4・己の鈍感さを、海より深く反省しています(SIDEユキ)
俺たちが力の限りを注ぎ込んだ「Fittest」は、無事年内に新発売された。広告予算は少なかったが、枝野さんがインターネットを中心に効果的な販促を組んでくれて、日増しに認知度が高まっている。そして、俺が聞き取りに回った販売員さんたちの力も大きい。やはり自分が開発に関わった商品は愛着もひとしおらしく、これから本格化するニューイヤー商戦でもよい結果が期待できそうだ。
ひとつだけ納得がいかなかったのが、広告モデルに長谷川が起用されたことだ。顔は出さずに首から下だけではあるが、スポーツ用といっても下着であるから露出度がそこそこ高い。2案のうちブラトップの方は、胸から腹筋のバキバキショット、ボクサーショーツに至っては後ろ姿で上半身はフルヌードだ。
「顔は写ってないんだし、誰だかわからないわよ。少ない予算で最高のモデルが使えて万々歳じゃない。第一、あの筋肉のインパクトは訴求力あるって評判よ」
「しかし、自分の彼女がそんな姿で全国の目に晒されて、嬉しい男はおらんでしょう」
「でも、彼女がやるって言ったのよ。無理を押し付けたわけじゃないわ」
そうなのだ。なぜか長谷川は断らなかった。開発の時もそうだったが、この件に関してはグイグイ積極的なのは何故だ。普段が控えめなだけに、その落差に戸惑う。俺を応援してくれているのはわかるが、なんというか少し違和感がある。
広告のモデルに関しては、俺だけではなく長谷川のお父さんや兄貴も大反対だった。それを香山課長が「撮影は女性の写真家に頼む」という条件を提示し、長谷川も「学生時代最後の記念に」と言うので、渋々ながら了承した形だ。確かに素晴らしい写真が出来上がったが、それでも納得はできない。長谷川の筋肉がいかに美しかろうが、それを他者と共有する趣味は俺にはない。
順調にFittestの売り上げが伸びていく中、事業部には新年度から2名の営業が入り、販路拡大を目指すことになった。そして俺は「Fittest事業部 営業主任」の肩書きがついた。役職とまでは言えないが、少しだけ給料が上がって責任も重くなる。さらに、今までのような小売店訪問ではなく、課長と一緒に大手取引先や出版社、テレビ局などへのあいさつ回りが主な業務となった。
そうなると、当然ではあるが香山課長と行動を共にする時間が長くなる。普段はシャープで温度の低い印象の人であるが、移動中などは気楽に世間話などするので、だんだんと気の置けない親戚のような気がしてきた。向こうも俺が行儀よくしているのは演技だと見抜いたようで、最近では取り繕わず本音で意見を言わせてもらっている。
社内の口さがない連中は、課長と俺がデキてるんじゃないかと噂しているようだが、冗談じゃない。俺には大切な長谷川という恋人がいるのだ。Fittestのモデルであることは社内でも秘密にしているので、彼女の有無もノーコメントを貫いている。それも手伝って、香山課長とのデマが膨らんでいるのだろう。
「はー、ようやく解放されたわね」
「お疲れさまでした」
今日は札幌出張に来ている。9月とはいえ、まだまだ真夏のように暑い本州から1時間ほど飛行機で飛んだだけで、北海道はもうひんやり秋風が吹いていて、夜なんか寒いくらいだ。
数か月後に行われる大規模なイベントで、Fittestのブースを設けることになり、この日は主催である札幌の地元企業を接待していたのだ。まあ、その広報担当のおっさんが、喋る喋る。香山課長を気に入って、どうにか口説こうと自慢話を延々と垂れ流す。俺がいるのが気に食わなかったようで、しきりにお前は帰れ光線を送ってきたが、無視して最後までへばり付いてやった。
「安藤くん、ちょっと一杯付き合わない? 飲み直したい気分なの」
タクシーがホテルに着いて、課長からお声がかかった。彼女は酒豪である。さっきの接待でもビールを飲んでいたが、それくらいではビクともしないはずだ。うっとうしい気分を晴らしたいのだろう。今までも何度か飲み直しに付き合ったことがあるので、俺は気軽に「いいですよ」と答えた。まあ、体育会系としては上司の誘いを滅多なことでは断らないのが礼儀だ。
「今日は私の部屋で飲みましょう。ルームサービスでワインを頼むわ」
ちょっと待て。最近はずいぶんご無沙汰だったが、それは普通に考えて、口説き文句ではないのか。しかし俺たちは上司と部下であり、場所は出張先のホテル。これを誘いと受け止めるべきか、ただのコミュニケーションと取るべきか。判断に迷っているうちエレベーターが宿泊階に止まった。
「どうぞ」
課長がドアを開けて俺を促す。その表情にある種の艶を感知して、俺は気を引き締めた。
