エルサレム上空を舞ったカトー隼戦闘機小隊
今、私の目の前には一枚の写真がある。
その写真には、大日本帝国陸軍飛行第64戦隊の部隊の証である矢印が尾翼に入っているが、それと同時にある筈の日の丸が無く、その代りにイスラエル軍所属を意味するダビデの星が機体に描かれている隼戦闘機が写っている。
これは、某大手新聞社に入るも、第4次中東戦争の取材をきっかけに血が騒いでしまい、新婚早々に退社して戦場フリーライターに転職するという暴挙を仕出かした父の遺品の写真である。
父は生涯をかけてその謎を解明しようとして、私もこれまでその謎を解明し続けようとしてきた。
(ちなみに父が某大手新聞社の退職を決めた時、母は怒りの余り、父との離婚を考えたそうだが、私がお腹の中にいたので取り止めたそうだ。
だが、そのことを私が未だに年老いた母に愚痴られていることにつき、私は母を恨まざるを得ない。
「あなたがお腹にいたから、私はお父さんと離婚しなかったのよ」
等々、父が亡くなった今になっても、母は折に触れて私に言うのだ。
離婚できなかったのは私のせいだ、私がいなければ、という想いを母は嫌味として私にぶつけているのでは、と私としては勘繰らざるを得ないのだ。
更に言えば、海外取材が多く、家に不在のことが多い父の代わりのように、弟を母は猫可愛がりして、私に言うようなことを弟には決して言わなかったのだ。
私がひねくれた考えを持つのも半ば当然、母が毒親のように私には想えるのも当然ではないだろうか)
話がズレた。
とは言え、某大手新聞社時代のコネ、更にその後に培った人脈もあり、戦場フリーライターとしてはそれなりに成功を収めて、母は専業主婦のままで、私達姉弟を大学まで卒業させ、自宅まで建てられたのだから、一応は人生の成功者と父は言えるだろう。
最も度々の戦場生活はやはり過酷だったようで、10年余り前、父は70歳前に病死した。
父は、
「ベッドの上で死ねるとは思わなかったから、これでも十分幸せだよ」
と言い残したが、やはり若死にしたという想いが私には拭えない。
その父が最後まで心残りにしていたのが、この1枚の写真の謎だった。
いや、第4次中東戦争の取材の際に、この写真を手に入れたために、父は戦場フリーライターになったといってもよい。
本当は他にも写真はあったらしいが、父が手に入れたのはこの1枚だけだ。
更に言えば、この写真の謎を解くことが、父の後を追うように雑誌記者になった私への事実上の父からの遺命になった。
でも、未だに完全に謎は解けたとは言えない話なのだ。
以下、2020年現在、父と私が今までに調べられた限りのことを、ここに書きたい。
私の手元にある写真には1機しか隼戦闘機は写っていないが、本来は4機あったらしい。
最もそれを操縦する元日本陸軍の航空関係者は、カトー中尉と自称する男性1人だった。
後の3機は、世界各地からイスラエル建国のために集ったユダヤ人操縦士、後のイスラエル空軍のパイロットが搭乗して戦ったらしい。
父は最初はカトー中尉の素性にむしろ興味を持って、写真の調査を始めた。
最初、父はカトー中尉を本名だと思ったことから、当初の調査が上手く行かなかった。
むしろ、隼戦闘機の方に注目すべきだったのだ、と私は想う。
陸軍の航空関係者で加藤という中尉、又は階級詐称を考えて、加藤という操縦士を父は探してしまい、20年余りを無駄にしてしまった。
(更に言えば、カトーなのだから、加東とか漢字違いも探さないといけなかった)
1970,80年代にパソコン等が普及している訳もなく、書類に一々、目を通す必要があったのも、父の調査を手間取らせる一因になった。
(更に父の本来の戦場フリーライターの仕事もあり、その合間に父は調査するという事情もあった)
状況が変わったのは、パソコンが普及して我が家も購入し、更にパソコン通信が始まり、最初は大学生の私が初めて、父も加わったことだった。
父がどこかのフォーラムで、このことについて相談をしたところ、隼戦闘機に興味を持つ人がいて、更に部隊証の矢印からして、飛行第64戦隊関係者をむしろ当たるべきでは、とその人が助言して、飛行第64戦隊の戦友会「六四会」を、その人は父に紹介してくれた。
