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Prince of Jersey(プリンスオブジャージ)  作者: 水上栞
第一章「ザ・ジャージマン」
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6.それでも私が、砲丸を投げる理由(SIDE 愛)



 先日の測定で思ったより距離が出たため、なんとか大会予選メンバーの末席に食い込む事ができた。それはとても嬉しい事なのだが、そのお陰で練習時間が増え、昨日はバイトをとうとう休んでしまった。これはまずい。いくらバイトとは言え、店はシフトを組んで営業しているのだ。私の都合で迷惑をかけるなんて、無責任以外の何ものでもない。


 とは言え、増えた練習に学校の授業を切りまわしている身としては、本当に時間がいくらあっても足りない状態だ。その事で、先日ユキ先輩にバイトを辞めようかと相談したところ、喝を一発入れられた。



「やめる事をまず考えるな、続けるつもりで考えろ!」



 ああ、この人に打ち明けて良かった、と思った。目からウロコとはこの事だ。中学で部活を始めた当初も、厳しい練習に挫けそうになる私たち一年生を、先輩たちがそう言って引っ張り上げてくれた。私はありがとうございます、と心から感謝の礼を述べた。すると、先輩は自分が頭に巻いていたタオルを外し、



「根性、根性、根性!」



 そう念を込めて、私の首にかけてくれた。



「その根性タオル、やるから。へこたれんな。店のシフトは俺もフォローするし、やれる所までやってみろ」



 有り難くて、涙が出そうだ。声が出せずに私が俯いて頷いていると、思ったより大きな先輩の手が、頭のてっぺんをぐりぐりと摩った。



「うしっ、長谷川。もしお前が今度の予選で残ったら、紅南飯店の炒飯、食いたいだけ食わせてやる」


「まじっすか!」



 また食べ物で釣られてしまって面目ないが、紅南飯店はボリュームたっぷりで美味いと評判。ここらの体育会系学生の間では三ツ星扱いの店なのだ。特に餡かけ炒飯はマジ絶品。その紅南で食べ放題と聞いて、私は俄然やる気になってきた。まったく色気がないなと我ながら思う。


 しかし、そんな私だからこそユキ先輩は何かと目をかけてくれるのだ。もし私が普通の女の子だったら、きっと先輩は例のクールな表情できっぱり壁を作るだろう。だとしたら、普段はコンプレックスでしかないゴツい容姿も、たまには福と転ずるわけだ。女としてはどうよと思わないでもないが、身の程を知っている私としては、充分すぎるほどの幸運に感謝する気持の方がはるかに強い。






「選手、集合!」



 審判の声で選手一同がベンチから立ち上がり、サークル横に設けられた控え位置に並ぶ。さすがに高校とは違い大学の大会は、選手の数もレベルも格が高い。競技場だってそうだ。会場にもよるが、サークルが恐ろしくきれいに描かれているし、高校の頃は全選手使いまわしだった砲丸も、二種類の中から好きな方を選んで自分の名前が書かれた箱にキープされる。まるでオリンピックみたいだ。もっとも、オリンピックではもっと多くの公式球から、自分の手に合うベストを選べるわけだが。



「もう一歩、右に詰めてくれない」


「あ、すいません」



 約10センチ上空から見下ろされ、思わず二歩も詰めてしまった。一般女子の中では大柄な私だが、こと砲丸の世界においてはミジンコみたいな存在だ。実際、私の隣に並んでいる他校の3年生は180センチ近い。体重だって、女子といえども80キロある選手なんてザラ。中には100キロ超えの人もたくさんいる。


 年齢的にもう身長の伸びが期待できない私にとって、あとは今以上に筋肉をつけるしか勝ち残る道はないだろう。ますます女の子から離れていく事になるけれど、みんなそうして飛距離を伸ばしているのだ。明日からはもっとウエイトのメニューを増やさなければ。そう思って緊張で汗まみれの手のひらを握り締めていたら、どこからか聞いたことのあるような声が聞こえてきた。え、もしかして私の名前を呼んでいる?



「はせがわーーっ!!」



 顔をそちらに向けると、何と競技場のフェンスを揺さぶりながらユキ先輩が私にエールを送ってくれている。見に来るとは言ってくれていたが、まさかこんな朝早くから、しかもあんなに一生懸命応援してくれているとは。私の胸にじわっと熱いものが込み上げ、同時にガチガチに張り詰めていた背中の筋肉が解けるのを感じた。


 ありがとう、ユキ先輩。ベンチのバッグに大事にしまってある根性タオルとともに、私の大学初試合を見守ってください! 私は「頑張れ」の声援に笑顔で応え、いつか先輩が私にしてくれたように、大きく手をかざしてベストを尽くす意を伝えた。






 自分としての記録は決して悪くなかった。しかし、それ以上に大学のレベルの高さを思い知らされた。結果は17位。一年生の初出場にしては健闘した方だと思う。しかし、予選落ちには違いない。


