伯爵令嬢は特別になりたかった
王城の敷地にある小さな塔。もともと書庫として使われていた塔だ。だが今はそこに一人の娘が住んでいる。
王家の血筋でもなく、この国の貴族でも、王城内で働いているわけでもない娘。
シルフ・ビーベル。シルフと名乗った娘は隣国のラクスボルン王国に捨てられた公爵令嬢であった。
その娘というのは随分と変わり者で、ほんの数日前まで王族の血を引く公爵家の者だったとは到底思えない様子であった。
陛下は変わり者の彼女のことを大層気に入り、王城の塔へと住まわせたのだ。
「アコニート、その顔をやめろ」
森の見回りの帰り道、小川で馬に水を飲ませつつ休憩をしていたところ、レオナルドから苦言が飛んできた。
他に誰もいない森の中、私とレオナルドがそろえば話に上がるのはかの不審人物になるのは自然なことだった。
「私はもともとこんな顔さ」
「不機嫌ですって顔を全面に押し出すのをやめろと言ってるんだ。周りが気を使う。まさか誰かに機嫌を取ってもらわないとニュートラルでいられないなんて、そんな駄々っ子のようなことは言わないだろ」
そう言いながら、森で見つけたという木苺を口に押し付けてくるレオナルドに更に顔を歪ませた。
他人に機嫌を取らせるなと言っておいて私を宥め賺そうという態度が気に入らない。木苺を食べて機嫌を直しても木苺を拒否しても結局駄々っ子じゃないか。仕方なく手ずから口の中に木苺を迎え入れた。自生しているものでやはり酸っぱくどことなく渋い。
「……むしろなんでレオンはそんなケロッとしてる。なぜ陛下第一のあんたが不審者が陛下のそばにいるのを許してる」
不審者、そう不審者だ。
陛下からの命の元、経緯をある程度知っている者たちで森の中に捨てられていた娘について調べ尽くした。
ダーゲンヘルム王国から見て西側に位置するラクスボルン王国。その国の公爵家ビーベル家の第二子にして長女、シルフ・ビーベル。幼い頃から英才教育を受け、数年前にはラクスボルン王国の王子、ミハイル・ラクスボルンとの結婚が決まっていた未来の后だった。
それが一転したのは数か月前。未来の后は悋気に駆られ乱心した。王子と仲のよかった男爵令嬢カンナ・コピエーネを殺しかけたのだ。人気のない階段で男爵令嬢を突き飛ばし、殺そうとした。しかし男爵令嬢は一命をとりとめ怪我をするにとどまった。だがそれによりシルフ・ビーベルの凶行は世間の知るところとなった。
結果シルフ・ビーベルは王子との婚約を破棄され、国外追放となった。
ラクスボルン王国から、怪物の住まう国、ダーゲンヘルムへの。
こんな、こんな馬鹿馬鹿しいことにこの国の防衛線とも言える恐怖の物語が利用される日が来るなど、いったいこの国の誰が予想しただろうか。恐怖といえど、ただの物語だ。人の心に刻むだけのおとぎ話だ。それをよもや罰として国家が利用するなどと、誰が考えつくだろう。
しかも実質の扱いとしては死罪なのだと。
怯えるラクスボルン王国兵を吐かせてみれば、嫉妬深く罪深い娘は、すでにダーゲンヘルムの怪物に食べられてしまった。入れておいた檻は壊され、肉の一片も落ちていなかった、と。
「あまりにも怪しすぎる! いくら恐怖を流布してるとはいえその実の有無すら知らないのになんで“怪物に食べられた”なんて雑な結論を下せる!」
「怪しい、怪しいさ。俺ですらあっちの国の奴らは気狂いか阿呆だと思うよ。本当は餓死させるつもりだった、っていうのもあり得るけどな。ただ普通なら肝心の罪人がいないとなれば逃げ出したと思うのがまともな人間の考え方だ」
通常ならそうだ。にもかかわらず、なぜか“公爵令嬢は怪物に食われた”というお伽話がまるで覆ることのない事実のように扱われている。
「まるでお伽話だろう。誰も彼もがまともな思考回路を失い、それをさも当然のように受け入れる。魔法や呪いがあって当然のように。閉鎖的な街に流布する外の世界への恐怖と嫌悪のように。ラクスボルン自体が物語の舞台で、そこに生きる人間が物語の住人みたいだ」
