伯爵令嬢は良き狩人でいたかった
宰相が処刑されてからというもの、ダーゲンヘルムは大きな転換期を迎えていた。制度の抜本的改革、人事の再編、労働調査に始まる各種調査とそれに基づく改革、識字率の向上並びに文化保護の風潮の芽生え。何もかもがうまくいっているということはないが、それでもこの国が新しい姿を迎えようとしているのは私にもよくわかった。
そして私の周囲も変わりつつあった。
「来い、アコニート」
そう呼ぶのは本来なら会うことも難しい陛下、その人であった。
あの一件以来陛下に私は気に入られたようで、レオナルドと同様に陛下の行く先々へついて回ったり、単身での命令を受けることが増えた。
笑う陛下は初めて会った日とあまり変わらない。けれどその顔が本質でないことくらい十分にわかっていた。
なぜ気に入られたのか、わかっている。
通いなれた兵舎近くの食堂でステーキを頼む。今はとにかく肉を食べなくてはならない気がした。運ばれてきたステーキにナイフを突き立てる。ミディアムレアの切れ目から肉汁があふれる。ふんだんに使われた胡椒と塩の香りに唾を飲み込んだ。雑に切り分け、口の中に詰め込み噛み締める。
「おーおー、昼間っから豪勢だな。おばちゃん、キャベツスープとマッシュポテト頂戴!」
あいよ! という威勢のいい返事を聞きながら噛み切りづらい肉を飲み込んだ。
「レオン、野菜ばっかじゃ午後の訓練で力でないわよ」
「戦闘民族は言うことが違うな」
レオナルドの茶化しにむっとする。戦闘民族ではない、どちらといえば狩猟民族だ。フォークにステーキを突き刺し、ソースをたっぷりつけてまた放り込む。
「最近の仕事はどうだ?」
「どうもこうも、ほとんどあんたと一緒でしょうよ。知っての通り、訓練して、国境警備に出て、陛下のお供をする。これと言って変わったこともきついこともないよ」
「嘘つけ。死にそうな顔しやがって」
そう言うと私の前にあったステーキの皿をさっと取り上げ、運ばれてきたキャベツのスープを私の前にドンと置いた。
「……なにすんの」
「しんどい時に肉食うな。もうちょっと胃腸に優しいもんにしろ。メンタルきついときは肉食いたいと思うけど無理して食うな」
余計なことをするな、と思いながらも漂ってくる優しい香りと口元まで近づけられるスプーンに負けて口を開けた。
「どうだ、うまいだろ」
「……おいしい」
薄味のスープが妙に温かくてレオナルドからスプーンを奪って食べ進める。ステーキを食べ始めたレオナルドには何も言わない。次に運ばれてきたマッシュポテトも優しい味がしてなんだか眠たくなった気がした。
「しんどいならしんどいって言え」
「しんどくない。私にできる仕事量と内容をもらってる」
「”猟犬”って呼ばれてんの、知ってるだろ」
思わず手が止まった。
”猟犬”そう呼ばれているのは知っていた。戯言交じりに仲間内で声を掛けられたこともある。
あの宰相の弾劾以来、私を見る目は大きく変わった。
陛下の忠実な猟犬。
あの場にいた貴族や官僚も含め、おおむね私の評価はそれだった。
「陛下の言うことならなんでも聞く。無表情で粛々と命を刈り取るって」
あの王宮の一室にはレオナルドもいた。
私の隣で顔を白くさせ、心底恐ろしいものを見るような目で、陛下のことを凝視していた。
逃げ出す宰相を誰よりも早く無力化させ、死にぞこないの首を落とした私は、あの日から怪物の手下かのように扱われている。
人の心がない。
憐憫を持たない。
暴力の塊。
「そんなわけないのになあ」
私の顔も見ず、レオナルドは肉を頬張った。
「お前は動物だって獲って生活してきた。命の大切さはよくわかってる。狩りをするときに、獲物を絞めるときに大切なことも知ってる」
あまりにも、無残だと思ったのだ。
もう死ぬしかなく、誰からも救われることないのに。苦しみながらただ命の灯が消えるまで激痛にその身を苛まれながら耐え続けるなんて。
あまりにも哀れだと思ったのだ。
だから宰相の傍に歩み寄り、その苦痛を終わらせた。
憎しみから殺してやろうと思ったわけでも、見るに堪えない悍ましさから殺してやろうと思ったわけでも、陛下の力を見せつけるために殺したわけでもない。
私がただ、哀れに思って、その命を絶ったのだ。
だが周囲はそう思わなかった。
陛下の態度が、口ぶりがそう思わせなかった。
彼はあくまで忠実な力ある部下として私を扱った。馬鹿なことを考えた愚者の末路を、その手段を見せつけたのだ。
あの日王宮で見ていた者はさぞ私のことが恐ろしいだろう。殺す必要があれば、私が何一つ余計なことを話すことなく、命乞いなど聞く耳ももたず始末するのだろうと。
「あの場で一番優しくて、苦しかったのはお前だもんな。人殺しといて平気なわけないもんな」
近くにいた客がぎょっとするように離れるのを視界の端でとらえた。
ぐう、と胃がせり上がってくるような感覚と喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……誰かがやってあげるべきだった」
「ああ、俺がやってもよかった。でも俺は陛下ばっか見ててそこまで気が回らなかった。ごめんな」
なんて答えたらいいかわからず俯いた。
誰かがやらなくてはならなかった。やるべきだった。それに一番に気づいたのが自分だった。それだけの話だ。少なくともレオナルドが謝ることではなかった。生き物の死に一番近いのが、私だった。それだけなのだから。たとえそれが人だとしても。
