1.鬱陶しい女と油断ならない女(SIDE ユキ)
ようやくインターンシップに潜り込んだ。封筒や事務用品の卸業を展開する、業界では中堅クラスの地元支店。1週間だけの短期インターンだが、出遅れた分しっかり成果をあげようと張り切っている。しかし、どこにでもいるんだ鬱陶しい女が。
「安藤くんは、彼女いるの?」
給湯室でコーヒーを淹れていたら、背後に女性社員が立っていた。おいおい、いくら何でも職場で絡まれることはないと思っていたのに、油断してたぜ。コミュニケーションに託けてぐいぐい責めてくるのは迷惑だし、目が笑ってねえのが怖ぇえ。
「ははは、勘弁してください」
俺はいつものように、距離を縮めさせない鉄壁のディフェンスだ。しかし、相手はそれで引き下がるほどヤワではない。
年齢は20代半ばから後半だろうか。茶髪ストレートで、色白やや細身。まあ男好きのするタイプだろう。ふんわりニコニコ無害を装っているが、しかし中身はタスマニアデビルだ。小動物だと思って手を出すと喉笛をやられる。しかもこのデビルは策士らしく、退社後にコンビニで出くわしたり、電車の車両が一緒だったり、できすぎた偶然が多い。
そういうと粘着質なストーカーを想像するだろうが、こいつは尾行や待ち伏せが実に堂々としている。今だって、昼飯に行く俺の背後5mをついてきている。きっと俺が店に入ったら、偶然を装って相席するはずだ。自分になびかない男などいないと、変な自信を持っているので始末が悪い。
しまったな、誰か誘って来ればよかったな。信号の変わる寸前に道の向こうに渡って逃げるかな、なんて考えていた俺の耳に、天の助けのクラクションが響いた。
「ユキ~」
白いアルファロメオ・ジュリエッタの窓がスーッと開き、薫子が顔を出した。正直、会いたくない人物であったが、背後のタスマニアデビルより話が通じる分だけマシである。俺は平静を装って助手席のドアを開け、皮張りのシートに滑り込んだ。今ごろ肉食女は目の前で獲物をさらわれ、地団駄を踏んでいるだろう。
「すまん、このままちょっと先まで乗せてってくれ。尾行されてる」
薫子はちょっとびっくりしたような顔をしたが、「了解」と笑って車を走らせ、いくつか先の交差点の向こうで停車した。
「何度か連絡したんだけど」
薫子が拗ねたような顔でこちらを見る。もう何カ月も彼女からのLINEは未読のままだ。
「就活でバタバタしてた。悪かったな」
「悪かったと思ってるなら、埋め合わせしてよ。これからランチなんて、どう?」
「もう、あと20分で社に戻らなきゃいけない。さっきので時間食っちまった。立ち食い蕎麦でいいなら付き合うぜ?」
「やあよ。じゃあ、さっきのお礼も含めて、24日は空けといて。パーティーに顔出して欲しいの」
「はあ、24日?」
言われてようやく、24日がクリスマスイブだと気がついた。もともとイベントに興味はないし、毎年イブは女除けのため男連中と居酒屋に予約を入れてしまう。今年は就活で頭がいっぱいで、そんなもん考える暇さえなかった。
「なによ、もしかして彼女と約束でもあるの?」
そう言われて、頭の中にバーンと長谷川の顔が浮かぶ。あああ、今は出てくるな、テンパるからヤメれ。必死に頭を通常モードに切り替えて、薫子の言ってることを反芻してみた。
「パーティー? 俺がそういうの苦手って知ってるだろ」
「グダグダ言ってないで、来てよ。借りを返してくれるんでしょ? ホテルセントラルガーデンに午後7時。受付で私の名前を言ってくれたらいいから」
なるほど、薫子が主催のパーティーに人数が集まっていないようだな。まあ、さっきは助けてもらったし、借りを返しておくか。そうだ、パーティーなら長谷川も誘ってみてはどうだろう。ちょっと顔だけ出して、その後は二人でどこか行ってもいいじゃないか。そうだ、せっかくならその日に自分の気持ちを伝えよう。クリスマスイブなら告白するのに最高のタイミングじゃないか? うん、俺にしては上出来だ。
結論にたどり着いた俺は、助手席のドアを開けた。
「わかった、行くよ」
そして12月24日当日、俺は長谷川とホテルのロビーにいた。長谷川は最初「パーティーなんて」と遠慮していたが、主催者である友人のために頭数が必要だと頼み込んだら、快く応じてくれた。本音を言えば、俺が一緒に行きたかっただけなんだが、やっぱり長谷川はいい奴だ。
何より、イブに誘ってOKということは、駅で見かけた男とは今のところ何にもないってことだ。それも気になっていたので、心の底からほっとしたぜ。
オッチャンはスーパーが忙しい年末に、二人もバイトに抜けられて渋い顔だったが、正直に長谷川を誘うことを白状したら、なぜか頑張ってパートさんのシフトを調整してくれた。なんだ、応援してくれんのか、オッチャン。ありがとな。俺、今夜はばっちり決めてくるぜ。なんだか、長谷川を手に入れたら何もかもうまくいきそうな気がするんだ。
そんなあれこれを乗り越えて、記念すべき俺たちの初デートだ。今まではせいぜい牛丼屋か、高橋たちと一緒に焼き鳥くらいだったんで、なんだか緊張するけど、それは長谷川も同じようだ。普段より口数が少ないし、もじもじしている。
そして何と、今日の長谷川の服装はモスグリーンのワンピースだ。親戚の結婚式用に買った一張羅だそうだが、かわいい!かわいい! さらに、さゆりさん仕込みの化粧もしている。ほんのり桃色に染まった頬が、かわいい!かわいい!かわいい!
