手記 3
「再生フェーズ、S……いや、もうG2、Mに差し掛かっていますっ」
少し声が上擦ってしまって、隣のいけすかないチームメイトが声を圧し殺して笑うのが聞こえた。死刑ね、後で。
でもそうなるのも無理はない、と思う。今現在私が目にしているのは夢にまで見た、「奇跡」なのだ。
破壊されたネズミの下腹部の細胞が、目まぐるしく原形質流動を繰返し、肉眼視できる速度で傷口を再生していく。染色体が炭酸の泡でも弾けるような速度で核を形作っていく、その様のなんと美しいことか。
「表皮細胞再生開始、今何秒?」
「9秒だ」
たったの。それだけの間に、ネズミは、元の生物としての姿に戻っていく。そう反芻しているうちにも、毛穴から早回しのような勢いで毛が生えて、周りと足並み揃えて止まった。
ぷはっ、と息継ぎをする。
「……ついに、ここまで」
「ああ」
このときばかりは、軽口の介在する余地が無かった。幸福な沈黙が、降りてくる。
医療技術の最先端。細胞の培養速度を再現なく高め、肉体を一瞬で復元。さらに、その体は二度と傷つかない……どんな神でも成し得なかった成果が、今、この手の中にある。
あまりにも嬉しすぎると何も言えないのだと、そのとき知った。
臨床にはまだまだ繰返しが必要だが、それでも、ひとまずのゴールテープを切れた事に対する達成感、充足感で一杯だ。
サラサラと普段にもまして汚い字でレポートを書き付ける輝夜。らしくない、筆が焦るなんて。
と、思ったのもつかの間。
キィィィイと、ネズミが苦悶の叫びをあげた。
「っ!?」
ガラスケースにかけよって見てみれば、おそらく再生時に弾き出されなかったのであろう点滴の針が体内に突き刺さったままになっいていた。抉った傷口に直接突き刺した為、かなり深々と突き刺さった格好になっている。
急いで引き抜こうとするのだが、全く抜けない。
「貸せ、何やってんだ」
ネズミが骨ばった硬質な手に拐われる。数瞬の後、ネズミはひときわ苦しげに鳴いた。
「あー、こりゃ、ダメだわ……」
引き抜けた針には、筋細胞らしき繊維が絡み付いている。だがその表面には、朱ではなく透明のてらてらとひかる液体が滴っていた。
傷口は先程の奇跡が嘘のように、まったく塞がる様子がない。ただ止めどなく、傷口から透明な液体がこぼれ落ちていくのみである。
「まさか──硬化してた?」
「盲点だったな、事前に突っ込んでおいた異物は傷口になるらしい」
そう、これが再生と、もう一つの効果。並外れた代謝と瞬間的な加圧硬化により、その体には二度と傷をつけることができなくなるのだ。
その副作用として、二度と細胞が再生することが無くなるというものがある。これは生き物の、驚くべき学習の成果だろう。細胞が二度と傷つかないなら、守る必要も無いわけだ。
「……だとしたら、舌噛んだりしたらかなり危険ね」
「そうだな、ささいな歪みでも今回みたいに成りかねない。やはり人体投与は厳しいだろ」
一転、複雑な気分になった。ネズミは死の間際、何を見ているのだろうか。そんな事がふと頭を過った。
「……っあー、もう。また組み直しじゃない」
机に突っ伏した私を、けらけらと笑う声がする。
目の前にある鏡に映った輝夜の顔には、私よりもくまが色濃い。それだというのに、表面上は、疲れも見せずに動き回っている。
「輝夜」
「あ?」
「終わったし寝なさいよ、倒れそうじゃない」
「誰かがぶっ倒れさえしなければ三徹もしてねぇよ」
う。
こんなとき、とても不甲斐ない。からかうし、バカにしたように喋るけれど、それでも彼はこの研究一番の功労者だ。私なんかより、ずーっと、作業量が多い筈なのだ。
それなのに、彼は、どこか自嘲ぎみに引いて関わっている。
「……ぁるかったわよ」
ネズミは息絶えた。手のなかで、透明な粘液質の「血液」が揺らめいている。
瞼が、重い。私も、丸一日以上は、起きている体だ。
(ごめん、なさい)
意識が沈んでいく。紙をはしるペンの音を子守唄に、私は幸せな微睡みへと滑り落ちていった──