あれから深く眠れなくなった。夢に出てくるなんてことはない。けれどあの感触が、手から消えてくれないのだ。あの研ぎ澄まされたような胸の感覚が消えないのだ。刃が皮膚を割く感触、肉を挽く感覚、骨を断つ重み、そして苦しまぬように落としてやらねばというある種機械的なシンとした心。そのどれもが今も鮮明によみがえるのだ。いくら剣を振っても、どれだけ苦しい訓練を行っても、忘れることが拭い去ることができない。
「しんどいなら言え。このままだとお前は冷血で残酷なやつとして仕事を当然のように回される。お前は確かに武芸の天才だ。でもそれは殺しの才じゃない。ただ殺すのみに向いてない。使い様は他にいくらだってある。ここで精神的に摩耗して使い捨てられる前に使われ方を示せ。あの人は無理強いさせることは決してない」
「それは、」
無理強いしないということは使えない奴と思われるということでは。予期したのか、掬ったマッシュポテトを口にねじ込まれる。
「適材適所だ。そもそも残虐さが要求されるってのが仕事としておかしいんだよ。それはあの人のただの趣味だ。部下が性癖に付き合ってやる理由はない。それ抜きにしてもお前は優秀だよ」
ガシガシと雑に頭を撫でられ、喉の奥から変な音が出た。
どうにもこの昔馴染みは私のことを甘やかしすぎる。私の精神が弱いことは私の責任だというのに、なぜかそれでいいと言われる。
「顔上げろ、スープがしょっぱくなる」
「黙って……」
「もうお前午後休みな。そんなぐちゃぐちゃの顔した奴と訓練に戻れない。隊長には俺から言っておくからお前はもう兵舎帰って寝ろ。ゆっくり寝ろ。そんで明日も休み」
「いや、二日も休みなんて、」
「お前が一日二日休んだ程度で腕が鈍ると思う奴はいねえよ。俺も休む。遠乗り行くぞ。弁当持ってピクニックだ。人のいない自然の多いとこ」
野山駆け回るの好きだろ、と言われてしまえば、もう反骨心なんてすっかり萎んでしまった。
「陛下にも俺から伝えておく」
「……それは良い。私から言う」
「……言えるか?」
ぐ、と出そうになるうめき声をマッシュポテトとともに飲み込む。
さすがにこれ以上おんぶにだっこされるわけにはいかなかった。私のできないことをレオナルドに伝えさせるのはあまりにもみっともない。それくらいは自分で伝えたかった。
自分の無能さを言いに行くのはあまりにも辛いが、苦しいのは事実だ。そう思われるのも、陛下から身の丈に合わない期待を負わされるのも限界だった。
ただレオナルドから言われるというのは私のなけなしのプライドが許さなかった。
以前とは違う。レオナルドと同じように私は奏上できるくらいには陛下の傍にいる。
「言える。言う。自分の使い方くらい、自分で伝えたい」
私は残虐な戦士ではない。
私はただの狩人だ。
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突然半休となってしまい、半ば呆然としながら街をぶらぶらと歩いていた。
レオナルドからは寝ろと言われていたが、日の高いうちから寝る罪悪感をどうにもできなかった。思えば王都に来て数か月。一日目以来こうしてあてもなく街を歩くことがなかった。いい意味で必死だったのだ。置いていかれないよう、必要とされるよう。
街の中は一日目と変わらず賑やかで、どこも人の声で溢れていた。ふとある一軒の店の前で足を止める。そこは陛下、ファルと初めて出会った場所だった。件の店舗は既に別の店になっていてインテリアや小物の置かれた洒落た店が賑わっていた。この街はきっと移り変わりが激しいのだろう。店頭を覗いていると掌に乗るくらいの犬の置物を見つけた。丸くなって寝ているもの、荷物を背負ってすまし顔をしているもの、警戒し吠えているものなどバリエーションが豊かだ。
「お嬢さん、その犬気に入った?」
つい凝視してしまっていたようで店員に声を掛けられる。その気安さに思わず慄く。ここに来てから正直あまりこのような子ども扱いされるような、普通の娘扱いされることがなかったため、挙動不審になってしまう。
「可愛いでしょう? それ作った作家さん動物が好きでね、妙に人間臭い置物とか食器を作ってるのよ」
ほら、と他の棚からどんどん商品を出して並べ立てる。尻尾を丸めた犬、鍋で寝る猫、口から笹を出すパンダ、毛刈りされて悲壮感漂うアルパカ。
「ん、ふふっ……」
「若い女性に人気なんですよ。事務職のお姉さんは机の上にキリンやシマウマを並べてサバンナにしてるって言ってました」
なるほど仕事中にこれがいれば癒されそうだ。ただ机に向かうことのない私にはかなわないが。ちょうど客が少なくなる時間なのか、店員は私にかかりきりで説明をする。
「あとこれ置物だけじゃなくて小さめのストラップもあるんですよ。鞄とかポーチにつけたりもできますし」
あれやこれやと見せられ私の前には動物園ができつつあった。わらわらとまとまりのない動物たちだが、どれもどことなく締まりのない顔をしている。
「……じゃあこの子ください。このストラップの」
「ありがとうございます! 一つ買っちゃうともっと次の子欲しくなるのでまたどうぞ!」
にこにこと笑顔を振りまく店員に見送られながら、私は一匹の犬を掌に載せていた。