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Prince of Jersey(プリンスオブジャージ)  作者: 水上栞
第二章「恋のウォーミングアップ」
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6.セクハラ上司とユキ軍団からの逃走(SIDE ユキ)



 1回目のインターンもろくなもんじゃなかったが、2回目はさらにひどかった。業務の内容がどうとかいう問題じゃない。俺は、インターン先の管理職から、セクシャルハラスメントを受けるという恐怖と屈辱を味わったのだ。




 2月の初旬から約1週間、俺は東京のある企業で短期インターン研修に参加していた。全国に支社を持つ中級クラスの企業で、開放的な社風が売り物らしい。俺は地元の支社にエントリーを出していたが、関東一円の志望者は東京に集められて一斉に研修を行う。


 まあ、集団面接みたいなもんだ。このインターン期間中に、ほぼ本採用の可否が決まるらしいので、俺はグループワークでも張り切って意見を出し、積極的なイメージをアピールしていた。そしたら、何か変なもんが釣れたんだ。




「安藤くん、お疲れ」


「お疲れさまです」



 声をかけてきたのは、開発部のメディア担当課長。インターン生の管理部門ではないが、業務オリエンテーションの際に開発部代表で講師をしてくれたので覚えている。40歳前後の女性で、高そうなスーツをすっきり着こなし、いかにも仕事のできるオンナ感がにじみ出ている。


 そんな課長さまが、就活生ごときに何の御用だろう。俺は「何かヘマしたかな」という不安を飲み込んで、笑顔で挨拶を返した。



「ごめんね、もう帰るところよね。ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな」


「あ、はい、僕でお役に立てる事でしたら」



 俺はちょっと戸惑った。課長が声をかけてきたのは、会社から50mほど離れた路上。研修終了後、他のインターン生は会社指定の宿泊施設に向かったが、俺は実家に泊まっているので一人だけ方向が違う。「じゃあまた明日」と社のエントランスで解散した直後に捕まったのだ。何となく罠の匂いがする。長いこと捕食者として生きてきた俺の勘が危険信号を出している。



「明日の会議で使う資料をちょっと見てくれる? 安藤くんくらいの年代の意見が聞きたいのよ」


「はい、僕でよければ」


「よかった、ありがとう。助かるわ、もうみんな帰っちゃって、困ってたの」



 そう言うと、課長はさっとタクシーを止めた。おいおい、どこに行くんだ。会社に戻るんじゃないのかよ。



「乗って、乗って。私、忙しくてランチ抜いたからお腹ペコペコなの。食べながら意見を聞くから、夕ご飯に付き合って」



 課長はタクシーにさっさと乗り込み、手招きをしている。こりゃ80%罠だな。断れないよう、仕事をかませてきているのが上級者だ。さて、どうするかな。昔の俺ならついて行って、場合によっちゃ要領よくお相手しただろうが、この正月に長谷川と氏神様に「誠実になる」と誓ったばかりだ。俺は直角に近い角度で頭を下げた。



「申し訳ありません、社外でご一緒するのはご遠慮いたします」


「早く乗んなさい」



 どうして断っているのか理由さえ聞かない。100%その気だったということだ。さっきまで柔和だった表情が、獰猛な肉食獣の眼差しに代わっている。



「明日、早く出勤しますので、その際にお申し付けください」


「そう、わかったわ」



 タクシーのドアが閉まり、走り出す。テールランプが見えなくなった頃、嫌な汗がどっと拭きだした。勘弁してくれ、こっちは就職という人生の一大事に挑んでいるのに、権力を振りかざされたらたまったもんじゃねえわ。まあ、これで明日からもあの課長が態度を変えずに接してくれるなら、なかったことにしてしまおう。



 しかし、そうではなかったようで、翌日早朝出勤した俺に、課長からのお呼びはかからなかった。さらに、彼女はまるで俺が透明人間であるかのように無視し続けた。どうやら俺は、無駄な一週間を過ごしたようだ。






 例え採用されてもこっちから願い下げだ、という企業の研修を、それでも一週間きちんと受けたのは、これから就職を目指す後輩や学校の面目のためだ。あの課長が破廉恥なだけで企業に罪はないが、ありゃ間違いなく初犯じゃねえぞ。あんなのが管理職ってだけでも、会社のコンプライアンスが疑われる。入社前にわかってよかったと思っておくべきだな。


 そういうムカムカやイライラをため込んだせいか、無性に長谷川の顔が見たかった。東京から帰宅した日の夜、呼び出して中華でも食いに行こうかと思ったが、迷った末に諦めた。正月の告白以来、なるべく長谷川への接触を控えている。バイトで会っても、なるべく普通に接して、プレッシャーを与えないようにしているのだ。


