伯爵令嬢は悪役令嬢の姿を見た
この国がどうなってしまうのか、そんな不安は杞憂に終わった。
識字率の向上、人事考課制度、インフラ再整備、各領地との情報共有迅速化、そのどれもがうまくいっていた。鎖国は今も続いているが幸いダーゲンヘルム王国は資源を多く持っていて、交易に頼らずとも問題なく国は回っている。国は以前より豊かになり、生活にも余裕が出てきていた。
「ハッ、ハァッ……!」
馬に乗り逃げる男を追う。その背中にあるのは隣国の紋章だ。月明かりも差さない暗い森の中を愛馬で緩やかに追い詰めていく。背負った矢筒から矢を一つ取り、弦を引く。ト、と軽い音を立てて男の行く先の木の幹に突き刺さった。
短い悲鳴を聞きながら次の矢をつがえる。ト、ト、ト、軽快な音を聞きながら国境までの距離を測る。ダーゲンヘルム王国を囲う森を抜けるまでおそらく5キロ程度。負傷しながらも十分自国まで帰ることのできる距離だ。
最後の矢をつがえ、揺れる右肩に射掛けた。寸分の狂いなく肩に刺さった矢に唇を舐め、落馬する男を見下ろした。主を失い右往左往する馬の手綱を捕まえ、おとなしくさせる。
「た、助けてくれっ」
地面を這い、右肩を庇うように私を見上げる男の目には恐怖しか映っていなかった。
「ああ、助けよう」
「は、はぃ……?」
「行け、ダーゲンヘルムの森に踏みいれた愚か者よ。王の怒りに触れる前に。王に見つかる前に」
男は戸惑いながら、困惑しながらなんとか立ち上がり、弓も剣も手に持たない私を見ながら後ずさる。
「王は血の匂いに敏感だ。早く逃げ出せ。……逃げ出せるかはわからぬが」
青い顔をさらに青くさせ、男は遮二無二走り出した。振り返ることなく、ただ生きて帰ることだけを考えて。怪物であるダーゲンヘルム王から、矢を射かける鹿面の怪物から逃げるために。
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「よお、夜回りお疲れ」
「レオンも、朝からお疲れ」
夜明けとともに兵舎に戻ると早番らしいレオナルドに声を掛けられた。
「今日はどうだった。変わりはあったか?」
「ああ、一人隣国の馬鹿な男がいたよ。ラクスボルンの紋章の男。とりあえず右肩の関節を矢で壊して脅してそのまま逃げさせた」
「さすが”森の王”」
「笑わないでくれる?」
ずるり、と巨大な鹿の被り物を外す。近くの見回りをしていた仲間も半笑いだ。
ダーゲンヘルム王国は周知のとおり、他国からは怪物の住まう国として知られている。そのために他国から接近されることがほとんどない。もちろん攻め込んでくる馬鹿な国もあったため滅ぼしたこともあったが、基本的にはこの地域で決して触れてはならない国となっている。
そのダーゲンヘルムの怪物は数年前からリアリティを出すため、夜間森の中の見回りをする部隊魑魅魍魎隊を編成した。怪物は魑魅魍魎を連れ滅ぼしていく、という物語から、多少それらしいものがいたほうがそれらしいのでは、という陛下の思い付きである。ダーゲンヘルム王国を囲む森の中を巡回する部隊は皆一様に異形の格好をする。鬼を模したもの、熊を模したもの、植物を模したもの。明るいところで見ると完全に仮装に興じる者たちなのだが、怪物の噂のある夜の森の中、というシチュエーションも相まって出会う者の恐怖を煽る。結果的にこの部隊はある程度の成果を出している。
そして最高の成果を出した者に付けられる渾名が”森の王”だ。
さらに残念なことに私以外が”森の王”になったことがない。そのためもはや私の被る鹿の被り物が”森の王”と呼ばれつつある。
「馬は結構いい子だ。パニックにならなかったし逃げなかったからもらってきた。訓練もされてるからこっちで十分使えると思う」
最初はこのやり方はどうかと思っていた。
態と迷い込んだ者を怖がらせ、負傷させつつも恐怖を自国へ持って帰らせる。確かにダーゲンヘルムの怪物の話は現実味を帯びるが怪我をさせすぎるとそれこそ無駄に攻め込んでくる可能性だってあり得る。多少の怪我で収めつつ追い払い恐怖を植え付ける、というのは難しく思えた。しかしながら恐怖というのは意外と簡単なもので。それぞれの見た目だけで充分な効力を発揮しているようだった。
直接見せつける恐怖ではなく、それぞれの心や記憶の中で増幅させる恐怖。勝手に増幅させ怖がり伝播するというのならそれはもはや私たちの預かり知れぬところの話だ。
「アコニート、今からの予定は?」
「報告書書き終わったら兵舎で寝る。あと昼から訓練でて、あと新しい馬の様子を見るよ」
「了解。あと残念な知らせだ。今日の夜はよく晴れて月が明るいらしい」
その情報だけで思わず眉を顰めた。
うちのダーゲンヘルムの怪物は月の綺麗な夜に城を抜け出して彷徨う悪癖があるのだ。うっかりそれに気づいた日には寝ずに総員で大捜索だ。その悪癖を知りながら見逃してしまうことも多数。彼はやたらと人の目を盗んで遊びに行くのがうまい。私と初めて会ったときのように。
「了解。叩き起こされないことを祈ってる」
「ああ、お互い平和な夜を過ごせると良いな」
鹿の頭をロッカーに入れ数名の部下を連れて出ていくレオナルドを見送った。
「……妙なことが起きないと良いけど、本当に」
嫌な予感ばかりあたってしまうから嫌になる。