思わずまた苦虫を噛みしめる。
何を考えてるかわかってしまうのだ。レオナルドが何を考えているか、陛下が何を思っているか。すべてを理解できなくても私達はわかってしまう。
「シルフ・ビーベルは物語から出てきた悪役みたいだろう」
笑うレオナルドの言葉もわかりきっていた。
私達は生まれも育ちもダーゲンヘルム。物語と現実を縒り合わせたような国の住人なのだ。
今私達は皆、「シルフ・ビーベル」という悪役の物語を目の前にしているのだ。時間と私達の行動によりページをめくれば彼女の過去を知ることとなり、彼女の人となりや未来を知ることとなる。
「どう転んでも火種。彼女はこの国にとって癌になりかねない。物語は紙の上のもの、舞台の上のもの、声とともに紡がれる歌そのもの。キャラクターが意志を持って私達の世界に入り込むは危険でしょう」
「ああ、それも思考回路の読めないお伽話の住人だ。それも一癖も二癖もありそうな“悪役令嬢”ときた」
笑う、その笑顔には見覚えがありすぎる。陛下の傍にいすぎたレオナルドはだんだん陛下に似てきていた。
「この上なく面白そうだろう?」
「レオン!」
「怒るなよアコニート。お前だってわかるだろう。陛下があの子を拾ってきた時点で俺たちはもはや諦めるしかない。陛下の好奇心も関心も止まらないし止められない。物語から弾き出されたキャラクターに興味津々。取り上げるなんてしたら俺達の首が吹き飛ぶぞ」
「吹き飛んだりしないよ」
冷や飯食わされるかもしれないけど、と続けた言葉はしぼんでいく。
事実取り上げるのは難しい。物理的には難しくないがきっとその後は大変なことになる。もはや彼女は陛下の私物。それを勝手に捨てたとあらば逆鱗に触れるのは必至。説得、もほぼ不可能だろう。あの好奇心の塊から関心をそらすのは至難の技だ。
「だいたい、お前も少し過敏になってないか? 普段ならもっと楽観的だろ。陛下なら大丈夫って。あの子自身どうとでもなるのは身体を見たお前が一番わかってるだろ」
細く華奢な身体。筋肉なんてほとんどない、白い肌に細い指先。傷といえばほんの数日の間についたらしい軽微な擦過傷。あんな観賞用の人形のような娘では陛下の命を奪うどころか、傷一つつけることは叶わないだろう。
「まさか妬いてるのか?」
揶揄うような口調で木苺を口の中に放り込むレオナルドを見て、なぜか殴られたような気持ちになった。
なぜか、どうしてか。わからなかった。
わからなくても、想像がついてしまった。何もわからないと恍けるほど私は子供でもなかった。けれど開き直れるほど私は大人ではなかった。
次々と浮かび上がる感情と思考に息が浅くなる。私のこの感情は、気泡のように浮かんでは消えていくそれは、どんな名前をしているのか。
「お前、陛下に惚れてるのか?」
顔を歪め、私にそう言い放った昔馴染みの言葉はまったく無防備であった私の心の中に突如として転がり込んできた。
私が陛下に惚れている、と。
彼の人に恋をしていたのか。
私のこの感情は”恋”というものだったのか。
知ってしてしまった。自分の馬鹿馬鹿しい感情に。惚れた腫れたになんの価値がある。なんの役に立つ。
そんな凡庸なもの。
あまりの自身の凡庸さに、泣きたくなった。
「……アコニート」
「黙って、うるさい……」
「馬鹿みたいなこと言い出すなよ? お前はそういうのが向いてない、嫌だと思ってプロスパシア領から出てきたんだろ? 姉たちのように嫁いでいくのが嫌だって、ただ結婚して子供を生み育てるだけの人生が嫌だって、それで今お前はここにいるんだろう?」
まくしたてるようなレオナルドの言葉が次々と突き刺さる。私自身の為人を知って、経緯を知っているからこそ、それは私自身からの言葉に等しかった。どれもこれもわかっている。自覚している。なのに笑い飛ばすこともできなかった。
「……アコニート。もう自領へ帰れ」
