伯爵令嬢は物語の終わりを見た 2
「それで私と話したい、というのは」
正直な話、私にとってはもうこの娘と関わる理由はほとんどないと言っていい。
当初の彼女に対する警戒心や疑心は今やない。既に彼女の母国は滅びの一途をたどっており、王家は全滅、諸悪の根源たるカンナは既にダーゲンヘルム王国の監視下に置かれ北の果てへ送った。もうすでにこの件はすべて片付いているのだ。もう彼女がこの国でどのように過ごそうとも、私の知ったことではない。
「まずこちらです」
そう言って彼女が私に差し出したのは見覚えのある犬のストラップだった。思わず腰のポーチに手をやる。いつかつけていたはずの犬がいなくなっていることに気づいたが、森の中で落としたものと諦めていたものだ。
「どこでこれを、」
「以前雪の日に転びそうになったところを助けていただきましたよね。その時に私のカバンの中に入ってしまったようで……。あれからずっと忙しそうにされていて、返すタイミングがなかったんです」
返せてよかったです、という彼女からストラップを受け取る。なんだか失くす以前よりも心なしか情けない顔になってる気がした。
「すまない、ありがとう。もう戻ってこないものと諦めていた」
「いえ、そのストラップもアコニートさんのところへ帰れて喜んでいると思います」
にこにことしている彼女に他意はなさそうに見える。けれど彼女の用がこれだけのはずがない。もしストラップだけなら誰かに、それこそアイリーンにでも預ければいい。にも拘わらずわざわざ私に直接に会いに来た。それだけの理由が彼女にはあるのだろう。
「…………、」
「……すみません。ちょっと何から話したらいいのかわからなくて」
気まずい沈黙を破ったのは店員で、運ばれてきた紅茶に口をつける。どうにも口下手で嫌になる。アイリーンやレオナルドならこうはならないだろうに。そしておそらく彼女自身もそうなのだろう。自分が主導して話すことが少ないタイプだ。むしろここまで私を勢いのまま連れてくるのにすべての力を使い切ってしまったようにも思える。
「お聞きしたいことがあったんです」
「なに?」
「……カンナさんの様子は、いかがでしたか?」
なるほど、と合点がいく。道理でネーヴェから帰ってきた私を直接捕まえに来るわけだ。よく見れば色白な肌の上に薄くはない隈が鎮座していた。別れ際にはいっそ清々しく笑って見せたというのに、その実随分と心配していたようだった。
「落ち着いていたよ。何の抵抗もしようとせず、粛々と、馬車の中でネーヴェにつくのを待っていた」
「そう、ですか」
彼女は少し考えるようにテーブルの上の指先を絡ませた。
「君はカンナがどんな様子だと思っていたんだ。怒ったり、泣いたり、嘆いたりしていたと?」
「え、いえ、きっと今のカンナさんなら激しく怒ったりわめいたりすることはないと思っていました。私がラクスボルンを追い出されて、カンナさんが牢から出るまで、その間はまるで悪い夢か何かのように思えてしまうのです」
「それは、」
お優しいことで、という言葉は寸でのところで飲み込んだ。けれどその思いは顔に出ていたらしく、慌ててシルフが弁解でもするように手を振る。
「も、もちろん! 彼女が私やラクスボルンの皆さまにしたことが信じられないとか、彼女の意思ではなかったなどとは思っていません。……けれど、その期間のカンナさんは、別人のように思えてしまうんです。それこそ、カンナさん自身も知らず知らずのうちに操られていたんじゃないかってくらいに」
確かに、ラクスボルンのあの惨劇の時や、牢での様子と比べると昨日のカンナの様子はもはや別人であった。怯えていたから、諦めていたからこその借りてきた猫のような態度だと思っていた。
「私の知るかつてのカンナさんなら、きっと騒いだりしないと思います。……諦念のように」
「もう少しストレートに聞くと良い。様子がどうだかより知りたいことがあるんじゃないのか」
びくりと肩が跳ねる。視線は泳ぎ、言葉を選ぶように唇が震える。ひどくわかりやすい。
「本当に、カンナ・コピエーネが生きたまま解放されたのか、だろう」
観念したように、シルフは目を伏せた。
「……はい、お聞きしたかったのはそのことです。本当にあの子は解放されたのですか? 私のまるで児戯のような賭け事を、陛下はお守りになられたのですか?」
陛下を疑う言葉だと、普段であれば苛立っていることだ。だが今回はことがこと。自分自身、約束が反故されることは想定していた。
震える指先を見つめる。
きっとシルフ・ビーベルは私がカンナ・コピエーネを殺したのだと思っているのだろう。そのための人選だと。彼女がどういった私の噂を聞いているかわからないが、独り歩きしているかつての忠犬の話を聞いているなら、カンナ・コピエーネの死を信じ込むのも無理はない。
「陛下は、約束は約束だとおっしゃっていた。私は護送の任を受けたがそのうちに彼女の処刑は含まれていない。私は彼女に傷一つつけず、北の村へと送り届けた」
伏せられていた目が見開かれる。
