伯爵令嬢は良き狩人でいたかった 2
王都の北側に位置する巨大な建物。庭の木々は美しく手入れされ、数多の硝子は太陽の光を反射させる。意匠の凝らされたこの建物はこの国でもっとも大きな図書館、ダーゲンヘルム王立図書館であった。
本は好きだったが行くのはもっぱら書店。プロスパシア領には図書館というものがなかったため、図書館というもの自体にあまりなじみがない。ただ話には聞いていた。物語という物語が蒐集され、無数の世界が書庫には収められていると。
重い扉を押し開けるとふわりと紙とインクのにおいがして思わずほっとする。書店や家の書庫と変わらないにおいだ。人の気配はするが館内は静まり返っていて、ブーツが音を立てないよう慎重に足を踏み入れた。
本棚にはずらりと本たちが詰められていて、きっと一生かかってもここのすべての本を読み切ることはできないのだろうと嘆息する。数多の物語を知るには、人生は短すぎる。ふらりふらりと館内を進むと自分の膝ほどまでしか背丈のない少女が大きな本をもって歩いているところであった。不安定に歩きながらあちこちに視線を飛ばし行ったり来たり。表情はじわじわと曇っていく。素通りもできず私は足を止めた。思えば王都に来てからこんな小さな子供と出会うことが一度もなかった。領にいたころは子供たち遊ぶことが多かったが今ではめっきりだ。
「お嬢ちゃん、迷子?」
しゃがみ込み目線をあわせればびくりと身体を震わせる。怯えさせてしまったか、と思うけれどこれ以外に声のかけようがわからなかった。少なくとも自領の子供たちはどの子も肝が据わっていて怯えられるという経験自体が不足している。
「おいで、司書さんのいるカウンターまで連れて行ってあげるから」
するとおずおずと、彼女は私に腕を伸ばした。抱っこして連れていけ、ということだろう。怯えているのか肝が据わっているのかわからない。思わず笑いをかみ殺した。ひょいと少女を絵本ごと持ち上げる。淡い色の髪が揺れて、子供独特の甘い匂いが鼻先をかすめる。
「ここにはよく来るの?」
「うん。スーはお兄ちゃんと来てたの。でもお兄ちゃんが勝手にいなくなっちゃったの」
間違いなく勝手にいなくなったのはスーというこの少女なのだろうが、彼女は勝手にいなくなった兄にご立腹だ。子供とは大抵身勝手なもので、迷子と来れば大抵自覚がない。きっと迷子かと私に呼びかけられたのも業腹なのだろう。
よく来ているのならカウンターにいた司書が知っている可能性が高い。それに司書のいるカウンターは唯一の出入り口の前。スーの兄も彼女を探しているのならきっとカウンターへ聞きに来るだろう。
「すいません、この子迷子みたいで」
「ああ、スーヴニール。お兄さんならもういるわよ」
こちらに目を向けた若い司書は慣れた様子で近くのソファに座っていた兄らしき人を呼びに行った。
スーは床に降りると持っていた絵本を私に押し付けた。
「借りないの?」
「それもう読み終わったからいい。お姉ちゃん読んでいいよ」
自由だ。ただ我が儘のベクトルが田舎の子たちと違う。スマートだ。半ば呆れ、半ば感心しながら絵本を受け取った。
ぺこぺこと頭を下げ礼を言う兄とまるでそんなものは見えていないと言わんばかりにご機嫌なスーはぶんぶんと手を振りながら図書館を後にした。
「連れ来てくれてありがとう。スーヴニールは何度もここに来てるんだけど、壊滅的なまでに方向音痴で、館内ですら一人だと迷子になっちゃうのよ」
「これだけ広ければ仕方がないんじゃない?」
なんともまあ難儀なことだ。ただきっともう少し大きくなって背が伸びれば見える景色は変わるだろう。そうすれば少なくともこの図書館の中で迷子になることはなくなるはずだ。
スーに渡された絵本を見やる。本屋でも見覚えのない青い空と雲、一面の雪原そして一羽の鳥が描かれていた。
「『天境のナイチンゲール』」
「え、」
「その絵本のタイトルよ。あの子それが好きで何度も借りていってるの。今回はあなたに渡したみたいだけど」
別に彼女は元の本棚に戻せなくて私に押し付けたわけではなく、私にも好きな本を読んでほしくて渡したようだった。タイトル通りなら、この鳥の絵はナイチンゲールなのだろう。
「どんな話なの?」
「墓守の青年に拾われた少女が、青年の死後、その死を受け入れるまでの話よ。それをナイチンゲールがある霊に語って聞かせるの」
思った以上に重いストーリーに表紙を凝視してしまう。絵本の題材としては重すぎるし、まして幼い少女が愛読するにはいささか不似合いだ。
「その話自体は大人向けの童話よ。でもナイチンゲールや少女の語り口が歌のようだから気に入ってるみたい」
「へえ……」
ぱらぱらと捲る。全体的には青や灰色の絵具を使った絵はどこか空や海を彷彿とさせた。
「気になるなら借りていって。もともとは大人向けだし、絵本だからそう文字数もなくて読みやすいわ。ここ初めて? じゃあカードも作っちゃうわね、名前は?」
てきぱきと話を進めていく司書にあれよあれよと図書館の利用カードを作らされてしまった。手の中のカードには「アコニート・プロスパシア」と丸い可愛い字で書かれている。
こんなもの作られてしまったら通うしかないじゃないか。
「せっかく王都に住んでるならここに来なきゃ損よ。国内最大規模の図書館、王の愛した物語の宝箱。絵本だって大衆小説だって哲学書だって歴史書だって、ここにはなんだってあるわ。働いてばかりじゃ疲れるもの、たまには来てみて頂戴アコニート」
