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目が覚めて幾星霜@気づけば魔神と呼ばれていた

 ――――それはずっとずっと昔のこと。人の歴史が滅ぶには十分すぎる時の昔。

 どこかの宇宙のどこかの星の地下、魔力溜まりと後に呼ばれる場所で物語は産声をあげた……


 

 その世界には不思議なエネルギーが満ち溢れていた。

 物理法則など知ったことではないと。そう、唾を吐きかけるような力だ。

 端的に言えば、願望機の如き力――の源。

 魔力と呼ばれたり、あるいは別の名で呼ばれるエネルギー。

 幾つかの特徴を持つ魔力だが、特定条件を満たすと引き合う性質を持つようになる。

 そうして他より遥かに濃い魔力が満ちる場が発生するのだが、濃すぎるとどうなるかはようとして知れない。

 これまた魔力は空間の広さに反比例して、一定量の濃さに達すると、どう言うわけか引き合う性質を失ってしまうためだ。

 濃度の限界かは不明であったが、その特性により特異点である魔力溜まりは、一種のイレギュラーながらも秩序を保っていた。


 ――だが、例外と言うのは往々にして存在するもので、この場合もそれは同じである。


 星の遥か地下、それこそ途方もない距離にその魔力溜まりは存在した。

 広さで言えば精々半径数十メートル程度。特殊環境下によって変質した岩盤に囲まれた牢獄。

 偶然一定濃度の魔力が満ち、性質によりその濃度はゆっくりと、だが確実に増していく。

 亀の如き歩みで増した濃度はやがて性質の解除に至るまでになり、本来であれば濃度の上昇は止まる筈だった。

 過去形。つまり、止まらなかったのだ。

 長年高濃度の魔力に晒され続けた岩肌は、特殊な変化を来たし、周囲の魔力を呼び寄せる誘蛾灯のような力を持つに至る。


 魔力そのものの性質は死んだが、今度は周囲の岩盤が遅々たる速度であるが、確実にその空間に魔力を引き込んでいった。

 法則を超越する力の源でありながら、法則に縛られたエネルギー。

 それが崩壊し、本来ならありえるはずのない濃度の魔力溜まりが密かに誕生。

 百年か、千年か、あるいはそれより長い時を掛けて――――遂に臨界点を迎えた。


 臨界点は限界点ではない。だが、次の現象へと至るきざはしではある。

 濃すぎる魔力は空間に影響を及ぼし、因果を歪め、真の意味での特異点を作り出す。

 質量、密度の無限大へと至ったのか。あるいは曲率の無限大へと到達するのか。

 それともどこぞの事象の地平(イベントホライゾン)のように、それらを孕むのか。

 はたまた、与り知らぬ別の解へとそれが至るのかは分からない。

 ただ一つ、厳格なる事実として口にするならば……


 ――――即ち。因果律の及ばない空間の誕生。


 それを迎えた瞬間。その場は原初の混沌へと到達した。

 因果律に縛られないがゆえに、無限の可能性を内包した空間。

 言わば初期世界。宇宙の原初、ビックバンへと至った爆発の前。

 まさに聖杯、まさに賢者の石。理解ある者が発見すれば、その素晴らしさに歓喜し感涙し、そして発狂するだろう。

 なんせ、秘められた可能性はまさしく無限の杯。宇宙創世すらあるいは可能とせしめる願望の渦。

 実際のところ、そこまでの効能は魔力量的に期待はできないし、それほどの量に至る前に世界が崩壊してしまうのがオチだ。

 それでも桁外れの可能性を孕んだ空間はしかし、ご都合主義にも似た可能性の先、あるいは必然の結果収束を見た。


 空間がまず力に耐え切れなかった。

 時空を歪め、因果を覆した空間は天文学的な確率の果てに“地球”に繋がる。

 二十一世紀の地球。日本と呼ばれる国の、どこにでもある一軒家、昼間にありながら惰眠を貪っていた一人の男性。

 そのちょうど真上。笑うしかない確率の果て、その場所に魔力溜まりは繋がり、さながらブラックホールの如き勢いで周囲を吸引しやがて消滅……

 一夜にして一軒家がクレーターに様変わり。謎の現象として暫く世間を騒がせることになったが、当事者であり、巻き込まれた彼にとっては最早些事であろう。

 ――――なんせ、寝ていたらいきなり死に直結する苦痛の中に放り投げられたのだから。