驚き、そして歓喜の色だ。
「カンナ・コピエーネもそのまま私に殺されると思っていたらしい。死を覚悟していたから大人しかったのかもしれない。彼女は村人の家に迎え入れられ、そこで村民として暮らしてもらう。罪人であるということも、ラクスボルン出身だということも伝えられてない。ただの街から来たカンナという娘として、彼女は村へと入った」
「そう、そうなんですね。……ああ、」
よかった、と吐息混じりに彼女は呟いた。噛み締めるように、祈るように。
「ありがとう、ございました。あの子を生かしてくれていて」
「陛下からの命令だ。私が礼を受けるのはお門違いだろう。礼ならあの人に言ってくれ」
感極まったように涙を滲ませるシルフ・ビーベルに戸惑う。礼を言われるようなことはしていない。ただ命令があったからというそれだけなのだから。それこそ命令が出ていたなら私は嬉々としてあの危険因子を処断している。
けれど私には、かの加害者のために彼女が涙を流す理由がまるでわからなかった。
「君は、これでよかったのか」
「ええ、これでよかったんです」
間髪入れずに答える彼女に寸分の迷いもない。
「……なぜ、自分を陥れたような者をそこまでして庇う、いや庇える。君にとって、彼女は君からすべてを奪い去った人間だろう。仇だろう」
彼女は何もかもを、カンナ・コピエーネのせいで失ったのだ。
彼女にも家族がいただろう。友人がいただろう。大切な場所があっただろう。愛してやまないものがあっただろう。その何もかもを失った。自分に一切の非がない状態で。
なのにどうしてそんな者のために生が願える。涙を流して喜ぶことができる。
「カンナさんは、私とよく似ています。声や見た目は全く違っても、見据える先が違ったとしても、悲しいくらいに、私たちはよく似てたんです」
シルフ・ビーベルはカンナ・コピエーネと似ていると言った。
かたや陥れられた公爵令嬢。
かたや陥れた男爵令嬢。
自分が死ぬことも致し方なしとする公爵令嬢と死にたくないと叫ぶ男爵令嬢。
些細な幸福を望んでいた公爵令嬢と貪欲に求めすぎた男爵令嬢。
いったいどこが似ていると言えるだろう。
「彼女は私を悪役令嬢と呼びました。私が悪役令嬢だったから、陥れ、排除しようとしました。本当は身分も、婚約者も、立場も、本当は興味なんてまるでなかったのに。悪役令嬢、というキャラクターがどういったものか、それは判然としませんが、していることは彼女の方がきっと悪役令嬢らしいでしょう」
”悪役令嬢”それはカンナ・コピエーネがしきりに言っていた言葉だ。すべてはシルフ・ビーベルが悪役令嬢だからだと。まるでそれがこの世で最も重要で、確実な事項であるかのように。
本当は何にも興味がなかったのだと彼女は話す。それはきっと彼女とカンナの間でしか交わされなかっただろう言葉の欠片。
「……微塵の興味もなかったのに、君からすべてを奪い、何もかも騙すような大博打を打ったのか?」
「ええ、興味もなく、情もなく、彼女は天真爛漫に何もかもを奪い去りました。それしか選択肢がなかったみたいに。誰よりも自由に傍若無人に振る舞うカンナさんは、その実、ずっと不自由だったんだと思うんです」
「不自由? あれほど好き勝手に動いてか?」
「ええ、柵に雁字搦めになりながら、彼女はそうするしかなかったんです」
それは、
「それは、君が”悪役令嬢”だったから、か」
「ご名答、です。少なくとも彼女にとってはそれだけが答えで、悪役を倒すことだけが唯一の正しい道だったのでしょう」
「そんな馬鹿な話があるか」
「この世は不思議で溢れてるんですよ、アコニートさん。もし本当に彼女にその選択肢しかなくて、必死の思いで縋りながら、友人であったはずの私を陥れた。そうして回り回って自分が今度は牢屋の中に入れられてしまったなら、それはどれだけ悲しいことでしょう」
また自分の指先に視線を落とした。
「それはどれだけ寂しくて苦しいことでしょう。悪役を倒すために頑張ってきたのに、それがすべて間違いだったと気付かされてしまう絶望はどれほどのものでしょう。……自身こそが悪役だったと知ってしまった彼女は、どんな思いだったのでしょう」
もうシルフは私の返事を求めていなかった。ただ自分に問いかけるように、再度心を呼び起こすように、彼女は呟いた。
毎日毎日、シルフは牢の前に椅子をおいて、カンナ・コピエーネの話を聞き続けた。丸一年かけて彼女と話し続けた。それはきっと物語を聞くだけではなかったのだろう。
シルフはどうして自身がこんな目に遭わされたのかを知らず、カンナもまたどうして自身がこんな目に遭わされたのかを知らなかった。
ただ生きていただけなのにどうして、裏切られ、国に捨てられなくてはならないのか。
正しいことをしていたはずなのにどうして、自分が断罪されなければならないのか。
罪など、なかっただろうに。
あれが罪だったというなら、自分がしてきたこととは一体何だったのだろうか。
間違いだったというのなら、どうして自分は友を陥れなければならなかったのか。