そして。
父の写真を見た「六四会」関係者のほとんどが異口同音に言ったらしい。
「どうして、こんな写真が。明らかに飛行第64戦隊の隼の日の丸が、ダビデの星に塗り替えられただけのようにしか思えません。この当時(第一次中東戦争時)のイスラエルで、こんな塗装ができるのは、飛行第64戦隊関係者だけの筈です。何故なら細部まで知る人でないと、こんな塗装ができる筈がない」
そして、戦死又は行方不明になった筈の戦友の1人ではないか、誰だったのか、と「六四会」関係者は色めき立ったが。
残念なことにカトー中尉は第一次中東戦争末期に戦死していた。
それに「六四会」関係者も高齢化していた。
何しろ戦後50年が経過しようとしていたのだ。
「六四会」関係者の一人からは、父は少し責められもした。
「言っても詮無いのは分かる。だが、第四次中東戦争の際に、この写真を手に入れていたのなら、すぐにこれを自分達の下に持ってきてほしかった。その時だったら、まだ若かった自分や戦友達はイスラエルに行って、このカトー中尉と自称した戦友の足跡を何とか探り、誰だったのか分かったかもしれない」
その人はそう言う内に号泣しだし、それ以上の言葉が続かなかったという。
本来から言えば、自分の操る機体に勝手に部隊証を入れて、それも名戦闘隊長と同姓のカトーと自称して、と「六四会」関係者からカトー中尉は責められてもおかしくない。
だが、「六四会」関係者の多くが、カトー中尉が第一次中東戦争で戦ってそこで挙げた戦果を知り、飛行第64戦隊の名を辱めない戦果を挙げてくれた、と思って涙したのだ。
改めて、カトー中尉について、父や私が調査した限りの経歴を述べるならば。
1944年夏にビルマ戦線において、空中戦で撃墜された際に落下傘降下して、地上を歩いて味方の下に戻ろうとしたが、山中で彷徨っている際に、カトー中尉は英陸軍の斥候小隊と遭遇した。
山中を彷徨している際に武器を失っていたこともあり、カトー中尉は抗戦を断念、虜囚となった。
そして、英軍の捕虜収容所に送られたが。
航空士官であったことから、割合に厚遇されていたようで、そこで英空軍のカヤル少佐と面識を得た。
尚、この時には既にカトーと自称していたらしい。
生きて虜囚の身となったことを、自分なりに恥じていたのだろう。
更に時が流れて、第二次世界大戦は終わった。
その際にカヤル少佐から、カトー中尉は頼みごとをされた。
「捕虜になった際に死んだものと思って、僕達が国を作る手助けをしてくれないか」
カヤル少佐はユダヤ人で、イスラエル建国のために戦う決意を固めていたのだ。
カヤル少佐の頼みに対し、カトー中尉は本気とは思わず、半ば冗談で返した。
「俺のために、隼戦闘機を4機を武装かつ飛行可能状態で確保してくれ、そうしたら援けよう」
「分かった」
カヤル少佐は、どんな伝手があったのか、1月以内にカトー中尉の頼みを果たした。
カトー中尉はカヤル少佐に
「サムライは己を知る者の為に死す、と言います。ここまでのことをされた以上、イスラエル建国のためにこの身を捧げましょう」
と言い、カヤル少佐の手引きにより、イスラエルに隼戦闘機4機と共に向かったのだ。
(尚、この時までにカヤル少佐によって、自分が日本国内では戦死扱いになっていることが分かったのも、カトー中尉の決断を後押ししたらしい。
どうせ死んだ身ならば、とカトー中尉は腹をくくったのだ)
そして、イスラエル、パレスチナの地にたどり着いたカトー中尉は、草創期のイスラエル空軍にとって貴重な航空士官となり、戦闘機乗りを育て、実戦に赴きと八面六臂の活躍をした。
更に自分の出身の証だから、と飛行第64戦隊のマークを自らが操縦する隼戦闘機にカトー中尉は描かせ、部下達もそれに倣った。
更にカトー中尉の実際の技量だが。
カトー中尉の単機空戦での技量は極めて高く、隼でスピットファイアやP-51相手に、単機での模擬空戦ならば互角以上に戦えるほどだったという。
また、空戦指揮官としても優秀で、部下3人を引き連れて、空戦に赴いた際、背中にまで目があるかのように部下の空中戦での戦い方を見て、地上に降りた後は指導していたという。
