伯爵令嬢は特別になりたかった 2
口から出たと思った言葉はただ唇を動かすだけで、なんの音にもならず口の中に溶けていった。
言いたいことはいくらでもあった。質問も、文句も、詰る言葉も。でもそのどれもが相応しくないこと、そんな言葉を吐きかける立場にいないことくらい、理解していた。
結局口から何一つとして言葉は出ず、ただじっと顔を見ることしかできなかった。
「あ、あのご気分が悪いんですか……?」
恐る恐ると尋ねる彼女は不安げで、そこに一切の害意も敵意もない。当然だ、シルフ・ビーベルにとってはこれが初対面なのだから。
細身で身体は薄い。私が片手で軽く叩いただけで折れてしまいそうだ。
「はいはいはい! シルフ、それはいいわ。私が連れて帰るから」
「アイリーンさん! お友達だったんですね」
「ええ、ほらアコニート。いつまでも呆けてないでいい加減帰る準備なさい。今日は呑むわよ」
シルフはカーテン閉めてきて、と指示されるまま、軽やかな足音が遠ざかるのを聞いていた。
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「あんた本当に顔酷いわよ。私が見た中で今まで一番」
フォークでレタスを突き刺すアイリーンに何と返したらいいかわからずスープの中で沈むレンズ豆を睨みつけた。
王都に来てしばらく、否前宰相の傀儡政治が終焉を迎えた後辺りから、私はこの王立図書館に通っていた。本に囲まれるとやはり心が落ち着いた。そして初めて来た日あれよあれよという間に渡された絵本を通して私は司書であるアイリーンとポツリポツリと何でもない雑談をするようになった。彼女曰く野良犬が少しずつ懐いていくようだった、と。
私はそうおしゃべりに興じるタイプではないし、彼女も仕事中であることからあまり話すことはない。けれどアイリーンはなにも話さなくても顔を見るだけで私がどんな気分かは顔を見ればわかると言っていた。仏頂面にもバリエーションがあるのだと。
そして今私はきっと暗澹たる顔つきをしているのだろう。
多少浮上していた気分は最後の最後で突き落とされた。
「プロスパシアに、帰るかもしれない……」
「ちょっとなにいきなり!? クビにでもなったの!? なにやらかしたのよ!」
「クビになったわけじゃない」
いっそクビになった方がいいのかもしれない。そうすれば少なくとも迷うことや悩むことはない。
一応話を聞いてもらおうと思って図書館に来たがよくよく思い返せばとんでもなくみっともないことを彼女に吐露しようとしているのではないかとハッとする。
うっかり上司に惚れ込んでしまって今後業務に支障や私情が出てしまう前に、自領に帰った方が良いのかもしれない。これを自分で説明するなどこんな羞恥他にあるだろうか
それも私が、だ。
他の町娘の相談事ならともかく今まで馬に跨り剣を振るっていた私が、栄誉ある王国騎士である私がこんなみっともないこと、どの口を持って相談などできるだろう。
「……ねえ、私ってアイリーンから見てどんな人間に見えてる?」
脈絡のない質問にアイリーンは眉を顰めた。しかし少しだけ考えてから私をフォークで指しながらいう。
「愛想とか忖度とは無縁な女騎士。好きなことや得意なことには絶対的な自信があって、人の意見なんて振り払って走り出す狩猟民族。いつだって全力で手抜きなんてしない」
そう見えてるだろう、そう見せたかった私だ。
迷ったりしない。憧れに向かって一心不乱に走り続ける。誰にも縛られない。人の価値観なんて気にしない。
私は誰の枠にも収まらない私でありたかった。
「でも意外と繊細なところがあって傷つきやすいけど頑張り屋。意地っ張りでプライドの高い甘え下手。人を頼るのも苦手」
「え、」
「可愛いものも好きだし、子供も好き。誰も何も気にしてない風に振舞うけど、本当は気にしてて、選択してるだけ。押しに弱くてちょっと騙されやすい、お人よし」
口に運ぼうとしていたニンジンがスプーンから再び皿に戻っていった。
いったい誰のことを話しているのか疑いたくなるような評価だ。少なくとも前半と後半ではほとんど別人と言っていい。
