第12話
俺は空を覆う透明な被膜を見上げ、次なる備えの計算を静かに始めた。
村全体を覆う大結界は、すでに安定期に入っている。だが、防衛網を構築しただけで満足するつもりはなかった。人が生きていくためには、安全な壁の内側で豊かな生活基盤を築く必要がある。
翌朝、俺は村の外れにある広大な農地に立っていた。
「土壌の温度を一定に保ち、害虫の侵入を防ぐ。この二つを満たせば、収穫量は飛躍的に上がるはずだ」
足元に自生する青黒い雑草――魔力草を数本引き抜き、指先で魔力を流し込む。
空中に青白い魔力線を紡ぎ出し、農地全体を覆うように薄い天蓋を展開した。ただの物理的な壁ではない。太陽光の波長を調整し、冷気を遮断する微細なフィルターだ。
「……信じられない。土が、ふかふかになっている」
様子を見に来ていた農夫たちが、足元の土をすくい上げて感嘆の声を漏らした。
「これなら、冬を越すための作物も十分に育つぞ!」
歓喜に沸く彼らの姿を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。宮廷魔術師団では、結界魔術は地味で誰でもできる仕事だと嘲笑されていた。だが、ここでは違う。俺の編み出した術式が、人々の生活を直接豊かにしている。
「お疲れ様です。冷たいお茶をお持ちしました」
背後から、静かな声がかけられた。
振り向かずとも、それが誰かはわかる。アリアの専属護衛であるミリアだ。彼女は動きやすい軽装のメイド服姿で、木彫りのカップを差し出してきた。
「ありがとう、ミリア」
「いえ。あなたがこの村にもたらしてくれた恩恵に比べれば、これくらい造作もないことです」
カップを受け取ると、冷たいお茶が乾いた喉を潤した。
ミリアは農地を覆う天蓋を見上げ、穏やかな瞳を細める。出会った当初、彼女は俺の素性を強く警戒していた。だが今、その視線には確かな敬意が宿っている。
「アリア様も、村の皆も、あなたを心から頼りにしています。辺境の守護神だと、そう呼ぶ者すらいるほどに」
「大げさだな。俺は自分のやりたいように結界を張っているだけだ」
「それでも、です」
ミリアは真っ直ぐに俺を見た。
「あなたの力が、私たちにどれほどの安心を与えてくれているか。どうか、その価値を誇ってください」
彼女の言葉に、俺は静かに頷いた。
自分の実力を正しく評価し、必要としてくれる場所。ここでなら、誰に邪魔されることもなく、自由に魔術の研究と実践を続けられる。確かな手応えが、俺の中に満ちていた。
◆ーーーー◆
王都、宮廷魔術師団の執務室。
ザイードは、片眼鏡を押し上げる指の震えを必死に抑え込んでいた。
「くそっ……なんだってこんなに魔力値が落ちているんだ」
手元の観測盤には、王都を覆う大結界の魔力残量が危険水域に達していることが示されている。
あの忌々しい男が消えてから、結界の綻びは日に日に大きくなっていた。ガイウス団長に報告すれば、「なぜ管理できていない」と責任を問われるのは目に見えている。
「俺のせいじゃない。あの無能が、まともな引き継ぎもしなかったからだ」
ザイードは周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、観測盤の魔力回路に直接手を触れた。
「こんなもの、適当に魔力を注ぎ込んでおけば直るはずだ。あの男にできて、俺にできない道理がない」
彼は自身の魔力を、強引に回路へと流し込んだ。
だが、結界の術式は緻密なパズルのようなものだ。構造を理解せずに力任せに魔力を注げば、どうなるか。
バチッ、と鋭い音が鳴り、観測盤から青白い火花が噴き出した。
「うわっ!」
ザイードが尻餅をついた瞬間、執務室の扉が乱暴に開かれた。
「報告します! 外縁部の結界の一部が崩壊! 中型魔物が三体、市街地に侵入しました!」
血相を変えた若手の魔術師が叫ぶ。
「な、なんだと……?」
ザイードの顔から血の気が引いた。中型魔物の侵入など、ここ数十年起きていない異常事態だ。
「俺のせいじゃない! 全部あのレオンって奴が仕組んだ罠だ! 奴が欠陥だらけの結界を放置して逃げたからだ!」
ヒステリックに叫びながら、ザイードは責任を押し付けるための言い訳を必死に考え始めていた。
◆ーーーー◆
「中型魔物の侵入、だと?」
王城の豪華な執務室で、宰相ローレンスは冷ややかな声を出した。
報告に上がった文官は、青ざめた顔で震えている。
「は、はい。宮廷魔術師団が迎撃に向かいましたが、被害はすでに市街地の一部に及んでおりまして……」
ローレンスは手元の報告書を机に放り投げた。
「ガイウスめ。見栄えのいい攻撃魔法ばかり鍛えさせ、足元の防壁すら維持できないとは。あの程度の単細胞に王都の防衛を任せていたのは、私の計算違いだったか」
彼は慇懃無礼な笑みを浮かべたまま、冷酷な思考を巡らせる。
結果がすべてだ。無能な駒は躊躇なく切り捨てる。それがローレンスのやり方だった。
「それにしても、あの男……レオンと言ったか」
ローレンスは窓の外、遠く辺境の方角へ視線を向けた。
彼が去った途端に結界が崩壊し始めたという事実は、一つの真実を物語っている。王都の安全を人知れず支えていたのは、ガイウスでもザイードでもなく、あの男だったのだ。
「辺境で英雄気取りのようだが、お前は王都のシステムに必要な歯車だ。私の手足として、都合よく管理してやろう」
ローレンスは自身の権力基盤を守るため、新たな算段を立て始めた。
無能な者たちを処分し、真の結界師を再び王都の支配下へ組み込む。そのための手段は、いくらでもあった。
◆ーーーー◆
王都の地下深く。
誰も立ち入らなくなった薄暗い制御室で、台座の上に置かれた黒い石が微かに明滅していた。
大結界の要となるその端末は、修復の魔力を絶たれ、さらにザイードの暴走した魔力を浴びたことで、限界を迎えつつあった。
ピキッ。
静寂に包まれた空間に、乾いた音が響く。
黒い石の表面に、ついに目視できるほどの亀裂が走った。
漏れ出した魔力が青白い煙となって立ち上り、虚空へと消えていく。
王都を覆う巨大な防壁が完全に崩れ去るまで、残された時間はもう、わずかしか残っていなかった。