「あ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛ッ!?」


 意味が分からなかった。気づけば信じがたい痛苦が神経を侵し回っていた。

 きっと死んだ方がマシだと確信できる。それ程の痛覚、いいようのないおぞましさ。


「ぎぃ、ギィァアァアアア゛ア゛ァ゛あ゛ァア゛ぁ゛!!」


 己が何を口にしているのかも分からない。

 ただただ痛みだけが全身を苛み、気が狂いそうになる。

 エンドルフィンが膨大に放出されるが、どう言う訳か正常な効果を及ぼさない。

 麻痺することのない痛みが脳を焼き、狂ったように肉体が少しでも痛みから逃れようと暴れ回る。


「ひぃっ、ヒギ、あ゛ァあ゛あ゛……あ゛ギギギギギィ――」


 滅茶苦茶に、リミッターが外された筋力で振るわれた腕が踊り、近くの岩肌にぶつかる。

 人が素手で叩いたとは思えない、何か鈍い音が響き、鋭い部分が手の甲を裂き、限界の力は筋肉を崩壊させていく。

 それでも狂ったように暴れ続ける。腕が潰れる痛みも、頭を叩きつけ額が割れる痛みも、全身を狂おしい程に駆け巡る謎の痛みに比べればまさしく児戯。

 気絶できればどれだけ幸せだろうか。だがしかし、許容量を超えている筈の痛苦にも関わらず、いっこうに気絶することはできない。

 それどころかじわじわと痛みのレベルは増していく。

 極一般人と称して問題のない彼に、――いや、訓練を受けた工作員だろうと発狂もののソレを耐える精神など到底持ち合わせる筈もなく……

 

 遂に振るわれた腕が折れた。バキリッと、何かを砕く音、垂れ下がる腕。

 その数秒後、恐ろしい程の力と遠心力が加わった一撃が、ダイアにも匹敵する硬度を誇る周囲の壁に激突。

 グチャリ――と音を立て、ブチリッ――と音を立て、根元から引きちぎれる。

 鮮烈な赤がびゅっ、びゅっと傷口から噴出し、筋繊維と神経束、むき出しの骨の白が空間で踊り狂う。

 クルクルと滑稽な曲線を描き千切れ飛んだ腕が壁にぶつかり、真っ赤なペイントを咲かせる。

 奇怪なペイント。錆び鉄のような香りが狭い空間を蹂躙していく。破滅的な痛みにプラスして、どうしようもない嘔吐感が加わる。

 途端、何か圧力に耐えかねたかのように千切れた腕は掻き消え、暗闇の中へと消えていった。


「ぁ…ぅ……ぁ゛あ……」


 歩くたび鋭い岩肌が素足を食い破る。

 苛む痛みは煩いほどに脳を揺らし、失った血液の為か意識が朦朧としていく。

 最早その動きは滑稽なるからくり人形。

 横にふらふらと踊っては赤を撒き散らし、前後でワルツを決めれば深紅の痕跡が地面に咲く。 


 ――痛い。そう、痛い。痛いってなんだろうか。

 ――苦しい。そう、苦しい。地獄?

 ――どうして、自分がこんな目に。誰が?

 ――わからない。わからない……痛みだけが僕を苛んでいる。


「ぅぅ……あ゛……っ」


 ――バタリ。

 とうとう肉体が限界を迎えた。失血の果て、肌の色は死人のように。

 冷たくなっていく身体、霞む意識。それなのに身体をかき回されるような、麻酔なしで引き千切っては付け替えるような。

 そんな冒涜なまでの、そんなおぞましいまでの、痛みと感覚。それだけは治まらなくて。

 何かを考えることもできずに。何かを口にすることもできずに。

 坂道を転がるように。主人の旅を玄関で見守る犬のように。電気が落とされた水槽の魚の如く。


 ――気づく暇もなく、ようやくの、安寧の闇へと意識は転がり落ちた。


 さながらヒューズが飛ぶような、強制シャットダウンにも似たそれで……









「……ぁ?」


 悪夢を見ていたような気がする。

 信じられないような苦痛が僕を苛む夢だ。

 死んだ方がマシって苦痛、漫画やアニメ、小説だけの内容だって思ってた。

 でもそれは真実だったんだ。アレに比べれば、安らかなる死はきっと甘美なる知恵の実にも勝る。


「ははっ、そうだよな。あんなのが現実なわけ――――が……?」


 そこでようやく異常な事態に気づく。

 夢って痛みを感じたろうか?

 いいや。僕が知る限り例えそれが明晰夢であろうと、感覚系の大半は麻痺していた筈だ。

 じゃあ……じゃあ、だ。あの夢の、現実以上にリアルな痛みはなんだったのだろうか?