「ありがとう、アイリーン、さん」
胸の名札に書かれた名前にあいさつをして、手をひらひらと振られながら図書館を後にするとまるで毒気を抜かれた気分だった。少し立ち寄っただけなのに私の手の中には一冊の本と図書館利用カードがある。少なくともこれを返すためにここへ来なくてはならない。
図書館に行きたくないわけではない。ただ鍛錬できるはずの時間を読書などの趣味に使うことに罪悪感がわいてしまうのだ。本が好きで、物語が好きで、同じくらい鍛えるのが好きだった。でも王都に来てからというもの鍛錬に追われてばかりでほとんど本も読めていなかった。固い表紙と紙の質感はどこか懐かしく心地よかった。
好きなものを好きなままでいるために王都へ来たのに、気が付いたらその好きなものを手放そうとしていた。
好きなものを手放すことが大人になるということなのかもしれないが、それはきっと、私が望んだ大人ではなかったはずだ。
図書館で会った司書を思い返す。私よりも年上の女性。本の話をすることは楽しそうで、いっそ押しが強すぎるくらいに図書館を勧めてくる。きっとあの人は、自分の好きなことを仕事としているのだろう。図書館に人が来ることが、本を読む人がいるのが嬉しくてしょうがないというような笑顔だった。
ふと彼女の言葉を思い返す。
アイリーンはどうして私が働いている人間だと分かったのだろう。私の年齢ではまだ学生でもおかしくない。少なくとも街では子供のように扱われた。それに彼女は私が王都に住んでいると言い当てた。けれどこの王都の図書館では観光に来る人間だっているはずだ。それなのに彼女はなんの疑いもなく王都に住む人間だと確信していた。
なぜほとんど私は話していないのにそんなにも伝わってしまったのかという疑問が膨れる。しかしそれは気分の悪いものではなく、どこかわくわくするように胸が鳴っていた。
キリリとした顔で剣を背負った犬のストラップ、青い空と白い雪原の鳥の絵本。私の好きなものを二つ持って、私はまた歩き出した。
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兵舎に帰ってから、夕方になって陛下からの呼び出しがかかった。レナルドが先に話を通してくれていたらしかった。多少緊張しながら部屋に入るとリラックスしたような顔の陛下がいた。陛下としての演じている顔ではなく彼個人の顔だ。初めて会ったときのファルの顔に近い。
「ああ、知っていた。すまなかったな、利用して」
意を決してまとまらないながら私の考えを話すとあっさりと陛下はそう返した。
「し、知ってたって」
「アコニート、お前の為人は初日に見た。お前に加虐性はない。あの場で宰相の首を落としたのは私が中途半端に奴を刺したからだろう。息も絶え絶えの動物を、狩人のお前が看過するわけがない。だからあの時とどめを刺したのだろうとあたりはついていた」
剣が下手ですまんな、と軽い口調で言われ、無意識のうちに入っていた全身の緊張が抜けていった。結局何もかも彼は把握していたんじゃないか。しかも寸分の狂いもなく。私ならそうすると踏んで、そのうえであの場にいた貴族たちに見せつけ勘違いさせたのだ。
「冷血な猟犬がいる、逆らおうものなら忠実な部下が屠りに行く、と思わせたくてな。特に訂正すら入れなかった」
「そういうことで……」
完全に利用されていた、余すことなく。
あの日の陛下の行動のほとんどがパフォーマンスだった。
態と衆目の前で苛烈なまでに弾劾した。自らの手で処刑を行い、その場に立つすべての人間に対し語り掛けた。自らがそこに立つことを鮮烈に焼き付けるために。
あの日の涙も、怒号も、笑みも、すべては演技だ。
「まあそういう使い方ができるならそれはそれで都合がよかったがな。残虐性というものは使い様だ。最小の手数で恐怖での支配ができる。それをするに堪えうるメンタルがあるなら冷血な恐怖の象徴として使えた。だが情があるのもお前の良いところだ。命を狩る者として正しい在り方は清々しい」
きっと、あれで終わりではないのだろう。必要があるとなれば彼は何度だって見せしめに人を殺す。怯えさせ情報を吐かせる。暴虐と恐怖を持って、この愛すべき国のために悪意を振るうだろう。
「アコニート。お前は私が選んだ剣だ。強く高潔な狩人。民を思いやり、努力を惜しまず、消えゆく命にすら憐れみを抱く私の騎士」
夕日の赤を閉じ込めたような相貌が私の姿を映していた。ざわざわと胸が落ち着かず、けれど目が逸らせなかった。
「お前はお前のままでいい、アコニート。その姿が正しいのだ。私はお前をお前らしくいられるように使おう」
陛下は満足げに笑った。優しく、慈しむように。幼さの残る顔で笑った。
「お前の望みを叶えよう。好きなことを選べ、すべてを許そう。そうして私の傍らで尽くせ」
『騎士になって、好きなことを選ぶ私が存在することを許されたい』
『誰からも認められるほど、私は望む私になりたい』
初めて会った日、私が語ったみっともないほど身勝手な望みを、陛下は覚えていた。
その言葉がどれほど私にとって甘いものなのか理解しているのか。いやきっと理解しているのだろう。わかったうえで話すのだ。
誰も彼も、すべては彼の掌の上。
「……誠心誠意、尽くさせていただきます」
逃げることもできない私たちは、甘言の中の毒を知りつつ、とらわれるしかないのだ。