ゲロイン
グルグルグルグル。
空、空、空。たまに大地。ところによって『怪鳥』らしき影。
背負子から見る世界は目まぐるしく移り変わっていく。
アイナを乗せた背負子は『怪鳥』を狩り終えるまで止まらない。
苦戦しているのか? 善戦しているのか?
それさえもわからない。なにせインベントと視線は真逆なのだから。
いつ終わるのかわからぬ恐怖と戦う。
ギュルギュルギュル。
激しさが増していく。
内臓が搔き回され、三半規管が乱される。
嘔吐したくてたまらない。
だが嘔吐する余裕さえない。
気を緩めれば吐瀉物と共に落下してしまうかもしれないからだ。
アイナは背負子の手摺り部分を固く握りしめ、できるだけ身体が動かないように腕を伸ばし、脇を締める。
更に目を閉じた。
上下左右。移動か旋回か。
予測不能だからこそいっそ目を閉じた。
見えない恐怖を感じつつも、身体を固定ならば目を閉じているほうが集中できることに気付く。
後は耐えるだけ。
握力が尽きるその瞬間まで耐え忍ぶのだ。
ギューンギュギュギュニャ~プルルシュア~ン。
リズムが……変わる。
音では形容しきれない動きに変わった。
アイナはふと、幼少期に川で溺れかけたことを思い出す。
川の深さを見誤り、水中へ。
上下がわからなくなりパニックに。
そんな忘れていた幼少期の記憶。
「――あ」
目を開くアイナ。
一面の空。
視線を下へ。とにかく下へ。
それでも続く一面の空。
(大地はどこだ?)
どれだけ下を見ても大地など無い。
よもや逆立ち状態だとは気づけないアイナ。
その結果――
「え?」
固く締めていた脇が空いてしまう。
すると身体から力が逃げていく。
「あ、あ、あ」
どうにか挽回しようにも上下逆な状況がアイナの感覚を大きく狂わせた。
身体を大きく浮かせる力が、実は重力であることにも気づけない。
そして――――
「あっ」
大きな力で加速する背負子。
アイナは置き去りにされ、大空に放り出されてしまった。
****
浅く短い呼吸の中、アイナは意識を取り戻す。
(あ、あれ? アタシは……)
自分がどうなったのかわからないアイナ。
ただ、背負子の手摺りを握っていない事に気付き――
「あっ!!」
すぐさま手摺りがあるはずの場所に手を伸ばす。
すると――
「あっぎゃあ!!」
アイナの右手はインベントの顎に直撃した。
まさかの不意打ちに転げまわるインベント。
舌を軽く嚙み切ってしまい出血している。
「い、痛い! 痛い!」
「え……え……?」
なにが起こったのかわからないアイナ。
目を開き視界に広がる樹々を見る。
やっと大地に横たわっていることに気付く。
だがそれでもまだ空にいるのではないかと思い、恐る恐る手で大地を確認する。
「あっ、アタシは……いっ、生きてる?」
気が動転している。
そんなアイナに対し――
「大丈夫か?」
恐る恐るアイナの視界へ入ってくるのは――
「え? あ? ク、クラマさん?」
「うむ……大丈夫かのう?」
なぜクラマがいるのかわからないアイナ。
クラマはクラマで、インベントの二の舞になりたくないのでアイナパンチを警戒している。
アイナはゆっくりと上体を起こし、乱れている呼吸を落ち着かせる。
そして顎の痛みに耐え近づいてくるインベントと目が合った。
インベントはなんとか笑みを浮かべ――
「いやあ~良かった良かった。
ハハハ、まさか墜ちていっちゃうなんてびっくりだよ」
暢気な発言のインベントに対し、アイナは激昂する。
「て、テメエ!!」
立ち上がりインベントの胸倉を掴む。
状況から判断すればインベントかクラマのどちらかがアイナを救出したので間違いない。
仮にインベントが救出したとしても、感謝する気など起きるわけがなかった。
そもそもの原因はインベントだからだ。
怒りを罵声に変えるために、アイナは息を大きく吸い込んだ。
