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Prince of Jersey(プリンスオブジャージ)  作者: 水上栞
第五章「プロテインのように甘く」
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1・ようこそ、個性派(?)ぞろいの新事業部へ(SIDEユキ)



 入社3年目の夏、突然俺に辞令が下りた。


 この春も東京の営業部所属が決定していたので、もしかしたらこのまま地元へは帰れないんじゃないかと諦め始めていた矢先のことだ。辞令の内容は「本社Fittest事業部所属営業」との事だ。本社で働けるのは嬉しいが、仕事の内容がよくわからないので、上長に確認してみた。



「社長の娘さんが、新ブランドを立ち上げるらしい。その企画室の専属営業マンとして、君にご指名があったんだよ」



 部長が言うには、社長の娘さんは俺たちの3期先輩で香山聖子さんという。縁故雇用かと思いきや、あの会長の面接を受けて合格したゴリゴリの実力派なんだそうだ。ちなみに社長というのは俺の面接の時に、書類の袋を渡してくれたおとなしそうなおじさんで、会長の娘である専務の夫という相関図だ。




「とにかくキレのいい仕事をする人だよ。アメリカの大学でマーケティングを学んで、ダブルスクールでMBA取って帰国したらしい。MD-Jや例のチャリティーのジャージも、彼女が入社早々に発案して成功した事例だ」


「すげぇっ!」



 俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。話の相手はOJTを担当してくれたマッチョな先輩、堀田さんだ。本社に行くとなかなか会えなくなるので、今日はサシで飲みに来ている。思えば東京での2年間、この人には本当にお世話になった。厳しいが人情に熱い、ガチのスポーツマン。職場が離れても一生ついていきたい、心から尊敬する先輩である。



「すいません、大きな声を出して」


「ははは、確かにすごい人だよ。今回の新事業部設立で課長に昇進したけど、社長の娘だからじゃなくて、実力でつかんだポジションだから本物だ。俺も負けてらんねぇな」


「それ完全に会長の血を引いてますね、すっげぇな」


「しかも、かなりの別嬪だ。頭の回転が速くて、言いたい事はズバズバ言う。その切れ者からのご指名なんて、栄誉じゃないか」


「はぁ、何で俺だったんでしょうね」






 その謎は本社についてすぐ解けた。ご指名いただいたご本人からのキツい先制パンチが飛んできたからだ。



「ルックスで選んだの。新ブランドは女性用スポーツインナーで、あなたの仕事は得意先の女性販売員から、インナーに関する情報や意見を吸い上げてくること。そのためには、少しでも有利に話が聞ける営業マンが必要なの」



 正直、不愉快だった。仕事に必要な業務なのは理解したが、自分が釣りの餌になったようで納得がいかない。そのモヤモヤが顔に出ていたのだろう、黙っていたら香山課長にズバリ図星を突かれた。



「業績で選ばれたんじゃないのか、って顔ね」


「いや、まぁ……」


「気持ちは理解できるわ。もし私がそう言われたら、机をひっくり返して暴れていたかも」



 香山課長はにっこり笑ってそう言うと「でもね」と表情を引き締めた。堀田さんが言ったように大した美人だが、シャープで近寄りがたい雰囲気を持っている。



「安藤くんの場合、業績はまだこれからって段階でしょう。それなら、ルックスもあなたの武器のひとつだと思って、前向きに考えてみるのはどうかしら。もちろん、このプロジェクトの働きがよければ正当に評価するわ。これをチャンスと見るかどうかは、あなた次第」




 仕事の抜擢の理由は不本意だったが、香山課長の言葉は明瞭で理解しやすかった。俺はトイレで顔を洗ってネクタイを締め直し、心の中で「ピンチはチャンス、ピンチはチャンス、ピンチはチャンス」と3回唱えた。気持ちがマイナーに傾いている時の、魔法のリセット方法だ。



「よしっ」



 俺は気合を入れて、オフィスへと戻った。確かに、全国の顧客の生の声が聞けるなんて、普通の営業では体験できない。別にナンパしてこいって言われてるわけじゃないし、会社にも自分にも利益が出る働きをすればいいだけだ。まずは新事業「Fittest」のコンセプトを完全に頭に入れるべく、俺は数十枚に渡るPDFファイルを睨みつけた。