あまりの嬉しさに、思わずその場でジャンピング・ヒンズー・スクワットを連発しそうになったが、出禁になるといけないので、軽く「似合うじゃないか」とだけ言って、フロントへ向かう。今日は紳士的にふるまいたいし、かっこいい男でありたい。しかし、受付の担当者がキンキラに輝くカードキーを俺に差し出した辺りから、どうも予想と違うことが起こり始めた。
「滝川薫子さまですね、1807のお部屋になります。このカードでセキュリティをお通りください」
むむ、パーティーならレストランじゃないのか? まあ、行ってみればわかるだろう。俺はロビーで待たせておいた長谷川と合流し、エレベーターの18階ボタンを押した。シースルーの壁越しに見おろす景色に、長谷川がはしゃいでいるのを見て、俺は再びスクワットをしたくなったが、静かに微笑んで我慢した。
「スイートって書いてあるな、こんなところにレストランがあるのか?」
「まあ、最近はスイートルームの貸し切りパーティーも流行ってますからね」
「なるほどな」
キンキラカードを機械にスライドさせると、「Suite」と透かし彫りが施されたドアが音もなく開いた。ロビーとは明らかに厚みの違うじゅうたんを踏みしめつつ07番の部屋を探し、インターフォンを押した。ほどなくしてドアが開き、薫子が出てきた……が、どうしたことかガウンを着ている。アメリカのエロいビデオでよく見るやつだ。
薫子は俺と長谷川の顔をぽかんとした表情で見ていたが「とりあえず、入れば」と言って、俺たちを引っ張り込んだ。まずい、長谷川が完全に固まっている。
部屋の中には大きなソファセットがあり、その横にダイニングテーブル。銀のバケツに入ったシャンパンの瓶と、二人分の食器セットが用意されている。高層階からの夜景が広がる窓は、俺の部屋の面積より広そうだ。そして、奥のドアは、おそらく寝室だろう。確かに10人や20人のパーティーはできそうだが、薫子の他に誰もいないのはどうしてだ。
「おい、他の客はどうした」
「いないわよ」
俺の質問に、薫子はあっけらかんと答えた。その時ようやく俺の頭の中で、最初から薫子は俺一人をここへ誘ったのだと気がついた。もしそれがわかっていたなら、絶対に応じなかった。薫子もそう思ったからこういう手を使ったんだろうが、まさか俺が誰かを連れてくるなどとは予想しなかったはずだ。まずい、非常にまずい。
「最近あんまり会ってなかったから、たまには二人でゆっくり……と思ったんだけど。困ったわね、えーっと、こちらのお嬢さんは?」
薫子が長谷川をちらりと見た。どう説明しようか頭がパニックになっている間に、長谷川に自己紹介されてしまった。
「高校の後輩です。バイト先でお世話になってます」
「そうなのね。私がちゃんと説明しなかったせいで、ごめんなさい」
その時、薫子のガウンのベルトがはらりとはだけた。事もあろうに、中はパンツ一丁だ。お前、それ絶対わざとだろ。俺たちがどういう仲であるかを、長谷川に見せつけるためにやっただろ。案の定、長谷川の顔が引きつっている。
「あら、失礼」
薫子がしれっとした顔で、前をかき合わせている。それを見て、長谷川は松山英樹のキャディーもびっくりの、きれいな90度のお辞儀をした。
「大勢のパーティーだと思ってお伺いしましたけど、お邪魔してしまったみたいで申し訳ありません。私、お暇しますので、先輩はごゆっくりどうぞ」
くるりと振り向き、ドアに向かってBダッシュした長谷川の、ちらりと見えた横顔が泣きそうな表情で、俺は思わず手を伸ばした。
「長谷川!」
しかし、薫子の腕が俺を背後から拘束した。たいした力じゃないから振りほどくのは簡単だが、怪我をされては困る。俺はそっと片腕ずつ引っ剥がすと、彼女にとってかつてないほどの冷酷な声で警告を与えた。
「連絡しなかったのは俺も悪かったよ。パーティーの意味を取り違えたのも、俺が間抜けだったと諦める。でも、長谷川を傷つけたことは許さない。ここへ来たことで、もう借りは返したからな。二度とお前の顔は見たくねえ」
そう言い残すと俺は、さっき長谷川が猛スピードで出て行ったドアから、自己最高記録を目指す勢いでエレベーターへ向かった。このフロアに止まるVIP用は1機のみ。長谷川が乗っているであろうその箱は、11階から10階へ向かう途中で点滅している。
俺はエレベーターホール端のドアを開け、非常階段を飛び降りるように階下へ向かった。