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Prince of Jersey(プリンスオブジャージ)  作者: 水上栞
第四章「切なさのインナーマッスル」
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1.胸ふくらむ希望の春と一抹の不安(SIDE ユキ)



 東西スポーツは俺の育った地元が本社だが、最初の一年間は東京支社で全員が営業部に配属される。これは創業者である会長の「お客様である小売店に顔を出し、頭を下げ、生のニーズを聞け」という考えからである。


 そのため、東西スポーツ東京支社には新人寮がある。基本的に住んでいいのは1年目、空きがあれば2年目以降もそのまま住める。場所は足立区で、オフィスのある高田馬場からは少し遠いが、同じ年の仲間が集まって寝食を共にするのは、体育会系にとっては合宿のノリで楽しい。この先別々の支社になったとしても、チームワークが生まれるしな。そう言う所も、たぶん会長の思惑なんじゃないかと思っている。



 俺が寮へ引っ越したのは、3月の半ば。下旬に行われる卒業式だけ、2日ほど地元に帰る予定だ。内定から入社まで、けっこう遊べると思ったんだが、実際には研修やら入社準備でバタバタして、あっという間に過ぎてしまった感じだ。



 長谷川も10月にケガをして動けなかったので、トレッキングやキャンプもお預けだ。まだリハビリをしているので心配だが、治ったらまた山歩きデートに誘いたい。だが、もしかすると長谷川も忙しくなるかもしれないな。先日、彼女は俺に一大決心を教えてくれた。



「先輩、私、大学を留年しようと思ってます」



 最初、どういうことかわからなかったが、取りたい国家資格が見つかったらしい。長谷川の大学にそれを学べる学科があるのだが、取得には3年間授業を受ける必要があるため、今年3年生の長谷川がその単位を取るとなると、一年多く大学に通わないといけなくなる。



「いいんじゃないか。目標のための回り道なら、値打ちがあるだろう」


「そう言ってくれると思ってました」


「当たり前だ。大学は、ただ卒業証書をもらう場所じゃない。長谷川がこれだと思ったものは、とことん学べばいい。俺も応援する」



 ケガをしたときは落ち込んでいたが、目標に向かって頑張る姿を見て安心した。俺も長谷川も、新しいチャレンジの年だ。こういう時に、たとえ遠距離であっても心から信頼できる人間がいるのは心強い。俺も、できるだけ彼女の助けになりたい。






 そんな希望に満ちた東京生活がスタートした。6畳一間で寝起きし、食堂で飯を食い、寮の周りをランニングした後に大浴場で汗を流す。オッチャンと暮らしていた頃より、なんぼかストイックで規則正しい生活だ。寮には男ばかり6人。入寮後すぐに1回だけ飲み会をしたが、仕事が始まってからはそんな余裕もなくなるほどしごかれている。




 午前中は、みっちり座学。会社の沿革やポリシー、全商品のスペックを覚えるところから始まり、過去の開発ストーリーや生地に関する知識なども学ぶ。これは仕事をスタートする前に完全に頭に入れておかねばならない。顧客は自分ではなく会社と取引している。「新人なのでわかりません」は通用しないということだ。


 そして昼飯を食ったら午後から「OJT」だ。オン・ザ・ジョブ・トレーニング、日本語では現任訓練とも言うな。要するに実地訓練、仕事をしながら覚えろってやつだ。細かいマニュアルを作っている会社もあるが、東西スポーツは体育会系である。営業の先輩に付いて客先を周り、怒鳴られつつ体に仕事を染み込ませる。



 俺のOJT担当は、堀田さんというガタイのいい先輩で、ほぼ男性社員は体育会系という例にもれず、大学ラグビーのフランカーとして活躍した人だ。年は28歳で肩書きは営業第二部の係長。今も筋トレを欠かさないというだけあって、まくり上げたシャツの肘下がパンパンに張ってカッコいい! 



