9.彼女はポジティブ・シンキング(SIDE ユキ)
長谷川が練習中にケガしたことを聞いたのは、彼女の誕生日の直前。しばらく部活を休んでいると聞いたが、そんな大けがだとは思いもよらず。具合が悪いなら無理するなとだけ伝えて、就職準備のあれこれで東京に滞在していた。
しかし高橋から「長谷川えらいことになったぞ」と聞き、肝が冷えた。長谷川と同じ大学の陸上部に高橋の友人が在籍しており、そこから回りまわって情報が来たらしい。びっくりしてさゆりさんと二人で見舞いに行き、自宅療養中の長谷川に事情を問いただした。それが昨日のことだ。
「安藤にはもう言ったのか」
「いや……、いま東京なんで、帰って来てからがいいなかと思って」
「なんでだ、すぐ教えてやれ。後で知ったら驚くぞ」
「仕事で行ってますし、ムダな心配かけたくないです。どっちにしても、私のケガはじっとしてなきゃ治らないものなので」
「そりゃそうだが、気持ちの問題だよ」
高橋たちと、そういうやり取りがあったそうだ。ああ、長谷川、なぜ俺に真っ先に言わなかったんだ。心配をかけないようにという気遣いだろうが、誰よりもお前の力になりたいと思っている俺が、そういうときに傍にいてやれない、それがどれだけ悔しいか。
東京からの帰りの電車の中でそれを知ったので、スーツのまま長谷川の家へ向かった。LINEでは「今から行く」とだけ伝えてある。あれこれ言うのは会ってからだ。しかし、責めてはダメだ。ケガをしていちばん落ち込んでいるのは長谷川本人で、この先どうやったら彼女の助けになれるのかを考えるべきだ。
「おかえりなさい」
自宅前で俺を出迎えた長谷川は、いつもと変わらない様子だった。でも、ゆったりとしたグレーのスウェットシャツの下には、湿布だのテーピングだのが隠れているんだろう。胸に押しつぶされそうな痛みを感じる。俺も何度か脚をやったが、その時には何とも思わなかった。しかし、長谷川が傷ついていると思うと精神的ダメージがえげつない。
「ただいま、ちょっと話ができるか」
それで何となく長谷川も俺が来た理由がわかったようだ。玄関から家の中に向かって「お母さん」と声をかけた。やがて、あのテンションの高いお母さんが顔を出す。
「あらぁああ、安藤くぅんん。あがって、あがってぇええ」
きっと善良な人だと思うんだが、慣れるまでに時間がかかりそうだ(汗)お父さんも兄貴もいない家に上がり込むのは卑怯かと思ったが、今はとにかく静かに話がしたい。俺は東京土産の芋ようかんをお母さんに渡し、お言葉に甘えて二階にある長谷川の部屋に初めてお邪魔することにした。
「どうぞ、ちょっと散らかってますけど」
長谷川のことなので、当然だが俺の「散らかっている」とはレベルが違う。ミシンで何か縫っていたようで、家から出られない退屈を紛らわしていたのだろう。やわらかなトーンですっきりと統一された室内には、手作りと思われるキルトのかかった白いベッド。長谷川らしい部屋だ。できればこんな重たい精神状態で来たくなかったぜ。
「聞いたよ、高橋から」
階下からお母さんが持ってきてくれたお茶を一口飲み、俺は早々に話を切り出した。長谷川は黙っている。俺は続けた。
「なんで言ってくれなかった」
「すいません」
「謝らなくていい。責めているわけじゃないんだ。ただ、俺としては長谷川から真っ先に聞きたかった」
「気持ちが落ちついてから……と思って」
長谷川は自他ともに認めるおっとり型人間だが、さすがにケガの直後は興奮状態で、しかもかなり断裂の状態がひどかったため、数日様子を見た後で再び超音波とMRIで検査をすると言われたそうだ。それが4日前で、まだ痛みがきついためアイスパックを弾性包帯で固定している。
「病院にお兄ちゃんが迎えに来てくれたんですけど、あんまり私が泣きわめくので、ちょっと冷静になってから連絡しろって言われました。今はもう大丈夫です」
