04
防衛本能とは不思議なもので、あれだけ震えていたリアの体は少しも動くことなく硬直していた。なぜなら、彼女の首もとには見たこともないほど大きい、20センチほどの刃が接していたのだ。左肩を背後の男に掴まれ、右肩の方から伸びているナイフを持った手が彼女の視界に入っていた。
動けば、自分は足元に転がる牛の塊と同じ運命をたどるに違いない。
その塊と目が合い、リアはそう確信した。
「答えろ。さもなくば、殺す」
ナイフを彼女にあてた男は、迷いない声色でそう脅した。そして呑気なことにも、リアは違和感を覚えた。
目の前の、狂気に満ちる惨殺の情景は彼がこのナイフで作り上げたものなのであろう。しかし、今の問い掛けは余りにも理性的すぎる。まるで、答えたならば殺さずに済むと言っているかのよう。……理性など微塵も感じられない目の前の殺戮とは正反対だ。
そう考えている自分が、さっきまでと打って変わって冷静に目の前のシーンを見ていることに気付き、リアは酷く自分に嫌悪した。臭いも、慣れたのかあるいは麻痺したのか、気にならなくなっていた。
「お前を監囚した祐血者はどうした」
男の鋭い声により、自分がおかれている今の事態にはっと意識を戻した。
死にたくないという本能が、あたかもその質問が救いの糸でもあるかのように、脳内で必死に問いの内容をたぐりよせる。
しかし、質問の意味、……それどころか単語の意味さえ全く理解できない。それは、今自分がパニックに陥ってしまっているせいなのだろうかと彼女は焦った。
(私をカンシュウ、・・・ユウケツシャ……って何?)
「早く答えろ!」
(そんなこと言われても、何を答えればいいのか分からない……!)
焦れた男は、リアの首筋にあてたナイフを傾けた。それはとても滑らかな動作だったので、ひやりと鎖骨を伝ったものはてっきり冷や汗だと彼女は一瞬勘違いした。けれど暗闇ながらその赤色は、はっきりと目を引いた。
血だ。
首筋から一筋、血が流れ出ているのだ。
生命の危機に何かがリアの中で爆発した。とたんに、恐怖から出すことも忘れていた声が溢れ出た。
「し、知らない、分からない!……嫌だ、殺さないで!」
その懇願を滑稽に思った男は舌打ちをした。
「囚血者は虚言ばかりだ。耳を貸すこと自体無駄だったか」
独白のように男は小さく呟いた。その声に孕んでいたのは嫌悪ではなく、むしろ憐れみ。
リアは彼の言葉の意味のほとんどを理解できなかったが、自分が嘘をついてると思われているのだということは何となく理解できた。そして、そろそろ男が痺れを切らしているということも。
「待って!嘘じゃない!……あなたの言ってること、意味が分からない。何で、私を殺すの……」
息が続かず、最後の方は掠れた声になっていた。それでもこの至近距離にいる男にはかろうじて伝わったようだ。
「これだけのことをしたら、理由には十分だろう」
そう言いながら男は目の前の残劇をナイフで指し示した。そうしながら男は更に続ける。
「ここまで酷い殺し方をした囚血者は初めてだ。・・・殺したものが人でないだけまだマシか?」
(シュウケツシャって何?私のこと……?)
そうだとすると。
――血の気が引いた。
リアは大きな勘違いをしていたことに気付く。この目の前の惨殺を行ったのは、どうやらこの男ではないらしい。
(・・・その上、この男は、私がやったのだと思っている!)
「違う、これ、私がやったことじゃない!」
あわてて弁明の言葉を紡ぐも、彼は確信を持って宣った。
「嘘は無駄だ。お前の芳香は、紛れも無く囚血者の匂い」
(におい……!?)
「お前に罪はない。俺を恨め」
――罪はないと。そうだ、この知らない男に断罪されるような罪は、自分にはないはず。
・・・それなのにどうして、男はナイフに角度をつけたのか。まるで今から自分を斬るかのようではないか。リアは今の状況をそう正確に把握しながらも、当然全く理解することができない。
暗闇ながら鈍く刃が光った気がした。
「やだ、・・・いやぁ――!」
自分は殺される。
あまりに理不尽な現実への最後の抵抗として、リアは強く目を閉じた。最後に見たものがあられもない血まみれの自分自身だなんて、彼女はまっぴらごめんだと思った。
「――イゼルア、待て」
ちょうど最後の抵抗、――いや、抵抗にもならぬ気休め――を実行したとき。リアは前方から新たな声がするのを意識の隅で認知した。聞いたことのない高めの、まだあどけなさを残す少年の声。
それは極限の状態にいた彼女にとって、もはやどうでもいい情報であったが、数秒たっても自分の体がどこも痛まないことを把握すると、恐る恐る目を開いた。
目を閉じるまでは誰も居なかった彼女の目の前に、リアと同じ位の背丈の少年が立っていた。
彼は助けなのか。
リアは真っ先にそれを見定めた。しかし味方であっても、目の前の少年はナイフを持った男から自分を救うには華奢すぎる。そんな利己的な考えを彼女は働かしたが、残された頼みの綱は彼しかいない。リアは少年へ懇願の眼を向けた。
少年は観察でもするかのようにリアを見つめた。リアへ向けたその瞳は力強いが、少年の顔立ちは少女と見紛う中性的なものであり、彼の年齢は15歳のリアよりも下と伺える。
「どうした、アズ。死を先延ばしては、この囚血者にとっても酷だろう」