 紅南飯店の炒飯は残念だが、ユキ先輩が応援してくれただけでも良しとせねば。さあ、気を取り直して明日から秋の大会への調整だ。そう思ってバッグを肩に選手通用口に引き上げようとした時、通路の入り口に先輩が立っているのが目に入った。



「長谷川!」


「先輩、まだおられたんですか」


「お前が上がるの待ってたんだよ、紅南行くぞ」


「え、でも私、予選落ちですよ」


「いーんだよ、今日は俺がお前に一等賞やる。よく頑張ったな、長谷川、そんなちっこい身体で」



 その言葉が鼓膜に届いた次の瞬間、不覚にも私はぽろりと泣いていた。悔しかったのだ、本当は。大学で本格的な競技をするレベルには全く達していないことは、誰よりも自分がわかっている。それを体格のせいにするつもりは毛頭ないが、立派なガタイのライバルたちの中で、小さな自分が惨めで仕方がなかった。


 その誰にも言えなかった奥底の部分を、観客席から先輩は見抜いてくれたのだ。私は湧いてくる涙を止めようともせず、胸に溜まった思いを先輩に吐露していた。



「わ、私が、砲丸投げを始めたのは、ですね」


「うん」


「日本記録保持者の、森……、森千夏選手の、……競技を見たのが、最初、だったんです、けど」


「うん」



 鼻をすすりながら途切れがちな私の言葉を、ユキ先輩は根気良く聞いてくれている。私が森選手を知ったのは中3の部活引退直前。当時は中距離選手として参加した大会の強化合宿で、森選手の競技の録画を見る機会に恵まれたのだ。


 あの時の衝撃は忘れない。堂々たる体格をきびきびと動かし、実に楽しそうに砲丸を投げる森選手の姿に私は深い感銘を受けた。ああ、私も彼女のように鉄の玉を青空に飛ばしてみたい、そう思うのに時間はかからなかった。


 そして私は高校陸上部入学と同時に、種目を砲丸投げに切り替えた。もちろん、その選択を一度だって後悔した事はない。



「でも、実は森さん、アテネではめちゃくちゃ距離が出なくて。きっと我慢してたんだと思うんですけど……、虫垂がんだったんです」



 先輩が息を呑む気配が感じられた。私だってその事実を知った時は、あんな元気そうな人がと、信じられなかった。しかし、私の憧れの女神は26歳の若さでこの世を去った。以来、彼女の残した日本記録はいまだ頂上で燦然と輝いている。日本の女子砲丸投げ選手は、みんな彼女の背中を追い続けているのだ。



「私、自分に誓ったんです。彼女の分まで頑張ろうって。そして砲丸投げの素晴らしさを、みんなに伝えたいって。私は競技者としては力不足ですが、将来は多くの人に陸上を広める活動をしたいです」



 涙がぐしゃぐしゃで、鼻水まで垂れてきた。やばい。私はバッグを漁り、中からタオルを引っ張り出した。ユキ先輩がくれた根性タオルだ。使うのは勿体ないような気がしたが、そんな事を言っていられる状況じゃない。顔をごしごし拭くと、かすかに洗剤の匂いがした。ユキ先輩の匂いだ。また涙が出てくる。



「長谷川」


「はい」


「長谷川、俺は今、猛烈に感動している!」



 タオルを外して目の前を見ると、ユキ先輩が仁王立ちしたまま滝泣きしている。ああ、星飛雄馬だ。リアルでは初めて見た! これぞ体育会系男子の正しい泣き方である。


 しかも泣いていても先輩は美しい。思わず「インスタにアップしたい」と疼いた心を理性で押し殺し、私は先輩にタオルを差し出した。先輩はそれで乱暴に涙を拭くと、最後にブビーーッと高らかな音をさせて鼻をかんだ。せ、洗濯は私ですか、もしかして。



「長谷川!」


「はい、先輩!」


「明日の陸上界のために、今、お前ができること! それは次の大会に向けて、体力を備えることだ!」


「はい、先輩!」


「よって、今から紅南飯店で炒飯によるカロリー補給を行う!」


「はい、先輩!」



 先輩はタオルを私のバッグ(やっぱり)に突っ込むと、チャリの鍵をポケットから取り出した。同時に私もチャリの鍵を目の高さに掲げる。「店まで鬼こぎ」という暗黙のサインである。周囲の空気が何となくドン引いているのは感じたが、ちょっと俺様で激情型の先輩のペースは、私にとって何故だか非常に心地よい。私は鍵をチャラッと振ると、「勝負ですよ!」と言って通路を外に向かって駆け出した。



「おいコラ待て、長谷川!きったねーぞ、おめー!」



 安藤幸彦ファンの皆さん、ごめんなさい。私のせいで、どんどん先輩はイメージダウンしていくかもしれないけれど、私にとっては素のユキ先輩の方が、うんと魅力的だ。風を切って鬼こぎする先輩の背中を追いかけながら、当然いるであろう恋人の前では、先輩はいったいどんな顔をしているんだろう……などと思いつつ、私はペダルに力を込めた。



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