お人よしだなんて生まれてこの方言われたこともない。
「最初は本当に絵にかいたような生真面目で遊びのない騎士だと思ってたわ。女性で騎士になるくらいだもの。きっとストイックで無口で人を寄せ付けない、そんな強い子ってね」
困惑する私をよそにアイリーンはどこかおかしそうだった。
「でも私が本を勧めると毎回律儀に感想を私に伝えに来るし、私が話しかけてこないときは「どうして話しかけてくれないのか」ってそわそわするんだもの。無口だけど話すのが苦手なわけでも私のことが嫌いなわけでもないってわかったわ」
彼女のこの話し方が好きだった。
ゆるゆると胸の中に入っていく温かみが擽ったいけれどひどく安心できて。つい目を逸らしてしまうがそれすらも彼女にはきっと予想通りだろう。
「アイリーンは、がっかりしなかった?」
「がっかり? どうして?」
その言葉にはたとする。
「だって……思ってた人間じゃなかったって、落胆したりしないの?」
「別にしないわよ。第一印象とそのあとが違うだなんてよくある話でしょう?」
「そう、だけど」
「アコニート。誰かに何か言われたのね。しかもあなたにとっては一笑に付せない人に」
急に真面目な顔になった彼女に図星を衝かれてひどく尻の座りが悪い。
私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
自分ですら把握できない感情も。
身の程をわきまえない嫉妬も。
指針としてきた揺るがない憧憬も。
忌避してきた凡庸さも。
けれど何より、落胆したようなレオナルドの顔が頭から離れなかった。
「……あの顔は、落胆だった。私に、がっかりして、軽蔑してた」
「それは理不尽ね。勝手に期待して勝手にがっかりするなんて」
「期待?」
期待、という言葉はあまりしっくりこなかった。
レオナルドが私に期待する、なんてことはない気がする。少なくとも私はいつだって彼を困らせていたし、子供のころからずっと彼にとっては手のかかる妹のように思われていたはずだ。
だから期待なんてものとは無縁のはずだ。
「期待よ。あなたはこういう人間に違いない、って思い込んで、そこに期待するの。こうするに違いない、こうしてくれるに違いない。アコニートなら、誰にも負けないに違いない、前だけを向いているに違いない、他の人とは違うに違いないってね」
「あ、」
『もうお前は昔とは違う。わかるんじゃないのか、普通の女の幸せとやらが』
レオナルドは私に「普通の人とは違う私」を期待していたのだ。
「こうありたいって願うあなたの憧れに、一緒に憧れてたのよその人は。だからショックを受けた。もっとあなたのことをよく見ればどんな子かくらいわかるのに」
誰よりも強い伯爵令嬢だった。
自由に森を駆ける狩人だった。
憧れのまま飛び出せるような行動力のある人間だった。
柵も常識も切り伏せていけるような勇者だった。
知らない土地へ一人で行けるような天真爛漫な娘だった。
生真面目で忠実な騎士だった。
誰にも引けを取らない森の王だった。
だからまさか私が恋するだなんて思わなかった。
普通の女の子みたいな感情を持つと思わなかった。
可憐な令嬢に嫉妬するだなんて思わなかった。
だからレオナルドは落胆した。衝撃を受けた。
「馬鹿な人だなあ」
きっと彼にとって私はいつまでたっても、普通じゃないお転婆が過ぎる伯爵令嬢だったに違いない。
「誰だっていろんな顔を持ってるわよ。二面性なんて言葉じゃ足りないくらいに。生真面目な人だって雑になってしまうような場面もあるし、礼儀正しい人だって仲の良い人の前ではそうじゃないだろうし、軽薄な人だって他の人の前では丁寧に振舞ってみせる。どれが偽物でも嘘でもない。全部あわせて本物よ」
私は真面目で忠義心に溢れる騎士だった。でもそれだけの人間ではない。強くても泣くことはあるし、辛いときもある。厳しいときもあれば甘いときもある。どれかが嘘なわけじゃない。ただ周りからよく見えなかった、それだけなんだ。
「……なんかすっきりしたけどすごい腹が立ってきた。勝手に期待して落胆するとか何? あいつが私のことちゃんと見えてなかったってだけだよね」
