても嫌がった。
さすがにそうなってくると、真一郎も彼女の正体が気になった。
いったい彼女はどこの誰なのだろう。
親は?
家族は?
友人は?
気になればなるほど、詮索されることを嫌っていた自分の過去を思い出した。
(いずれ、自分から打ち明けるのを待とう)
真一郎は辛抱強く待つことにした。
※
そんなエリスの正体がわかったのは、偶然だった。
たまたまつけたテレビ、そこにエリスの顔写真が流れていたのだ。
そこにはこう付け加えられていた。
『ドイツの大富豪ロイ・フォージャー氏の娘が行方不明』
真一郎はそのニュースを見た瞬間、飲んでいたコーヒーを吹きだした。
ロイ・フォージャーといえば、リヒト・コーポレーションでも何本もの万年筆をオーダーしてくれている大お得意先である。
ニュースでは今年25歳になるエリス・フォージャーが、婚約会見から姿を消したと報道されていた。
大富豪の婚約会見ということで、ドイツ中が注目していた矢先の出来事だったという。
今まで明るみにされていなかったのは、ドイツ最大のゴシップ記事になると恐れたロイ・フォージャーが報道規制を敷いたためである。
自分の娘が婚約会見から姿を消すなどと、フォージャー家の恥と考えたのだ。
ところがいつまでたってもエリスの行方がいっこうにつかめずにいたため、こうして公開捜査に踏み切ったというわけだ。
ドイツの大富豪ロイ・フォージャーの娘ということで、連日テレビではその話題で持ち切りだった。
エリスはどこへ行ったのか。
連れ去られたのか。
単なる家出か。
卑劣なテロ組織が身代金目当てで連れ去ったのではという憶測まで飛び交った。
「エリスさんが行方不明になったのは婚約発表の当日。婚約者に会いに行くといったきり、行方がわからなくなっています。家出か、事件か。警察は両方の線で彼女の行方を追っていますが、いまだ有力な情報は出てきません。お心当たりの方は……」
真一郎がニュースにくぎ付けになっていると、食器の落ちる音が聞こえた。
振り向くと、そこにはエリスがいた。
顔は青ざめ、身体が震えている。
「エ、エリス……」
「シンイチロー……」
「これ、君か?」
「……」
エリスは答える代わりに涙を流した。
それは明らかに肯定の態度だった。
「まさか君がロイ・フォージャーの娘だったなんて……」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
崩れ落ちるエリスを真一郎は優しく抱きしめた。
「どうして謝るんだい?」
「だって……だって……」
そう言ってテレビを指さす。
ニュースキャスターが言うには警察は誘拐の線を強めているらしかった。
このままでは彼が誘拐犯として捕まるかもしれない。
実際はエリス自身が頼みこんだにも関わらずだ。
「別に僕ら、やましいことしてないだろう?」
「父は……きっと許してくれないわ。あなたをあらゆる方法で抹殺するかもしれない」
それは容易に想像できた。
何もなかったとはいえ、結婚を控えている大富豪の娘を数週間もかくまっていたのだ。
ただですむとは思えない。
「……シンイチロー、今までありがとう」
「ちょっと待て。出ていくのかい?」
「私がいれば迷惑がかかるわ」
「迷惑だなんてそんな」
「少しだけ……ほんの少しの間だけでも、あなたといて楽しかった」
「僕だって」
真一郎はそう言って震えるエリスを立ち上がらせた。
「なあ、エリス。出ていくなんて言わないでくれ。二人でどこか遠くに行こう」
「無理だわ。公開捜査になってしまったら見つかるのも時間の問題だもの」
「でもこの数週間、見つからずにいただろう? きっと大丈夫さ」
「……あなたのその前向きなところ、大好きよ」
「そうかい」
エリスはほほ笑むと自分の身体をつかむ真一郎の手をそっと離させた。
「エリス……」
「……ごめんなさい。でも、無理なの」
「どうしてもかい?」
「ええ」
エリスの決意は固い。
それは真一郎も感じ取っていた。
愛してるのに結ばれない。
それが辛かった。
「あなたに迷惑がかかる前に、家に帰るわ」
「そうか」
「ねえ、シンイチロー。最後のお願い、聞いてくれる?」
「なんだい?」
「……」
エリスは答える代わりに目をつむった。
目をつむりながら、顎を上げた。
その目からは涙があふれ出ている。
「……」
真一郎は何も言わずに彼女の目の淵から涙を拭うと、その柔らかな唇にキスをした。
それは二人にとって、最初で最後のキスだった。
エリスが真一郎のもとを離れてから数カ月。
彼のもとに一通の手紙が届いた。
それは彼女の結婚の報告と、今までの感謝の気持ちが記された内容だった。
二人に肉体関係はない。
愛をささやき合ったこともない。
けれども心は通じ合っていたと真一郎は思う。
別れのキスは決別の証だ。
真一郎は手紙をそっと懐にしまうと父・大悟に電話をした。
「もしもし、父さん? 話があるんだ」
それから数週間して彼は日本へと帰国した。
運命にはあらがえない。
それを痛感した。
自分もまた社長の息子という運命からは逃れられない。
だったらやってやろうじゃないか。
別に投げやりになったわけじゃない、会社の素晴らしさはわかっているつもりだった。
そして、その理念を受け継げるのも自分しかいないと信じたのだ。
こうして、真一郎は父の会社に生涯を捧げることを決心した。
※
月日は流れる。
「ハンカチ落としましたよ?」
駅前で拾った一枚のハンカチ。
それを差し出した時、目の前のうつろな表情をした女性がエリスと重なったように思えた。
了
イラスト:汐の音様
お読みいただきありがとうございました。
この十数年後のお話「純愛~過去の想い出を上書きするは不惑の女~」もどうぞよろしくお願いします。