が――次の瞬間。
「――ぐ!?」
アイナは頭痛で顔を顰めた。
知らぬうちに頭を打ったのではないかと想像するアイナ。
だがすぐに原因がわかった。
(うう……き、気持ち悪ぃ……。
頭はぐわんぐわんするし、胃がぐちゃぐちゃだ。
や、やべえ……こりゃもう……)
頭痛の正体。
それは酔いである。
地獄の特等席で揺られに揺られ続けたアイナ。
それはもう盛大に酔ってしまった。
「アイナ? 大丈夫?」と声をかけるインベント。
だがアイナにはその声は届かない。
立っていられない。
そのためインベントの漆黒装備をがっちり掴み、なんとか姿勢を維持。
「う、う、う」
続いてやってくる白目を剥きそうなほどの強烈な吐き気。
それを我慢できるはずもなく――
「ヴォ、ヴォエエエエエエェェ!」
「ぎ、ぎゃあああああああ!!」
完全版・漆黒装備。
ゲロをエンチャント。
****
クラマおじいさんはアイナの介抱を。
インベントさんは川に洗濯へ。
(ハア……なんでワシがこんなことを。
ま、放置もできんか)
アイナは小一時間ほど横になっていた。
そして万全には程遠いながらも座っていられるぐらいには回復したのだ。
インベントは汚れた漆黒装備を可能な限り洗って戻ってきた。
お着替え完了し、アイナたちの元へ。
「ハア~」
よもや漆黒装備にゲロをエンチャントされるとは思わず、少々落ち込んでいるインベント。
「うぬ……なんか災難じゃったのう」
「ううう」
しょんぼりするインベントに対し、アイナは自らの膝を叩く。
「一番災難のは……ア、タ、シ! だからな!」
睨むアイナに対し、インベントは目線を外し「ご、ごめんね」と呟く。
「ゴメ~ン……で済むかコンチクショウ!」と言い立ち上がろうとするアイナだが、胃がご機嫌斜めであることを悟り、ゆっくりと元の体勢へ。
インベントはアイナの嘔吐を警戒しつつ、「お茶でもどうでしょうか」勧めるのだった。
そんなアイナとインベントのやり取りを眺めつつ、クラマは観察する。
(変な服を着とったからわからんかったが、こやつ妙にガッシリしておるのう)
オセラシアにてアイナが刺されたあの日から早三年。
身長はさほど変わっていないが、明らかに筋肉量が増えている。
(三年もあれば人は変わる……いやそれでもたった三年じゃ。
あの線の細い少年が、鍛えられた良い身体になっておる。
いや身体だけではないのう。
確実に強くなっておる。
なにが……どうなって……ううむ……)
クラマはインベントの紆余曲折など知らない。
シロやクロの存在は当然のこと、二刀流を習得したことも知らない。
知るのは磨きのかかった強さだけ。
三年前のインベントが味方さえも傷つけかねない狂気に満ちたナイフだとすれば、現在は研ぎ澄まされた鉈のよう。
クラマは思う。
(なにがあったのかは気になる。
強くなった経緯も気になる。
だがそれよりも――――)
「のう――インベント」
喉の渇きを感じつつクラマは話しかける。
「はい?
あれ? そういえばなんでクラマさんがいるんですか?」
「あ~。まあそれは追々話すとして。
そんなことよりも……その……なんだ。
また、オセラシアに来ぬか?」
オセラシア自治区はいまだ非常時である。
喉から手が出るほど欲しい戦力が目の前にいるのだ。
だが、クラマは理解している。
この交渉はそれほど簡単ではないことを。
(インベントがオセラシアに対して良い感情を持っているとは思えん。
色々あったしのう……。
じゃが……どうにか連れて帰りたい。
こやつのことは理解しているつもりじゃ。
理解……? できておるのかのう)
表情を変えないインベント。
なんとかインベントを動かしたいクラマ。
そして――――
ゲロの香りを漂わせながら、目が据わったヒロインがクラマを睨んでいる。




