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Prince of Jersey(プリンスオブジャージ)  作者: 水上栞
第五章「プロテインのように甘く」
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8.今から、ここから、新しい一歩が始まる(SIDE愛)



 翌日、みちるちゃんの病室へ行くと、今度は彼女から会話がスタートした。昨日、しっかり考えてくれたんだね。手ごたえがあるって嬉しいな。私はできるだけ丁寧に、話を聞きながら答えていった。理学療法士にとって大切な「接遇」である。



「あの、いろいろ考えたんですけど。えっと、その前にごめんなさい。私……、長谷川さんとか看護師さんにも、迷惑かけてるのは自覚してるんです」


「迷惑なんてそんな、全然ないですよ。もちろん心配はしてるけど、みちるちゃんがこうしたい、っていう気持ちが大事だから」


「わかってるんです、リハビリしたら歩けるようになるだろうし、大学だって一年遅れで入学する人なんていっぱいいるし。でも、それって自分が思ってた未来と違うじゃないですか。……なんで私だけって、思うじゃないですか」



 何も答えられない自分が未熟すぎて悔しい。でも、せめて味方であることを伝えたくて、拳を握りしめるみちるちゃんの手に、そっと自分の手を重ねた。



「足がこんなになっちゃってテニスできなくなるのに、部の仲間に早く良くなってねとか言われるとムカつくし、お母さんも何の根拠もないのに大学は来年合格できるよって言うし。なんでみんな無責任にそんなこと言うんだろうって。親切で言ってるんだろうけど、私の気持ちになってよ、って思っちゃう」



 ああ、この子は優しいんだ。周囲に気遣わせないよう、我慢しているうちに心のバランスが崩れかけているんだな。申し送りのカルテからは見えてこない、みちるちゃんの苦悩の一端に触れたような気がした。そう思ったせいか、私の口から過激な言葉が飛び出してしまった。



「17歳だもん、ムカついたときはキレていいのよ。私だったら、迷惑運転したドライバーに卍固めしてやる!」



 3秒くらい顔を見合わせて、爆笑してしまった。それがきっかけになり、みちるちゃんは胸につかえた不安を少しずつ吐き出してくれた。



「あの……、リハビリって本当に歩けるようになりますか? お医者さんや看護師さんが言う“歩ける”って、杖を突いて足を引きずる状態ですよね。そうじゃなくて、普通に歩けるようになるのかな、って」



 メンタルのもうひとつの問題が、年頃の女性にとって重要な見た目の問題だ。みちるちゃんは、足を引きずる姿を他人に見られたくないと言う。その気持ちはわかる。しかし、どこまで回復するかはリハビリをやってみないとわからない。



「正直に言うと、骨と関節に大きなダメージを受けているから、前と同じ状態に回復するのはとても厳しいです。でも、あなたの場合はテニスで鍛えた筋肉があるでしょう。足の動きを最大限カバーする事はできると思います」



 みちるちゃんは、ちょっとがっかりした顔で沈んでしまった。私はポケットからスマホを取り出して動画を立ち上げた。本当は院内で仕事中は禁止なんだけど、カウンセリングに必要だから仕方ない。



「ちょっとこれを見て」



 動画は緑の中の教会から始まり、やがてバージンロードを父親と歩く花嫁にズームインされた。その手には、白い花々で飾られたクラッチ杖が握られている。一歩ずつ、体を傾かせながらもしっかりと歩く花嫁を、柔和な笑顔の花婿が迎える。



「私の友人、由子ちゃん。小学生時代の塾が同じで、このリハビリセンターで再会したんです。彼女は交通事故の被害者で、筋肉も関節も損傷が大きかったので、片脚は曲がらないし痺れたままなの。でも、懸命にリハビリを続けて自力歩行できるようになったんですよ」



 由子ちゃんは昨年の冬、かねてから交際中だった自慢の彼氏と結婚した。泣くほどつらいリハビリを乗り越え、彼も由子ちゃんの全てを受け止めて、二人の生活をスタートさせたのだ。私とユキ先輩も結婚式に呼ばれ、二人で号泣して周囲をドン退かせた。



「私、彼女の歩く姿は、とても美しいと思います」




 みちるちゃんは、その時はただ黙って頷いただけだったが、翌週リハビリセンターに姿を現した。腹が決まったのだろう、実に晴れ晴れとした顔だ。私もピカピカの笑顔を浮かべて、新しい彼女のスタートをフルサポートする。