「そうか、大変だったな」
俺も新卒研修の真っ最中だったし、どっちにしても帰ってこられないタイミングだった。それにしても、大変な状況で一緒にいてやれなかったのが悔やまれる。今後、遠距離になればこういう状況も度々あるかもしれない。
「どれくらいで、復帰できるんだ」
「ちょっとまだ不明です。筋肉自体は1カ月から1カ月半で修復して、リハビリも開始できるんですけど、私の場合は砲丸投げですから、全力で飛ばせるようになるには慎重にスケジュール組みましょうって言われました」
長谷川はかなり無理をしていたため、断裂部分が凹むほどひどかったそうだ。そこから元のコンディションに戻そうと思えば、かなりの時間がかかるはずだ。もしかすると、もう選手としての復帰は難しいかもしれない。俺のチームでもケガで辞めていく仲間がいたが、そう言う場合は体より心のダメージがでかい。
「辛い時に、一緒にいてやれなくてすまなかった」
「先輩のせいじゃないです。私が記録を焦って飛ばし過ぎたんです」
「しかし、これから長いリハビリがあるだろう。不安じゃないか?」
すると、長谷川は意外なことに不敵な笑いを見せた。
「先輩、なめないでくださいよ」
おっと、これは長谷川が競技中に見せるきりっとした表情だ。ふわふわの長谷川も好きだが、眼光鋭いアスリート・バージョンもたまらなく魅力的である。
「私がスポーツで鍛えたのは、体だけじゃないです。精神力も同時に強くなりました。そりゃあ運動を禁じられたときはパニックになりましたけど、永遠に動けないわけじゃないし、しっかり治して鍛え直すのが今の私の目標です」
「それでこそ、長谷川だ」
「年齢的にも、選手として復活するのは難しいかもしれません。でも、スポーツの喜びは一生のものです。諦めず、くさらず、ベストを尽くします」
そう言って笑った長谷川の顔はまぶしかった。きっとこの数日、苦しかっただろうに、しっかりとポジティブに気持ちを切り替えている。この長谷川の、柔軟な強さが好きなんだ。励ますつもりが、逆に励まされたような気分だ。この分なら、リハビリもいい結果が出るだろう。
その数日後、長谷川の20歳の誕生日に、俺は想いを込めたプレゼントを渡した。東京の小さなアクセサリーショップで買った、シルバーのシンプルな指輪だ。練習中は首から下げておけるよう、細いチェーンも一緒につけてある。
箱をあけて、長谷川は嬉しそうな、同時に戸惑うような表情をした。まだ付き合って一年も経たないうちに、指輪はちょっと重たく感じるかもしれない。でも、これは俺の強い独占欲だけではなく(それは認める)、これから離れて暮らす二人をつなぐ、お守りみたいなものだと思って欲しい。
「俺の方が年上だから、卒業も就職も長谷川より早く迎えることになる。その結果、俺の身勝手に巻き込んでしまうことがあるかもしれない。来年からは住む場所も遠くなるし、何かと不便をかけるだろう」
長谷川は神妙に聞いている。ここからが本番だ。
「しかし、どれだけ離れようが俺は長谷川を諦める気は全くない。長谷川は誰からも愛される人間だが、俺は偏屈だし、誤解されやすいし、本当の意味での理解者が少ない。そんな中で、長谷川との出会いは得難い大切な宝だと思っている」
俺は一気にまくしたてた。喉が渇いてひりつくが、この想いを一気に伝えたい。
「この先もし、何か長谷川が俺とのことで不安に感じることがあれば、この指輪を見て思い出してくれ。長谷川に対する俺の気持ちは、何があっても揺るがない。俺を、信じてくれ」
長谷川の頬がピンクに染まる。小さくあごだけでコクンと頷く姿が、キュッとなるほど可愛らしい。俺がフラれる可能性は大いにあるが、俺が長谷川を好きでなくなる未来なんて想像できない。
「20歳、おめでとう」
長谷川が、うるんだ目で俺を見上げる。さらりと下りた前髪をかきわけ、俺はすべすべとした愛しいおでこに口づけた。