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結局私もレオナルドも平和な夜を送ることはできなかった。
「陛下がいない……!」
「A班は各部屋を洗え! B班は街を見て回れ! C班D班はそれぞれ東の森と西の森! 本人発見次第連絡員をよこせ! 解散!」
レオナルドの号令の下バタバタと、しかし街に眠る住民たちに気取られることなく、陛下の捜索が始まった。
「A班は私について来なさい。各階分担する。あと半分は庭を捜索すること」
前日に夜回りで気を遣われたか一番楽な城内の捜索を割り当てられた。正直王城内にいてくれるのが一番なのだが、王城内にいたことなど片手で数えるほどしかない。いつだって彼は外に行きたがるのだ。さらに言えば夜回りの魑魅魍魎部隊ができてからは余計夜の森の中に入りたがる。そんなに私たちは楽しそうに見えるのだろうか。
ランプを手に片端から扉を開けていく。呼びかけずとも扉を開けた時点で人の有無はわかる。
30分ほどで、結局王城内にいないことはわかり他の班からの連絡待ちとなった。どれだけ待つことになるだろうか、と長丁場を覚悟したところで西の森へ捜索に出たD班の連絡員が戻ってきた。
「早かったね。やっぱり森にいた?」
「あ、ああ、森にいた。皆兵舎に戻って休んでいいと」
戻っていいと伝えるわりにどこか歯切れが悪くちらちらと私を見る。
「で、なに。私に何かあるのか?」
「その、アコニートさんには来てほしいと、レオナルドさんが。ひとまずお二人とも2階の客間に向かうそうで」
「客間?」
なぜ客間なのかと当然の疑問を浮かべる。陛下が戻ってきたのなら私室に放り込めばいい。陛下に対して微塵の遠慮も持ち合わせていないレオナルドなら早番のせいもあり、機嫌がすこぶる悪い。通常なら私室に朝まで閉じ込めるだろう。
「それが、陛下が森で人を拾ってきたんです」
「人!? 何してるんだあの人!?」
前々から拾い癖があるという話はレオナルドから聞いていた。けれどそれが人であれば話は別だ。それも森の中にいたとあれば素性などきっと知れないだろう。そのうえ拾ってきた、ということは彼は単身でその人間に近づいたのだ。こんな恐ろしく馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。
「はぁ……君ももう戻っていいよ。明日も仕事だからしっかり寝なさい」
詳しい内容は把握していないらしい連絡員をひとまず兵舎へ帰し一人仕方なく客間へと向かう。
保護したのが自国民であれば私を呼ぶ必要はなくレオナルドだけで十分対応ができる。もし武装していたのならすぐ総員に対して情報の共有がなされるし、すぐに捕らえるなど指示も明瞭にできる。しかし今回伝えられたのは誰かを拾ってきたこと、客間に向かうこと、対応するのは私であるということくらいだ。
私が呼ばれるということは現在危機的状況はないが何らかの武力行使を必要とする展開になりかねないということだろうか。明確に判断できないからこそ、情報の共有に縛りを加え、対応するのは私とレオナルドと陛下、つまり最高責任者と文官兼武官、武官の三人だけにしたいのだ。
ただ待つだけに耐え切れず廊下を含め一帯を人払いする。真夜中でさして人はいないが目撃者は少ないに越したことはない。
一階まで降りようとしたところで二人分の足音を聞いた。
「陛下御無事で……!」
「おお、アコニート。とりあえず部屋へ運ぶ。医者も間もなく来るからお前は一着服を用意してもらえるか」
「服?」
薄暗い廊下でよく見えないが陛下が何かを抱えているのはわかった。どうやら気を失っているらしい。道理で足音が二つ分だ。サイズからして子供だろう。ただ陛下に抱えられたままなど不敬だろうと思い手を伸ばすと、陛下はあっさりと腕の中の者を私に渡した。
子供かと思っていたが、それは思っていたよりも重く、手足も長い。
顔を見れば薄汚れた娘であった。
「……は?」
「落ち着け、アコニート落ち着け。とりあえずお前のすることは医者が来るまでにそれを洗って清潔な状態にすることだ」
「陛下っ、なんでこんなものを……!」
「アコニート何も考えるな。考えても無駄だ」
だらりと垂れ下がる腕は細くくすんでいる。私が呼ばれたのは武力行使が必要だからではなく同性だからだったらしい。
なぜよりにもよって陛下が直々にこんな娘を拾ってくるのか、理解しがたかった。
「アコニート」
「はっ」
「お前の仕事はなんだ。さっきレオナルドが言ったな?」
ぐう、と喉の奥が音を立てる。業腹。甚だ遺憾だ。しかし陛下が聞いたのなら応えなければならない。
「医者が来るまでにこれを洗って清潔な状態にすること、です」
「そういうことだ、あまり唸るな。説明が聞きたければ後で答えてやる。今はお前の仕事をしろ」
「…………はっ」
これだからこの人はいけない。どうすれば他人が言うことを聞くか、何から何まで把握しきっている。
口から垂れ流れそうになる不平不満をなんとか飲み込み、私は薄汚い不審な娘を客間に運び、タオルと湯の準備の算段を立てた。
なぜ、この娘なのだろうか。自分の興味でしか動かない陛下が拾ってくるほどの何かをこの娘が持っているというのか。
私には何の特徴もないただの娘に見えていた。