「ようこそ、リハビリセンターへ。とことん、付き合いますよ!」






 みちるちゃんが歩行器も平行棒もなく、自力で立ったのがそれから2週間後。そしてゆっくりと歩き始めたのが一カ月後である。もちろん無理はさせないが、若いアスリートの肉体は想像を超えたポテンシャルを秘めていた。


 やがて、退院して通いになった秋ごろ、みちるちゃんは少し足を引きずるものの、杖を使って通常に近いスピードで歩けるようになった。ほぼ訓練は成功と言っていいだろう。ここからは、さらに本人の頑張りで筋力を維持向上させていく。




「よかったな、そこまで行けば普通に生活ができるんじゃないか」



 何より、いちばん喜んでくれたのはユキ先輩である。沖縄に行ってからこれまで半年近く、ずっと私の聞き役になってくれていたのだ。この日も先輩のアパートで夕ご飯を一緒に食べながら、みちるちゃんのリハビリ結果を報告していた。ちなみに、今夜のメニューは豚の生姜焼きと、先輩がアジを叩いて作ったつみれ汁で、デザートには梨が冷えている。



「そうなんです、来年から高校に復学しますよ。家庭教師付けて、受験勉強も始めてるって聞きました」


「長谷川も頑張ったな。理学療法士として、ワンステップ成長したんじゃないか」


「いい経験にはなりました。でも、本番はこれからですよ。だから、ここらでしっかり足場を固めようと思っています」



 重要なことを言ったつもりだけど、先輩はお腹いっぱい食べて心地よいのか、ほわっとした顔で「そうだな」とお腹をなでている。この夏27歳を迎え、最近ちょっとおっさんぽくなったかもしれない。



「聞こえましたか? 私、足場を固めるって言ったんですけど」


「ん、ああ?」



 わかっていないようなので、ど真ん中ストレートをお見舞いしてやろう。



「沖縄で、言ったこと覚えてますか。仕事の山場が終わったら、その時はちゃんとお返事しますって言いました。だから、今言います」



 ようやく先輩も気づいたようで、だらっとしていた背筋を正して、私の正面に正座した。私もきちんと正座して、深々と頭を下げる。



「お待たせして申し訳ありませんでした。仕事がひと段落付きましたので、あの時のお申込みがまだ有効でしたら、どうぞ私と結婚してください」


「おおっ、おう、有効もなにも、ずっと有効だ。俺は、お前以外の女と一緒になる気はないんだから」



 あたふたしているであろう彼の顔が見たくて、パッと顔を上げた。思った通り、目がまん丸くなっている。いつものキリッとした顔もいいけれど、そういう油断した顔や、お腹いっぱいでだらけている顔も好きだ。これから彼のいろんな顔を見て暮らしていくのだと思うと、心の底から愛しさがこみあげてきた。



「先輩、好きです」



 正座から伸びあがって、彼の首にぎゅっとしがみついた。一瞬戸惑った腕が、やがて私の倍の強さで背中を抱きしめてくる。



「俺もだ、長谷川が好きだ、大好きだ!」



 初めて彼を見たのは高校の体育館で、その時は私とは縁のない人気者だと思っていた。再び彼と会ったのは、地元のスーパーの従業員控室。彼の着ていた限定ジャージを褒めたことから、先輩と後輩としての付き合いが始まり、いつしか思いを通じ合わせて、気がつけば長い年月が流れていた。



「あっという間だったな」


「奇遇ですね、私も同じことを考えてました」



 こうして振り返れば、2年ちょっと遠距離になったことも、いい経験だったのではないかと思える。先輩がモテすぎて困ることもあったけど、どんなにモテようが誠実な態度を貫いてくれた、私にとっては最高の恋人である。


 その彼が間もなく自分の夫になる。遊び人の友人たちは、ずっと同じ人で飽きないのかと言うけれど、お爺ちゃんお婆ちゃんになっても、私たちならきっとこうして笑いあっていられるだろう。



「これからも、よろしくお願いしますね」


「おう、こっちの台詞だ」



 わははと笑って、また抱き合ってキスをして。私たちの幸せな長い夜が更けていった。




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