「話題の新人の担当になるとはな」



 最初に挨拶をしたとき、堀田さんにそう言われた。ええっ、俺はどうして話題なんだ? 女みたいな顔の奴が入ってきたってか? 営業車を運転しながら堀田さんに理由を聞くと、ガハハと笑って肩を叩かれた。がはぁ、パンチが重たい。



「ははは、女性社員の間ではプリンス、って言われているらしいがな。俺らの間では、会長が見込んだ奴、ってことで注目されてるぞ。ほら、今年は採用がイレギュラーだっただろう」



 女子社員の評価はどうでもいいとして、面接が2回行われたことは社内でも大きなニュースだったらしい。そして、2回目の面接で採用されたのは、俺ひとり。よほど会長が気に入ったんだろうと、注目されているそうだ。



 おおー、なかなかのプレッシャーだ。これは絶対に結果を出さねば潰されるパターンだな。上等だ、燃えてきたぜ。拾ってくれた会長に恩返しするんだ。



「うちの営業先は、オーナーも販売員さんも、体育会系の方がほとんどだ。腹から声出して、礼儀正しく、誠心誠意がんばれ。知恵も大事だが、何よりも人間性が見られる業種だ」


「はい、全力、直球勝負で行きます!」



 ハンドルを握る手が汗ばんで、堀田さんに気合を入れられた肩がジンジンする。プレーするフィールドは変わったが、部活で鍛えたマインドは、この先も俺を導いてくれるだろう。安藤幸彦、フルスロットルで出発だ!






「やーっと帰ってきた」



 玄関を開けるなり母親が文句を言う。仕事に慣れていないので余裕がなく、自主的に残業して顧客情報を調べたり、業界に関する文献を読み漁る毎日である。寮に帰ったら飯食ってランニングして寝るので精いっぱいだ。東京都内で暮らしていても、そうそう実家に顔出しするわけにはいかない。



 そう言うと、母親はむくれ顔を解除し、俺の好物の「ヴァレーニキ」を食卓に並べる。匂いにつられて奥から父親と弟も出てきた。今日は久々に実家でサンデー・ランチだ。ちなみに、ヴァレーニキというのはウクライナの定番料理で、水餃子をでかくしたようなものだと思えば間違いない。


 中身によって甘いのもおかず系もいろいろで、うちのは潰したじゃがいもときのこがメイン。スメタナというサワークリームを添える。それと、サーロという豚の脂の塩漬け。これは黒パンに乗せて食う。地元じゃ黒パンが手に入らなかったのでライ麦パンだったが、東京には何でもあると母親が喜んでいる。


 ちなみに母親の親父、つまり俺の爺ちゃんがウクライナ人で、日本に来てウクライナ料理店をやっていた。もうずいぶん前に亡くなったが、子どもの頃はよくピロシキを作ってもらった。ウクライナのは日本のと違って油で揚げないから、さっぱりして美味い。まあ、それでも牛丼には適わないけどな!



「そろそろ彼女、連れて来なさいよ」


「まだリハビリ中だしな、そのうちな」


「けっこうひどいケガだったの?」


「ああ、それに今年から国家試験のために学科を転向してるからな。そっちもかなり忙しい」


「そっか、みんな春はいろいろ動きがあるよね。……そう言えば」



 あれこれ質問の多い母親がふとフォークを置き、ちらっと伺うように俺を見た。



「薫子ちゃんも、この春から東京に住んでるのよ」


「へえ」


「モデル事務所を変わったんだって。いよいよ東京進出ね~」



 冷や汗が噴き出したが、俺は平静を装った。薫子は母の兄の娘で、母親は昔から俺たちが付き合って結婚すればいいのにと思っていたようだが、長谷川というガチの彼女ができた。なので、ここは断固として関心のない様子をアピールしておく。まさか実は水面下であんなことがあったなんて、口が裂けても家族には言えない。



「こんどユキが来るとき、薫子ちゃんも呼んで、みんなでご飯でも食べようよ」


「時間が合えばな」



 勘弁してくれよと思いつつ、俺はヴァレーニキを頬張った。薫子がこっちにいることは、長谷川には言わない方がいいだろう。どうせ会う気はないし、余計な心配をかけたくない。その判断が吉と出るか凶と出るか、このときの俺には判断のしようもなかった。




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