 一瞬思い出すだけで歯の根がガチガチと震え出す。

 脳が思い出すのを拒否している。明確に思い出してはいけない。

 きっと今度同じようなことを味わえば、それが夢であろうと、確実に人格崩壊を招く。

 それだけの確信があった。夢であったとしても、今こうして自分が僕として認識できている、それが凄まじく奇跡とさえ感じられるのだから。


 いいや、いいや。もしかしたら、僕は既にどこか壊れてしまっているのかもしれない。

 どうして今自分が“正常”だと言えるのだろうか。

 何が異常で何が正常か。本来曖昧なそれは、到底今の僕が変質してしまったのかの指標になり得はしない。

 いいや、いいや……正常とはつまるところ、一般大衆の平均化、あるいは理想の値を指す。

 結局のところ、正常とは世界がていよく回る為、人が生み出した幻想なんだ。

 そしてそれは、その他大勢が存在しない限りは無用なものである。


「どこ…なんだ、ここ」


 断じて僕が寝ていた部屋ではない。

 パイプベットとは言え、それなりの柔らかさであったソレ。

 でも今感じる感触は冷たくて、そしてゴツゴツしていて硬質的。

 

「まるで岩っていうか、大理石のような……」


 瞬間脳裏で微かに弾けるフラッシュバック。

 脳裏に煌く名状し難き光景。砂嵐のように欠けた映像群。


「ぅぅ……うぷっ……おえ゛ぇ゛ぇえぇ――」


 途端に凄まじい嘔吐感が襲い掛かり、四つんばいの格好で口を開けるが、出てくるのは唾液と胃酸ばかり。

 一応カップラーメンを食べていた筈なのに、その欠片も見当たりはしない。

 とんこつはダメだ。やっぱり塩味が一番だと僕は思う。

 味が濃すぎるのは飽き易い。その点塩はいい、さっぱりした風味でありながら、塩味が舌を刺激してくれる。

 え? 今はそんなこと考えている場合じゃないだろうって?

 ……うっせぇ。んなこと分かってるさ。これが現実逃避だってのは、僕が一番よく分かっているんだ。


「はは……ははは……誰か教えてくれよ。アレは夢なんだってさ……」


 暗闇に目が慣れてきた。

 相変わらず全てを見通す程ではないが、ぼんやりとだが周囲を把握するには十分。

 岩、岩、岩。どこか黒曜石を思わせる黒と艶を内包した岩の檻。

 それが今僕の居る場所の正体だった。

 夢であればどれだけ助かったことだろうか。

 でも、残念ながら、僕の感覚はこれが夢なんかじゃないってことを全力で訴えている。


「てことは、だ……ひひっ、え? なんだ、アレも夢じゃないって言うのか? じゃあ……じゃあ、だ。どうして、どうして僕は生きてるんだよ」


 再び脳裏を駆け巡る信じがたい光景。

 いや、おかしい。それはおかしい。


「なんで僕は、自分を俯瞰して思い出してるん……だ?」


 気持ち悪い。胃がむかむかする。

 もう吐き出すものなんて何もないのに、それでも嘔吐感はおさまらない。

 

「ははっ…はははは……あっはっはっはっはっ!」


 知らずのうちに狂ったように笑い声が響いていた。

 余裕なんてないのに、訳が分からなくて、気づけば笑い出している僕。

 もうこれ以上異常な事態なんか及びじゃないのに、認めたくない事実が僕に切っ先を突きつけてくる。


「なんだよ、なんなんだよっ! 僕は、ボクはこんな声をしてなんかいないぞッ!!」


 やけくそに、悲鳴交じりに吐き出した僕の声は、確かに恐怖と苛立ちに縁取られていた。

 それなのに耳に届くのは綺麗な高音領域。ソプラノとでも言えばいいんだろうか。

 認めたくないほどに美しい声。少女っぽさが色濃く香る、僕であって、僕じゃない声だっ!

 もう、訳が分からない。夢なら覚めてほしい……それなのに五感はリアルすぎて、理性がこれが夢なんかじゃないってひっきりなしに叫ぶ。

 もう異常なんていらない。声が変わったことも受け入れる、だから、だから……これ以上はイラナイんだッ!!