「…………帰らない。私はここで、」
「もうお前は昔とは違う。わかるんじゃないのか、普通の女の幸せとやらが」
「違うっ私は、」
喉が乾く、舌がしびれる、鼻の奥がツンとした。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「あの人に惚れたところで何にもならない。得るものなんて何もない。陛下はお前を理解できない」
「もういいからっ!」
顔を上げることすらできない。歩きなれた獣道をじっと見る。けれど今レオナルドがどんな顔をしているか、想像ができてしまった。
「もう、いいから」
言われなくてもわかってる。何もかもわかってる。
何かを感じ取ったように愛馬が鼻を鳴らし私の方を見た。それを宥めることも撫でてやるだけの余裕もなかった。
何にもならない、何も産まない。
私が陛下を理解できないように、きっと陛下は私を理解しない。
あの人はそういう人だ。
これがもし、恋だと言うなら。
それはあまりにも不毛だった。
剣を振るい、馬で駆け、矢を番え、戦い守る。それだけでよかった。
跪き頭を垂れ、あの人の作るものを、見るものを傍で見て、助力する。
それだけで良かった。
けれど私はあの日向けられた屈託のない笑顔を今も胸に抱え続けていた。
「アコニート・プロスパシア。プロスパシア伯爵令嬢、巨猪殺しの娘、高貴な狩人、諦念を踏みつける者、勇猛果敢な女騎士になる者よ」
「王都はお前を歓迎しよう。この国のために振るう力、身勝手に貪欲に功を求める姿勢。期待しているぞ」
その言葉を大事に抱え続けてきた。
私は特別になれていた気がしたんだ。
私はずっとあの人の特別になりたかったんだ。
あまりの自身の凡庸さに、泣きたくなった。
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「まぁた魂の抜けた顔をしてるわね。ちょっとそこで本でも読みながら待ってなさい。あと2時間で閉館だからその後話聞いてあげる。本読む余裕がない? 本なんてあれば読むでしょ。あなたそれでもダーゲンヘルムの人間? 物語に没入する余裕がないなら辞書でも読んでなさい。読みだしたら時間なんてあっという間よ」
まだ何も言ってないというのに、王立図書館の司書はテキパキと私を椅子に座らせサイドテーブルにめぼしい本を積み上げ最後に辞書を私の膝の上へと置いた。そうしてそれだけ済むとさっさとカウンターの中へと引き上げもはや私のことなど忘れたように仕事に手を付け始めた。
とてつもなくドライだが、それだけに気が楽だった。相対的にウェットな気分な私には今彼女のその態度が救いだった。
ただぼうっとしてるわけにもいかず、本を手に取る。読み始めれば初めて見る作家ながら私好みの書き方で、司書という職の人間は人の好みに合わせて本を勧めることもできるのかと嘆息する。
するりするりと読み解き頭の中に入っていく感覚が心地よい。
森の中でも山の中でもないけれど、今この瞬間どこでもないどこか遠くへ行けた気分になるのだ。悩みも息苦しさからも解放されて物語を傍観する顔のない人間になる。その感覚はひどく居心地がいい。
馬に乗らなくても汽車に乗らずとも、ずっと遠くへ簡単に旅に出られる。文字の波に揺蕩い溺れていると、突然少し暗くなった。
「あの、申し訳ありませんが、もう閉館の時間になります」
「あぁ、もうそんな時間、」
自然に顔を上げた。もう二時間もたっていたのかと。あれだけ荒れていた情緒も落ち着きを既に取り戻していて、多少マシになった、と立ち上がろうとして、声をかけてきた人間を見上げた。
「残りの本はお借りになりますか?」
窓から差し込む西日に頬を染め、淡い色の髪を橙に濡らした少女がそこにいた。
「ラクスボルンの”悪役令嬢”」
私の憂いをその身に詰め込んだ、物語からはじき出された公爵令嬢がそこにいた。
この世は全く、ままならない。