嫌味ではなく、全くの本心からという風に、リアを捕える男は宣った。
その言葉にリアはおののく。緊張でカラカラになっていた瞳に、再び涙が溢れ出てきた。
「嫌だぁ……死にたくないよう」
ぐずぐずと嘆きを零す。この情けないありように気分を害したか、はたまた何かに気付いたのか、リアの目の前にいる少年は目を見開き、眉をひそめた。
「イゼルア・・・この子供は囚血者じゃない」
少年が驚きを含んだ声をあげた。
対してリアは、意味が解らない言葉よりも、およそ年下であろう少年に“この子供"と呼ばれる違和感の方に気を取られた。
「何言って……。この芳香は間違いないだろう、こんなに強く匂いが――」
「――ああ、強すぎる。この娘の芳香、囚血者よりも断然強い。彼女は囚血者ではなく・・・祐血者だ」
自分のことを言われているようだが何を言っているのかリアはさっぱり分からない。ただ二人が何やら揉めだしたことに対し、“もっと揉めてしまえ"と彼女は思った。そうなることで、男が自分のことから気をそらすのを期待したのだ。
しかし彼女の願いは無情にもことごとく叶わないらしい。男は目の前の少年の言葉に口をつぐむと、リアの体を引っ張り、小屋の外へと向かった。あまりに強い力の彼の拘束は振りほどけず、リアは引っ張られながらも慌てて後ろを振り返って少年に助けを求めた。しかしそんな彼女を見ても、少年は冷静な、……あるいは冷淡といえる顔をしていた。連れていかれるリアを慌てて追いかけるわけでもなく、ただゆっくりとこちらへ歩いているだけ。
リアは裏切られた面持ちだった。助けなんかじゃなくて、彼はこの男の単なる仲間だったんだとショックを受けた。
小屋から出された途端、リアは眩しさに目眩がした。彼女は目を細める。すると目の前を歩いていた大きな背中が突如振り返った。あっと息を飲み、恐怖で顔を咄嗟に俯けた。
右手がじんじんと痛い。――この男にきつく掴まれているからだ。ちらりと視線を自分の右手にあててリアはそう確認すると、続いて相手の反対の手へ自然と視線を動かした。・・・彼の手には依然として大きなナイフが握られている。
陽の下で見たそれは、さっき見たときよりも一層生々しい鋭さを主張していた。
リアの視線はそこに張り付いたままで、彼のナイフを持った手が動くのを認めるとリアの体はびくりと動じた。
ナイフは、彼の腰元で小さな軌道を描くと、・・・・そのまま男の腰へと収まった。
けれども、それに対して安堵する間もなかった。フリーになった彼の右手が直ぐさまリアの顔へとのびてきたのである。
首をしめられると彼女は思った。
ぎゅっと目をつぶると顎にひやりと、冷たい手の感触が伝わった。どうやら首ではなく顎を掴まれたらしい。掴まれた顎は、ぐいと上へ、顔が上を向くように持ち上げられた。
「目を開けろ」
有無を言わさぬ声に、思考も働かないまま、ただ彼の言う通りにリアは瞼をあげた。
初めて、男の顔が視界に映る。彼は思ったよりも若かった。20歳ほどの青年。
何より先に目を奪われたのは、初めて見る漆黒色をした髪の毛と瞳だった。
「見ろ、こいつの双眼は青じゃないか。祐血者なら金色のはずだ」
小屋の方に向かって青年はそう発した。すると小屋の暗く陰る入口から先程の少年がゆっくりと姿を現して、彼は青年に答えた。
「それはおかしいな・・・。確かにその子は祐血者に違いないんだけど」
「間違いないだと。……祐血の血が半分なのか?いや、半分にしても祐血者は必ず特徴に金髪、金眼、肌の白さ、端整な容姿を兼ねそろえているはず」
「ああ、金髪と色白しか当てはまってないね」
余りにも堂々とした失礼さに、リアは呆然とすることしかできなかった。
「けれど、僕が判断を誤るはずないだろ?イゼルア」
どうやらイゼルアという名であるらしい青年に、少年は自信満々に問い掛けという名の確認をした。
沈黙は肯定。その言葉を自明にするかのように青年は閉口する。肯定を口にはしようとしない青年に対して、少年は薄く笑いながら、仕方がないなという風に肩をすくめた。
二十歳程の青年と十五に満たない位の少年。そんな年齢差があるはずの彼らだが、彼らの言動は、年齢差を覆しているかのようである。
「で、一応聞いとくけど。……君は、祐血者だろう?」
少年の的がリアに移った。
彼は微笑みを作っていたが、それには色濃い警戒がふくまれている。
訳の分からない質問をされる不安定さよりも、自分が警戒される対象にあることの大きな不安定さ。孤独感。
――未だ青年に強く掴まれている右手が痛い。
信用も何もまるで無い、言葉の通じぬ獣のように自分は扱われている。そんな生まれて初めての経験にリアはおびえた。
「姉さん、助けて……」
うつむき、ぽつりと、リアは一番こいしい人を呼ぶ。
「姉さん?……君、姉がいるの?」
リアの小さな呟きは当然、単なる独白として消えていくと彼女は思っていた。
ところが予想外なことに、少年は呟きの内容をとりあげて問うてきた。それも、今までとは打って変わり理解のできる普通の質問だ。ゆえにおもわず少年をみてリアは頷いてしまう。すると、少年は光を通さぬ灰色の瞳を丸くさせた。
なにがおかしいの、とリアが尋ねようとしたときだった。少年は驚きの表情を先ほどまでの冷静な顔に戻すと、淡々と青年に向かって指示を仰いだ。
「イゼルア、この子を離してやれ」