そのためにカトー中尉は第一次中東戦争において3機しか撃墜していないが、部下3人は全員が最初は隼戦闘機を操り、その後は中東の空をイスラエル空軍の下で生涯勤務して、全員が撃墜王の称号を得て退役に至っており、カトー中尉の指導の賜物と揃って感謝している。
そして、第一次中東戦争を戦ったカトー中尉率いる隼を装備する戦闘機小隊は同数ならば、第一次中東戦争末期の頃には、イスラエル空軍最精鋭の戦闘機小隊と敵味方双方から目される存在にもなっていた。
正に飛行第64戦隊の最後の花道を飾る戦いを演じたといっても、カトー中尉率いる隼戦闘機小隊は過言ではない存在だったのだ。
だが、好漢やはり生きて還らず。
第一次中東戦争が終わろうとしている1949年1月下旬、エルサレム近郊に展開するイスラエル地上部隊支援のために飛び立ったカトー中尉操る隼戦闘機は、上空からヨルダン空軍戦闘機の奇襲を受けて戦死したのである。
この際に行動を共にしていた部下達によれば、本当に何で、と思わざるを得ない失敗だったという。
それこそ常に後方を警戒しろ、と自分達を指導していたカトー中尉が、味方支援を優先して、後方警戒を疎かにした結果、起きた事態だった。
部下達は激怒してカトー中尉の仇を討ったが。
父が取材した部下の一人は、この時のことを、生前の父に語っている。
「今にして思えば、この戦争(第一次中東戦争)が終わったら、この国で生きて行けるだろうか、という想いがカトー中尉の心の片隅のどこかに、不安としてあったのではないでしょうか。
それが、戦死という事態を起こしたのでは、と私には思われます」
尚、カトー中尉は、イスラエルに向かった後、ユダヤ人の女性と恋に落ち、ユダヤ教に改宗して、その女性と結婚して、イスラエル国籍を取得していた。
そして、その女性はカトー中尉の息子と娘を産んでおり、カトー中尉の血脈は続いている。
そうしたことからすれば、そんな不安をカトー中尉が抱いていたとは私には思い難いが。
部下の目からすれば、カトー中尉がそう映っていたのだろう。
また、父と私の調査は、基本的にここまでが限界だった。
「六四会」関係者の協力により、1944年夏頃に戦死又は行方不明になった筈の恐らくこの数人の中の誰かでは、という処までは絞り込めたが、それ以上のことまでどうにも絞り込めなかったのだ。
カトー中尉自身が明確に写っている写真も、ほぼ残っていない。
カトー中尉が写真を撮られることを嫌がったため、カトー中尉の妻子の下にも数枚の白黒写真、それも余り写りの良くない小さめの写真しか、父が調査した時点では残ってなかったのだ。
何とか父が頼み込んで、その写真を撮影し、当時生きていた「六四会」関係者に1990年代になってから、誰か分からないか、と見てもらったが。
歳月の流れもあり、誰も確信をもってあいつだ、とは答えなかったのだ。
(それに妻子の下に残されている写真が、私服姿と言うのもあった。軍服だったらまた違ったろう)
こうしたことから、カトー中尉が誰だったのか、未だに私には不明のままなのだ。
勿論、非常手段がないことはない。
科学の進歩により、現在のDNA鑑定技術をもってすれば、「六四会」関係者によって挙げられたカトー中尉の候補者の親族の誰かと、カトー中尉の子どもが親族関係にあるか否か、容易に分かる時代になっているのだ。
だから、カトー中尉の候補者の親族に協力して貰えば、カトー中尉の正体がわからないことは無い。
だが、太平洋戦争が終結して70年以上経った現在、そこまでのことをする必要があるのかというと。
日本にはカトー中尉の候補者とされる人物に子どもはいない。
カトー中尉の候補者の親族での生存者は血縁が最も濃い人でも甥姪という時代になってしまったのだ。
そうしたことからすれば、この辺りで調査を止めるべきだろうが。
この写真の謎は私の心を惹いてならない。
念のために申し上げますが、これは架空戦記です。
従って、第一次中東戦争で隼戦闘機が実際に用いられたという記録は(私が調査した限りは)ありませんので、史実で隼戦闘機をイスラエル空軍は使用していない筈だ、とツッコまれても困ります。
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