「部屋でということであれば、今日はご遠慮します。上司と部下であっても男女ですので、誤解されるような状況は避けるべきかと」
「誤解されるって、ここには私とあなたしかいないのに?」
「俺は、信義にもとる行いをしたくないです。大切な人がいますので」
香山課長は探るようにじっと俺を見た後、肩をすくめて「じゃあ一階のラウンジにしましょう」と提案し、それならばと俺も了承した。さっきからエレベーターで上下してばかりで変な感じだ。とにかく部屋に入らなくて正解だったと俺の本能が伝えている。
「安藤くん、ようやく狙われてることに気づいてくれたのね」
L字型のソファ席で90度の角度から、課長がニヤリと笑みを投げる。手にはバラライカのグラス。見た目は優雅だが、けっこう強烈なカクテルだ。俺はひとつ覚えのボストン・クーラーをちびちび飲んでいる。今夜は深酒しない方が賢明だろう。
「冗談は勘弁してください、シャレになりませんよ」
失礼にならない範囲で距離を取る。しかし、女豹は獲物を逃してはくれないようだ。
「冗談なんかじゃないわよ。わかりやすくアプローチしてたのに、安藤くん鈍感だから押し倒そうかと思ったわ。まあ、長谷川さんは気づいてたみたいだけどね、私の牽制に」
「牽制……?」
頭の中で、パズルのピースがカチッとはまった音がした。俺の気づかないところで、課長と長谷川がにらみ合いをしていたのか? 長谷川がやたらアグレッシブだったのはそのせいか? 何で教えてくれないんだ、俺は課長のことは上司としか思っちゃいないのに。
「……いったい、何を企んでいるんですか」
「単刀直入に言うわ、あなた私と結婚しない?」
まるで「ラーメン食べに行かない?」くらいにさらっと紡がれた言葉を、俺はしばらく理解できなかった。課長は呆気にとられる俺に、さらに追い打ちをかけた。
「私たち、いいパートナーになれると思うの」
「俺には長谷川がいます」
「そうね、長谷川さん、いい子よね。賢いし、ガッツがあるし。でも、安藤くんが仕事で上を目指そうと思ったら、力不足じゃないかしら」
「どういう意味ですか」
「私と結婚したら、社長になれるわよ。悪い話じゃないと思うけど。あなたは機転が利くし、私と仕事上でうまくやれる。それに……」
そう言って香山課長は、俺の手の甲を指ですっとなぞった。さっきまでカクテルグラスに触れていた、しっとり冷たい感触が妙に艶めかしい。
「男女の相性だって、試してみないとわからないでしょ」
俺の中の限界突破線はそこまでだった。上司だと思って我慢していたが、もう無理だ。利口の仮面を脱ぎ捨て、俺はぶち切れモードに突入した。
「その理屈でいくと、別に俺じゃなくてもいいわけですよね」
「えっ」
「東西スポーツの男性社員と順に寝てみて、いちばん相性がいい男と結婚すればいいじゃないですか」
「私そういう意味で――」
「あんたが言ったのはそういう意味なんだよ! 人をバカにするのもいい加減にしろ」
周囲の客がびっくりしてこっちを見ているが、もうどうにも止まらない。顔を引きつらせながらも平静を装う課長に、俺はなおも遠慮なく本音をぶつけた。
「学生の頃、さんざん女に口説かれました。彼女がいるからと断っても、みんな同じこと言うんですよ、試してみないとわからないって。冗談じゃない、シャンプーの試供品じゃあるまいし、試してダメなら元に戻せるのかよ」
八割がた残っていたボストン・クーラーを一気に煽った。怒りで熱を持った喉にホワイトラムが浸みこみ、さらなる熱を蓄える。香山課長が反論しようと口を開きかけたが、それを制するように言葉を続けた。
「地球の人口は80億、日本だけでも1億3000万人だ。その中で奇跡的に巡り合った大切な一人と、お互いの人生を分け合いながら積み上げていくのが恋愛なんじゃないんですか。少なくとも、俺はそうです。なのに、なんだよっ」
もう上司に対して敬語もへったくれもない。女に迫られて辟易したことは何度もあるが、課長が長谷川を駆逐しようとしたことに憤っていた。そして、その原因が俺の鈍感さにあることがいちばん許せない。長谷川は、不安を払拭しようとして必死になっていたのだ。
「長谷川じゃ力不足? 結婚したら社長になれる? 長谷川の何を知ってるって言うんです。言っときますが、俺は好きな女と一緒になるし、社長になりたきゃ自力でなりますよ」
香山課長は何も言い返さなかった。地雷を踏んだと理解したのだろう。俺は椅子に掛けていたジャケットをひっつかむと、「失礼します」とだけ言ってラウンジを立ち去った。もしかしたら明日、やっちまったと思うかもしれないが、今はこの怒りを吐き出さなければ収まりそうになかった。