伯爵令嬢は悪役令嬢の物語に触れる 4
あれほどの惨劇が起きても、ダーゲンヘルムはいつも通り穏やかだった。花の盛りでどこもかしこも彩りに溢れ、人々の顔はどこか明るい。待ちに待った春だ。蕾は綻び、動物たちは目覚め、木々には果実が実る。雪は解け、仄かに暖かい風が包み込むように轟と吹く。
国民は誰も知らない。
隣の国が自国のために滅び行く事実を。数多の首が刎ねられた惨劇を。
小さな怪物が自国へと連れ帰られたことを。
怪物の少女は王城の小さな地下牢に捕らえられていた。ただただそこで生きている。自傷はなく、出された食事は残すことなく平らげている。そして少女の牢の前には小さな木の椅子が一脚置かれていた。
処刑されると思われた傾国の少女、カンナ・コピエーネは今も牢の中で生きることを許されている。それを決めたのは悪役令嬢と呼ばれた少女、シルフ・ビーベル。彼女は陛下に対しある提案をした。
「毎日1話。365日物語を語り続けることができれば、生きて牢から出す、ねえ」
随分と酔狂なことだ。
シルフ・ビーベルにとって、カンナ・コピエーネは諸悪の根源だ。カンナ・コピエーネさえいなければ彼女は今も平和に安泰に、ラクスボルンの王太子妃として生きていただろう。持っていたものすべて奪い取った人間に対する措置にしては随分と甘い。
ただ不思議なことに、いや不可解なことにシルフ・ビーベルもまた、カンナ・コピエーネに対して怒ったりしてはいなかった。恨んですらも、いなかった。
いくら捨てられた先であるこの国が彼女にとって良い国だったとしても、果たして許せるものなのだろうか。
目の前の薄汚れた少女は、私の独り言に反応することなく、ただ座っていた。
一瞥くれることもない。見張りの騎士に話を聞いたところ、彼女はシルフ・ビーベルと陛下以外とは会話もしようとしないらしい。
「君は、生きてここを出て、それからどうするつもりだ。その先に何かあるとは思えないが」
「…………」
相変わらず、視線をくれることもなく、全身で私のことを拒絶していた。
私は陛下の命令でカンナ・コピエーネに接触していた。彼は彼女のことをシルフに一任していたが、それはそれ。別のアプローチで何か出てくれば御の字といった具合で私やレオナルドを彼女のもとへ送り込んでいる。
けれど彼女は私たちになんの興味もないようで、いまだ何かリアクションを得たことはない。
私の立場は、彼女の深い部分に立ち入れるところにない。彼女のことを責め立てる立場になく、その心に寄り添う立場にもない。完全な赤の他人だ。興味がないのも頷ける。であれば私はそれらに触れずに彼女の内側を探らなければならない。
「ラクスボルンの君はなぜ、王太子妃になろうとした。いや、なれるかもしれないと思った。金で買った貴族の身分で、既に王子には婚約者もいたというのに」
「…………」
彼女は何も話さない。
「王太子妃になって、君は何を望んだ。金か、地位か、社会的立場か。男爵家の令嬢では足りなかったか」
「…………」
彼女は何も話さない。
「なぜ、シルフ・ビーベルを”悪役令嬢”と呼んだ」
耳慣れない、変わった言葉だ。物語の中のキャラクターの役名。
カンナ・コピエーネは、初めて顔を上げた。
くすんだ肌に、傷んだ栗毛の髪。けれどその相貌は死んでいなかった。絶望に染まることなく、今も生気を失ってはいなかった。
「……シルフ・ビーベルが、悪役令嬢だからよ」
さも当然だと言うように少女は嗤う。否、私には理解されないだろうという自嘲でもあった。
会話にはなっていないはずだ。だが彼女は支離滅裂なことを言っている様子はなかった。きわめて理知的で、質問を理解した上で、返答していた。
シルフ・ビーベルは悪役令嬢と呼ばれたから悪役令嬢になったわけではなく、悪役令嬢だから悪役令嬢と呼んだ、という主張だ。
けれどシルフ・ビーベルには”悪役”などと冠される行動や態度をとっていない。どちらかといえばいい意味でも悪い意味でも他人に興味がない。”悪”と呼ばれる行為にもきっと興味はないだろう。
「……彼女が”悪役令嬢”だから、君は彼女のことを恨んでいないのか」
何気ない確認であった。”悪役令嬢”だからこそ、盛大な復讐をされたり、自分の身が脅かされるのは当然だと思っているのか、と。
「は……?」
けれど彼女は虚を突かれた顔をした。
そうしてようやく気付く。カンナ・コピエーネはシルフ・ビーベルのことを恨んでないという事実を今の今まで知らなかったのだ。
焦燥、戸惑いに、視線は落ち着きなく動き回る。口は何か言おうとしては震えて閉じた。
ダーゲンヘルムに来てから初めて見る表情だ。
そもそも恨まれるべきはシルフ・ビーベルではない。諸悪の根源はカンナ・コピエーネなのだから。だが普通は責任転嫁するだろう。少なくともラクスボルン王国はダーゲンヘルム王国に滅ぼされ、その火蓋を落としたのはシルフ・ビーベルなのだから。