「どうしてっだよ……僕は男だろッ? なんで、なんで……胸があるんだよッ!! どうして記憶が曖昧なんだよぉッ!!」


 暗くて判別し難いなんて言い訳すら通用しない。

 大きくはないが、ないとは決して言えない男とは違う膨らみ。

 なだらかな丘陵の天辺に咲き誇るピンク色の突起。

 そしてどんなに考えても思い出せない名前、家族の姿、友人達。

 まるで虫食いにでもあったみたいだ。欠落した記憶に整合性が見えなくて、それが一層僕の不快感を増長させる。


「……ァ?」


 あまりの苛立ちに髪を掻き毟ろうとしたら、間抜けな声が出た。


「なん、だ…これ」


 震える声が止まらない、止められない。

 掻き毟ろうとした指に絡みついた異様に長い髪。

 前に触った絹とか、ビロードなんか及びもつかない異常なまでに心地のよい手触り。

 極細のそれは指にしっとり絡みつき、黄金を溶かして引き伸ばしたかのような輝きを放っている。


「……うっグゥッ」


 あまりの気持ち悪さに蹲りえずいてしまう。

 何度も。何度も。でも、出てくるの胃酸にしては透明度が高く、微妙に甘い香りのする液体だけだった。

 その事実が更に嘔吐感を煽り、再現のない循環を生み出す。

 量産される透明な液体。狭い空間を満たすほんのり甘味を帯びた匂い。




「はぁはぁ……」


 どれだけそうしていたのかは分からないけど、少なくとも最悪の精神状態は幾分回復したらしい。

 吐き気は治まり、少しだけ思考にも余裕が出てきた……と、思う。


「分かってる。分かってるって……コレがどうしようもなく無慈悲で、残酷で、はちゃめちゃで……それでも現実なんだッて!」


 理不尽に対する怒りに任せて黒々とした地面に握った拳を叩き付ける。

 ――バキャリ。

 不吉な音が僕の耳を冒す。

 “前”の体だったら、間違いなく僕は怪我をしていた。

 でも今の身体はそうじゃない。砕けたのは手ではなく地面。

 クレーターなんておおげさなものじゃないけど、欠けた部分にひび割れまで生じてる。

 人外の膂力。圧倒的耐久性能。それが手に取るように分かってしまう不気味さ。


「大学も後一年だったんだ……不景気だけど、就職先も内定してたし、単位もほとんどとってた。後は楽しい一年を過ごす、出来たら彼女でもなんてさ、そんな時だったんだ……」


 なのに、訳の分からない事態に遭遇して、死んでないのが不思議なくらいの痛みを味わって。

 挙句の果てには自分のじゃない身体に変わってしまってッ!

 

「くそぉおぉぉおおぉおッ!!」


 

 響き渡る絶叫。ちょっと冷静になったとか、余裕出てきたとか。

 全部全部偽りだ。嘘だ、虚偽だ。

 こんな異常な事態に遭遇して、はちゃめちゃなことを体験して、それで冷静になれるなんてありえない。

 もしそうなら、そいつはきっと一般人の皮を被ったナニかだ。

 そんなことをふと考えながら、限界を迎えた精神は意識を強制的に切断させた。








 懐かしい夢を見た。

 古い古い記憶である。

 まだ彼が小さかった頃の出来事、記憶。

 冬も間近の学校帰り。バケツをひっくり返したかのような土砂降りの雨。


「うえー……おれ傘もってきてないよ」

「ぼくももってきてないなー」

「おまえらばっかだなー! てんきよほうじゃ雨だって、言ってただろ!」

「うっせー。こんくらいなんともねーよ!」


 そう言って決意を込めて幼い頃の彼は学校の玄関から飛び出した。

 途端打ち付けるような雨が顔にぶつかり、思わず顔が引きつる。

 痛みを伴うほどの雨に、足が緩みそうになるが、友人達の前で啖呵を切った手前、それはどうにも格好が悪い。

 家まで走っても十分程は掛かる。冷たい雨と風は容赦なく体力を奪い、幾つかの信号を渡ったところで、とうとう足並みは歩きへと変わってしまう。


「……はぁはぁ」


 大量の水を吸い込み重たくなった衣服。

 走って生産した身体の熱が急速に奪われ、小さな身体の体温を蝕んでいく。

 こんなことなら傘を借りればよかったと思うが、それも後の祭り。

 倦怠感を感じつつも歩き続け、後は家まで一本道のところまで来た時だった。


 ――にーに……


 どこからかか細い声が耳に届いたような、そんな気がした。


「なきごえ?」


 ――にー……にー……


 気のせいなんかじゃない。

 先程よりなおか細いが、強い雨音に掻き消えそうであったが、確かに猫の鳴き声を聞いた。


「あれ、かな」


 本当は早く家に帰りたかったが、好奇心は勝手に足を動かし、電柱傍に置かれたダンボールへと向かっていく。

 雨水を含み、ふやけ、千切れたその中に、確かに声の主は居た。

 それは過去形。過ぎた時の後ろだ。

 