「少なくとも怒っていいことじゃない?落胆の挙句自領に帰れとでも言われたんでしょ」
完全に見透かされている。全部言わなくてもある程度伝わってるのは相談するのが苦手な私にはありがたい。
怒りがわいてくると同時にあまりなかった食欲も戻ってくる。レンズ豆のスープだけで夕食が足りるはずがない。肉を摂取したい。
しかし問題は今一つ片付いただけだ。とりあえずレオナルドからの暴言は彼が悪いということで折り合いをつけつつ後日殴りに行く。自領へも帰らない。だが残りはさらに話しづらい。
「言いたいこととか聞きたいことがあるなら言っちゃいなさい。どうせあなた機会がなければいつまでも一人でずるずる考えて体調崩すまで放っておくんだから。もうあなたが死にそうになりながら図書館に来るのを仕事中に見たくないわ。気が気じゃない」
「返す言葉もない……」
いつも悩み事があったりしんどかったりするとつい図書館へ行ってしまう。現実を忘れられるだとか悩み事にとらわれずに済むということもあるが、いつも気が付いてアイリーンが話を聞きに来てくれるというのもある。彼女の優しさや洞察力に甘えてしまっているが、図書館に来てしまうのはほとんど無意識なのだ。
「……アイリーンは、恋したことある?」
「んっふ、」
さっと顔を逸らされるが明確に笑われた。もっとスマートな相談の仕方もあっただろうにそういったスキルが壊滅的なせいで幼稚な問いかけしかできない自分を恨む。肩を震わすアイリーンをにらみながらも、笑われるのも相談料だと思いながら彼女の笑いの波が収まるのを待った。
一通り声も出さず笑っていたアイリーンがようやくこちらを向いた時には若干涙目であった。
「あーごめんなさいね、可愛くってつい。ふふ、あるわよ」
いまだ笑いが尾を引いている彼女を見ながら解せない気分になる。私はあんなにも自身の感情に振り回されたというのに、それを話すアイリーンには緊張も苦しさもないように見えた。
「それは、いいものだったの?」
「ものによるわよ。でも大抵終わってしまえばいい思い出になるわ」
答えをもらってもどうにも腑に落ちなかった。
姉たちはどうだっただろう。恋などする間もなくきっと結婚しただろう。家のために、家族のために。自領とこの王都では文化も生活も違う。アイリーンは未婚だ。自領であればアイリーンの年齢で結婚していないというのは考えられないが、王都では違う。都市全体の風潮として、男女問わず街に出て働いている人が多いし、爵位もない庶民であれば婚約や結婚なんて考えなくていいことも珍しくない。どこまでいっても私とは馴染みのない感情だった。
「じゃあどうやったらそれは終わるの?」
「やだ、なんでもう終わらせる気なのよ。あなたは若いし可愛いし魅力的じゃない」
「私が恋してるらしい相手が私の主人でも?」
ぴたりと言葉が止まる。私の言う主人が誰なのか知らない仲ではない。騎士団なら仲間と表現するし、明確な上下関係は薄い。騎士の使える主人など、この国に一人しかいない。
少しだけ視線が彷徨う彼女に対し、思った以上に平静を保てていて我ながら驚く。それはきっとアイリーンの話を聞いたからだ。どんな感情を抱いていても、今までのすべてが嘘になるわけでも、私が何か駆らなければならないわけでもない。私の憧れがなくなるわけでも、追い続けた理想が朽ちるわけでもない。ただそこに感情がある、それだけだ。
「……”ダーゲンヘルムの怪物”の隣に私は立てない。あの人は誰から見ても特別。対した私はどこまでも凡庸。いくら少数派でも、変わった人間でも、あの人ほど特別にはなれないわ。私にはあの人がわからないし、あの人もきっと私たちを理解しない」
私はそれを悲しく思うし、悔しく思う。けれど手を伸ばすには、口にするにはあまりにも隔絶していた。
凡庸な私では、特別な彼の心を動かすことはできない。
なら私にできることは彼の望むまま、私の理想のまま生きることだけだ。
隣に立てないなら、せめて彼の持つ絵本の一冊のように。
夢物語の中を駆ける、気高く高貴な狩人、諦念を踏みつける者、勇猛果敢な女騎士として。