「どうでしたか、本社第一日目は」



 興味で目をキラキラさせながら長谷川がにじり寄る。先月、俺が本社勤務になると伝えたときは、電話の向こうの声が潤んでいた。明るくふるまってはいたが、本音は寂しかったそうだ。それを聞いて飛んでいきたくなった。俺だって同じ気持ちだ。でもこれからは近くにいて、会いたいと思った瞬間に会いに行ける。



「そうだな、ちょっと個性的な人が多いかな」



 個性的と言ったのは、最大限の婉曲表現だ。ぶっちゃけFittest事業部のメンツは変人ぞろいと言って間違いない。トップの香山課長が自身で抜擢したメンバーは俺の他に女性が2名。



 アパレル大手から引き抜いた津島さんは、布地とサイズのプロフェッショナル。髪は坊主に近いベリーショートで、猫とワインのために生きているそうだ。そしてもう一名、枝野さんは見た目は普通だが、初めて会ったときオフィスを下着で歩き回っていた。他社製品のフィッティングを試していたそうで、俺と目が合っても「これ、どう思う?」と平気な顔だ。



「ちょっと枝野さん、安藤くんがびっくりしてるわよ」



 香山課長が一応注意をしても、しれっとした顔で言い返す。



「あら~、だってこの事業部は女性の下着を扱うんだもん。今から慣れてもらわないとね」



 ああ、これから俺はこの中で揉まれるのかとクラクラしたが、聞けばこの3人はMD-J開発の核メンバーなんだそうだ。香山課長が企画を立てて、津島さんが製品化、枝野さんがマーケティングと広報を担当し、それまで地味だった東西スポーツの名を一気にパブリックに押し上げた。


 かなり一般社員とは規格が外れてはいるが、それだけ彼女たちは職人であるのだ。おし、俄然やる気が出てきた。必死について行って知識や技を吸収し、安藤を選んでよかったと香山課長に言わせて見せよう。そして今ごろ「顔で買われた安藤」と陰口を叩いている周りの連中を、業績という結果で黙らせてやる。




 その週末、長谷川と二人でささやかな本社帰還パーティーをした。場所は俺の新しいアパートだ。オッチャンはマンションに戻って来ればと言ってくれたが、俺も間もなく25歳になる社会人だ。気持ちにけじめをつける意味で、狭いながらも自分の住まいを整えた。6畳一間に申し訳程度のキッチンがついた1Kだが、会社まで乗り換えなしで20分という好立地だ。



「昔みたいに、同じ町内ってわけじゃなくなったな」


「でも、私の家からチャリで30分くらいでしたよ」



 バックパックに食材を詰めて、鬼こぎでやってきた長谷川が「余裕です」と笑う。東京との遠距離はさすがにもう勘弁だが、これくらいの距離があった方がかえって新鮮なのかもしれない。



 狭いキッチンで身を縮こまらせながら玉ねぎの皮をむく長谷川を、後ろからそっと抱きしめた。あのケガ以来、一回り小さくなってしまった体。筋肉が落ちたと本人は嘆くが、俺は長谷川が健康で傍にいてくれればそれだけでいい。



「こらっ、じゃましちゃダメですよ」


「手伝うよ」



 俺はピーラーを手に取り、にんじんの皮をむき始めた。今夜は長谷川特製、ミートボール入りカレーライスだ。前にアウトドアで作ってくれたのが美味かったので、俺がリクエストした。トマトジュースを入れて煮込むのがコツらしい。今度はじゃがいもの皮をむきながら、長谷川がしみじみとつぶやいた。



「先輩、帰ってきたんですねぇ」


「なんだ、今ごろ」


「ようやく実感がわいてきました」


「そうか、じゃあもっと実感させてやろう。もう嫌だって言うくらい追いかけ回して、トイレの中にだってついて行ってやる」



 それは勘弁してくださいと長谷川が笑う。ホームセンターで買ったアルミの鍋から、しゅうしゅうと湯気が立ち上る。間もなくこの小さな部屋は、カレーの香りに包まれるだろう。


 俺たちの日常が、ようやく手の中に戻ってきた。



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