プロローグ
【壊死】[え-し](英:Necrosis)
生体の一部が死ぬこと。または、その状態を示す。
エンサイクロペディア・ウェブニカより抜粋
ワイシャツを着て、ベルトを締める。ネクタイを締めて、形を整える。
鏡を見る。ひどい顔だった。
昨夜は、何時間も寝付けなかった。体は疲れ切っていたが、眠ろうとするたびに、冷たい汗をかいて目が覚める。そのたびに、枕元の携帯電話を確認するのだが、着信もメールもない。そんなことを繰り返していた。
妻と娘は、2日ほど前から千葉の妻の実家に帰っていた。
表向きは、異動後の新居探しということになっているが、すでに新居のめぼしはついていて、後は正式な契約と銀行との住居補助といった手続きのみを残している。異動前のこのあわただしい時期に、妻を実家に帰さざるを得なかったのは、一重に妻の精神状態があった。2年前に、第一子である美奈子を出産してから、妻は育児ノイローゼを悪化させ、時々死にたいともらすことがあった。生活は荒れ、深夜帰宅すると食事の用意どころか、放置されたままの洗濯物や洗い物を片付け、ようやくコンビニで買ってきた弁当を温めて食べる。そんな生活が続いていた。
自分では、妻の負担を軽減させているつもりなのだが、彼女にとっては育児も家事もままならず、夫に負担をかけているという意識が、より精神状態を悪化させ、日常生活のリズムをいっそう崩す・・・。そんな負のスパイラルが続いていた。
もう、こんな生活は終わりにしたい。
その気持ちは、私にとっても同じことだった。仕事の重圧から、体重を減らし、学生時代にはアメフト選手として鳴らした筋肉もすっかり落ちてしまった。昼夜を問わない呼び出しに怯え、家に帰っても荒れた家と、かわいいはずのわが子の泣き声に怯える・・・。
その区切りは、数週間前に訪れた。異動の内示だ。
営業成績は、同期の中でも飛びぬけている。行内表彰を幾度かうけているし、上司や取引先の受けもよいし、目立ったトラブルはない。異動先は、営業企画部門で行内業務プロセス改革プロジェクトに抜擢されるという、誰がどう見ても栄転だった。幾度か、行内の営業企画コンペにレポートを提出していたことが功を奏したためで、上司も胸を張っていって来い、と応援してくれている。
生活が変われば、きっと妻も落ち着きを取り戻してくれるだろう。新居も、妻の実家から近くなるし、本店に異動すれば、取引先からの昼夜を問わない呼び出しもなくなり、時間的な余裕もできるだろう。
だから、私はけじめをつけなければらない。
髪を整え、ジャケットを着る。ひどい顔だが、身なりだけはいつもどおりだ。
やらなければならない。これしか手段がない、と自分に言い聞かせクローゼットを閉じた。