 しかし、あれからもう一カ月。そろそろ何らかのリアクションがあってもいいころだと、心の奥底で期待の芽が膨らみ始めていた。そんな浮かれた気持ちが、油断につながったのだろう。東京から帰って数日後、バイトを終えて従業員用出入り口を開けると、外へと続く通路の向こうに、チャラい女の集団が待ち構えていた。



「しまった! 今日は14日か!」



 あー、失敗した。いつもなら毎年、2月14日は引きこもるのに。名前も知らない誰かから食い物をもらうのは不気味だし、「連絡ください」なんてメッセージが入っていても対処に困る。さらに、知り合いからもらうと返礼しないのも気が引けるし、第一そんな金も暇もないんだよ(涙)



 だから毎年バレンタインデーは、女と遭遇しないように注意をしていた。自意識過剰だと思われるかもしれないが、俺の知らない間にファンサイトとやらが立ち上がっていて、目撃した写真だの行きつけの店だの、最近では俺が学食で食ったカツカレーの写真までアップされていた。大学内にもスパイがいるんだろうな。おちおち鼻もほじれねえ。



 高校の時は部活の顧問が追い払ってくれたし、今はオッチャンがスーパー内に入らないようシャットアウトしてくれているが、帰り際を狙われるとまずい。なぜかと言うと、従業員用出入り口から上階にある住居に行くためには、一旦建物の外へ出ないといけないからだ。


 俺のバイト先はバレてしまったが、まだ住居はバレていない。まさかスーパーの上に住んでいるとは奴らも思っていないだろう。そのため、こうして出待ちをされた場合は、いつもダッシュして撒いてしまう。なあに、近所を5分も走れば十分だ。俺の足についてこられる女など長谷川くらいだからな。ふふ、足腰を鍛えておいてよかったぜ。




 そう考えながら通用口の外へ出ると、待ち構えていた連中がわらわらと寄ってきた。寒い中で待ってもらって申し訳ないとは思うけれど、いつもの微笑み塩対応でさばいていく。「誰からも受け取らないことにしている」「気持ちだけいただく」そう言いつつ、さあ走るぞと外側広筋にぐっとパワーを注ぎ始めた、その時。


 軍団の後ろで、困ったような顔をしている長谷川の姿を見つけた。俺と目が合うと、小さく手を挙げる。どうやら俺を待っていてくれたらしいが、軍団に阻まれて従業員通用口までたどり着けなかったようだ。



「走れ! 長谷川!」



 気がついたら長谷川に号令をかけ、全速力で走り出していた。軍団の女が追いかけてくるが、怠けたヒールの足では50mが関の山だ。しかし500mを過ぎても、背後からぴったりついてくる足音が聞こえる。修練を積んだランナーだけが会得できるミッドフット走法。振り向けば、しびれるほど美しい長谷川のランニングフォームが目に入った。



「長谷川!」



 俺が立ち止まると、長谷川も止まった。その場でジョグをしているのは、血液の循環を整える基本だな。素晴らしいぞ。まさか一緒に走ることになるとは思わなかったが、思いがけず愉快な気分だ。俺が「ははは」と笑うと、長谷川がぷくっと頬をふくらませた。ああ、なんて可愛いんだ。走った後だから肌が紅潮して、まるでピンクのフグ提灯のようだ。



「もう! 先輩、なんでいきなり走るんですか」



 むくれる長谷川に、軍団をぶっちぎるためだったと説明した。びっくりさせて悪かったが、長谷川は期待通りついてきてくれた。さすが陸上部、このままフルマラソンしたくなってきたぜ。



「で、長谷川はなんであそこにいたんだ? 今日はシフト入ってなかっただろ」


「えっと、実はですね……」



 なにやら長谷川がもにょもにょ言っている。何だろうなと耳を澄ましていると、遠くからカツ、カツ、と刺さるような足音が聞こえてきた。やばい、ハイヒールの女が根性出して近くまで追っかけてきたようだ。



「すまん、長谷川、もう一回走るぞ」



 俺はそう言って、再びダッシュした。足取りがつかめないよう、路地をジグザグに走り、公園を抜け、橋を渡る。そして最後に自分のマンションまで戻ってきた。あたりを慎重に見まわしたが、もう誰もいない。今がエントランスへ入るチャンスだ。



「長谷川、こっちだ」



 オートロックの暗証番号を高速で打ち込み、自動ドアが開くのももどかしく、俺はエレベーターへとなだれ込んだ。その時、ようやく俺は気がついたのだ。長谷川を自宅まで連れてきてしまったことに。



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