「……にーにー」


 なぜなら、ぐったりと倒れ付した一匹の猫はぴくりとも動かない。

 子供心に、それはもう動くことはないんだって理解できた。

 声の主は、そんな母猫の塗れた腹に震えながら身を寄せる一頭の子猫だった。

 他にも数匹いたが、全員最早物言わぬ骸と成り果てている。


「…………」


 声が出なかった。

 目に映る光景はとてもリアルで、今まさに命が消え去ろうという瞬間だと理解する。

 このままじゃ子猫もやがて動かないモノになると、彼は本能的に悟っていた。

 それでも足が動かない。前に捨て猫を持ち帰った時の母親の声が頭を過ぎる。

 無闇に慈悲を与えるのは決して善ではない。

 そしてなにより、拾うと言うことは、その命を一生を掛けて守ると言うことだ。

 幼い彼にはそれはいささか以上の重荷だろう。


「……にー……」


 とうとう震えがとまり、最後に一泣きすると、子猫は一度だけ振り返り、彼を見つめると同時に瞳を閉じた。

 一秒がたって、十秒がたって、それでも、その子猫がもう目を開けることはない。

 よくわからない感情が胸を満たす。どうしようもない、やり場のない怒りのようなものが全身を苛む。

 気づけば幼い彼よりずっとずっと小さく幼い子猫を抱きしめ、無我夢中で走り出していた。


 仕事で両親の居ない家。急いで鍵を開け、リビングのソファーに子猫を置き、幼い頭で必死に考える。

 暖房を付け、タオルで毛皮を拭き、毛布にくるむ。

 だがそれだけだった。それ以上なにをすればいいのか分からない。

 さっきまで見ていた動かない母猫と子猫達の姿がフラッシュバックする。

 

 ――三十分が経過した。

 ――一時間が経過した。

 

 部屋の中は三十度を越し、最早暑いくらいだ。

 子猫の毛も乾ききっている。それでも目は覚めない。

 なぜなら。あの時、目を閉じた時、子猫の命はもう尽きていたのだから。

 脈を図るとか、息をしているかとか、そんなこと頭にもなかった。


 その後彼は、最早目覚める筈のない子猫を、両親が帰ってくる間ひたすらに温め続けた。

 まるでそうすれば、そのうち目を開け、あの小さなにーにーと言う声を聞かせてくれると言わんばかりに。


 ――その夜。ベットの中ですすり泣く音が一晩中響いていた……










「…………」


 この狭苦しい空間に訪れてからどれだけ時間が過ぎただろうか。

 時間とは相対的であり、主観によって如何様にも変貌する。

 それでも彼の、いや、彼女の体内時計が狂っていないと信ずれば、およそ数日が経過していた。

 懸念すべきことは山のようにある。

 酸素は大丈夫なのか、餓死してしまうんじゃないか、そもそもここから出られるのか。


「空腹は、ない……睡眠も驚く程少ない時間でことたりる……多分、酸素も必要ない。僕は、本当に人間なんだろうか……」


 太陽光と水だけで何年も食事をせず生きてる人物は彼女も知っている。

 だが、ここには水も無ければ日の光すらない。

 それなのにおよそ数日、最低でも三日は経過しているのに空腹一つ感じないのだ。

 密室のような環境で酸素は消費されているのに、息苦しさも感じない。

 極度の緊張、状態が空腹などをごまかしているのかと最初は思ったが、今ではそれも線が薄い。


「父さん、母さん、心配してるだろうな……」


 母子家庭と言うこともなく、父母健在の家族。

 きっと今頃大騒ぎしているだろうと彼女は考える。

 それくらには愛情を受けて育ったし、それなり以上に好感を抱ける家族であった。


「……帰れるのかな」


 漏れ出た言葉に笑いが込み上げそうになる。

 ――例え帰れたとして、恐らく女性となった身体でどうする?

 日本は治安がよく、法律がしっかりとした国だ。

 逆に言えば、公的身分が不確かだと非常に生き難いとも言える。

 戻っても、戸籍が無い状態だろう。最悪浮浪者の仲間入りとなるか、のたれ死ぬ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白いです‼ クッ、もっと早くこの短編に出合いたかった……
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