しかし彼女はシルフ・ビーベルのことを恨んでいない。
「シルフ・ビーベルが悪役令嬢だから、君は彼女を嵌めて追放した。そうだね?」
「……ええ、そうよ。あの子が悪役令嬢だったから」
「そう自分に言い聞かせているのか」
仮面がボロボロと崩れだす。
カンナ・コピエーネ。男爵令嬢であり、王子の婚約者にまで上り詰め、そして国を滅ぼされた娘。
何もかもを騙し切り、一人の少女を国外追放にまで追い込んだ、大胆不敵な悪女。
笑えばいいだろう。愚かな公爵令嬢だと。
恨めばいいだろう。自分の計画を邪魔した憎い奴だと。
なのにどうして「言い聞かせなければ」いけないのだろう。
シルフ・ビーベルが悪役令嬢であるから陥れたのは当然だという顔をしながら、なぜそれを自分自身で疑っているのか。
「言い聞かせなければ、間違いを認めることになるからか」
それはついと出た言葉だった。
けれどカンナ・コピエーネは目を見開いた。驚愕、戸惑い、怒り、苛立ち、悲しみ、疑念。
その顔を見て当たりを引き抜いたのだと察しがついた。
具体的なことについて私は何もつかめていない。あくまでも所感だけで話をしている。そのためカンナ・コピエーネの中の”間違い”がなんなのか私にはわからない。
「私はっ、間違ってない……!」
カンナ・コピエーネはそう言い聞かせた。
「間違っていないことを証明するために、死にたくないと願ったのか」
「うるさい! あんたに何がわかるの、名前もない端役のくせに!」
明確な私に対する怒りだった。初めて見せる激情に嘆息する。なるほど正解を踏み抜いたらしい。事実であればあるほど、この少女は怒る。的外れであればこの少女はすっかり無視してしまうだろうから。
「では端役の名前を教えよう。私はアコニート・プロスパシア。森の王で、騎士団唯一の女騎士。君にとってはページの端にいるだけの端役かもしれないが、私は今生きてここにいる。今君の眼前にいる。君の知る世界だけがこの世界じゃない。誰かの人生から見たら、君とて名も顔も知らぬ端役なのだから」
怒る少女の顔から瞬の間に熱が消えて、返答を間違えたことを悟る。何がいけなかったのかわからないが、的外れなことを言ってしまったらしい。
これ以上は何も聞けないだろう。感情を揺さぶっただけでも良しとしよう。
「この世界は君のための物語じゃない」
「……一人一人が主人公、だとでも言うの? 笑っちゃうわ」
「名前のないキャラクターはいない。君の周りの数人だけが世界じゃない」
劇的な生活だっただろう。
男爵令嬢から成り上がり、王子の婚約者というこの上ない地位を手に入れた。
自分の重ねてきた嘘がすべて暴かれ、持っていた何もかもを奪われた。
それこそさながらお伽噺の主人公のように。
けれどその周辺の人間もまた、物語を紡いでいたはずだ。
つい先日、そのすべてが打ち切りになったわけだが。
「この世界は物語ではない。少なくとも、君はこの世の主人公ではない」
当然のことだ。この世のすべてがただ一人のために存在していることなどありえない。
だが彼女は怒った。何も言わず、烈火のごとく燃え上がる怒りを私にぶつけた。
「お前に何がわかる」
燃えるように揺らいだ金の目は私を射抜いた。
薄暗い牢の中座り込む少女を、私は見下ろしているはずだった。
にもかかわらず、どうしてこんなにも鳥肌が立つのだろう。
少女はそれきり、私に口を利くことはなかった。
あの一瞬だけ、私はきっとあの凡庸の皮を被った怪物の本質に触れたのだろう。
カンナ・コピエーネは決して幼稚ではない。夢物語を幼心のまま追いかけるようなわけでなく、自己愛に溢れ自己中心的な思考に脳を占められているわけでもない。
だからこそその認知が異様だった。なぜ自身こそがこの世の主人公などという荒唐無稽な認識を抱いたのだろう。他の側面と比べてバランスが悪かった。
その異様な認識から今回のように悲劇のヒロインを演じ、周囲を騙し切ったのだろうか。
ただ、誰かこの少女を止めてくれる者はいなかったのかと思わずにはいられない。
誰にも話さず、自分の妄想をこの世の真理だとでも言うように、邁進した彼女に、本心から話すことのできる人間はいなかったのだろうか。
きっと誰より人に囲まれていただろう。ラクスボルンでの話を聞いた限りでは、彼女は人から好かれ、信頼を勝ち取っているはずだった。
けれど、自身を正してくれる人間はいなかった。自身の考えを率直に話すことができなかった。
それは結局のところ、どこまでも孤独だったのだろう。
どれだけ友人がいようとも、どれほどの言葉を交わそうとも、役の仮面をかぶっている限り、カンナ・コピエーネは一人きりだったのだろうか。
黙りこくった少女に背を向け、執務室で待つ陛下の下へと向かう。
もうかの男爵令嬢との面談は不要だと伝えるために。




