好きなものを否定してくる人を愛することは、絶対にありません!
「…………改めて聞こう。マルグリットよ。それはなんだ…………?」
父がいつもの愛称ではなく、「マルグリット」と名を呼びながら重く腰を下ろす。
そしてその震える指先で、私の背後を差し示した。
あら、もしかして期待してるのかしら!?
でも、まだ焼いても煮てもいないで、今はただの“素材”なんだけど。
「じゃじゃーん! 本日は、魔の森で見つけた『ワイルド・ボア』を捕獲してまいりましたっ!」
肩に括りつけていた縄をするりと解き、食堂の長テーブルへ――
ドンッ!!
乾いた音とともに、極彩色の巨大猪がその巨体を横たえた。
「ふぬおわぁぁぁッ!! 拭いたばかりのテーブルに置くなぁぁぁッ!!!」
……お父様、そんな泣き崩れなくてもいいのに。
もしかしてテーブルを掃除してくれていたのかしら?
まぁ、血抜きはしているから心配ないんだけどね。
「ぐぬぅ……お前ももう二十歳だというのに、毎日毎日、魔物の狩猟に野草の採取……果てには魔界産らしきキノコなどを──」
「だって、我が家にはお金がないからですわ! お父様!」
「ぐふっ!!」
あら、痛恨の一撃だったかしら?
今、父の顔が「ガチのクリティカル」って顔で崩れ落ちたわね。
***
我がリュベルネ・ドルドワ子爵家は、貴族とはいえ末席にして貧乏。
質素ながらも品のある生活を──とは名ばかりに、衣食住のうち“衣”と“食”に関しては涙ぐましい節約の連続である。
ドレスの仕立て直しは常、靴の修繕は日課。
そんな我が家にあって、私・マルグリットはある日、思ったのだ。
――ならば、食卓だけでも豪勢にしようではないか! と。
きっかけは幼少の頃。
とある貴族の狩猟会に数日参加した折、口にした料理の数々が、魂に刻まれてしまったのだ。
トロトロに煮込まれたワイルド・ボアの赤ワイン煮込み。
香草とバターでじっくり焼き上げたグレート・バッファローのもも肉。
骨からほろほろとほどける肉の食感に、口いっぱいに広がる旨味の奔流。
あの一皿一皿が、私の中の“何か”を目覚めさせた以来、自分で獲って、自分で調理して、自分で食べるという野生児めいたライフスタイルを確立した。
ほら、今もこのワイルド・ボアと冷凍保存していたバッファローやイロトリドリを合わせて、《魔物肉三大トリオ》でスープを仕込んでいるところ!
肉のコクが染み出したスープは、もはや「飲む」ではなく「食べる」域。
煮えすぎず、しかし柔らかく、完璧な火加減。
鼻腔をくすぐる芳醇な香りに、我ながらにやけてしまうわね。
「ふむ……相変わらず王宮の料理長すら顔負けの手際……そしてこの幾重にも折り重ねられた香気もすばらしい。だがな、マリィよ」
「はい?」
父がやや真面目な声色を出すと、私は鍋をかき混ぜる手をゆっくりと止めた。
「お前が我が家のことを思ってくれているのはよくわかっている。情けない父に代わって、狩猟に出てまで食費を浮かせようとしてくれる。ありがたい……だが、父としては、そんなことで毎日血まみれになって帰ってくるお前を見るたび、胸が締めつけられるのだ」
「…………」
口にされたのは、定期的に言われる父の言葉。
そして次に来るのはだいたい「結婚相手を探せ」。
だから私は、父の前置きから先読みして話をさっさと進める。
「ふむふむ、なるほど。理屈では理解できますわ。でも、貧乏令嬢の私をもらってくださる方なんて、そうはいないでしょう?」
「ぐっ……っ!」
目が泳いでますわよ。
「結婚できたとしても、相手の生活によってはむしろ今よりお金がかかることもあるでしょうし。かといって、高位の貴族様がこんな家庭に興味を持つとも思えませんし……」
ため息をつきながら、私は静かに鍋をかき混ぜる。
そりゃ、そんな都合のいい縁談が都合よく転がり込んで来るのなら、私だってこんな苦労してませんわよ。
まぁ、たとえ裕福であっても、結局ワイルド料理はしてるとは思うけど……。
だが、返ってくる父の言葉は、想像していたものではなかった。
「あ、いや……その、縁談が来たのだ」
「はい?」
「それも、高位の貴族様から……手違いでもなんでもなく」
はい、てなわけで都合のいい縁談が都合よく転がり込んできましたー。
しかも相手は伯爵家の嫡男様。
さらに持参金不要! 貧乏な実家を援助してくれる!
なんて、そんなのどう考えても裏があるとしか思えない話が。
ワイルドでカッコカワイイ! とかは言われるけど、私は高貴な貴族様が好きそうな穏やかで絶世の美貌という訳ではない。
つまり、私の評判が知れ渡り求婚された、なんてことは絶対にない。
でもま、家のためだと思えば正直乗るしかない。
「マリィちゃん! 無理しなくていいんだよ!? こんなの絶対裏があるからね!? ねッ!?」
「ええいっ、うるさいです! そもそもお父様が言い出したことでしょう!? そんなに嫌なら、私がこんなことしなくてもいいように稼いでくださいませ!」
「がーーーん!」
父も必死に私のことを止めたけれど、「お金」の言葉でその手は限りなく緩くなった。
というワケで、 私は人生最大級に胡散臭い縁談へ身を投じたのだった――
***
伯爵家の屋敷は、我が家とは比べものにならないほどに広く、そして――冷たかった。
迎えの馬車を降りた瞬間から、床も、壁も、空気すらも「格式です」と主張してくる。
ああ、なるほど。
これは確かに、ワイルド・ボアを担いで闊歩する女が来る場所ではありませんわね。
執務室で待ち受けていたのは、伯爵家の嫡男――アルベルト・フォン・グランディオス様。
銀縁の眼鏡。整えられた金髪。背筋は嫌になるほど真っ直ぐ。
高級そうな衣服に身を包み、書類から一切顔を上げないその姿は、絵に描いたような“高位貴族の嫡男様”。
……なのだけれど。
こちらを一瞥する気配すら、ない。
まぁ、それもそのはず。
当然この縁談には裏がありました。
「……君が、ドルドワ子爵の娘か」
「はい。お話は伺っておりますわ。アルベルト・フォン・グランディオス様。私、マル――」
「よい。聞く気にもならん。先に言っておくが、私は君を愛するつもりはない」
「はい?」
「私の愛は、遠い昔に離れ離れになってしまった姫君に捧げると決めているのでね」
――故に、君はその姫君を見つけるまでの代替だ。
結婚しろと煩い親を黙らせるための道具だと彼は言う。
「まぁもっとも、法にも明記されている通り婚姻後、三年間子を成されなければ、正式な離婚は可能だ。それまで我慢してくれればいい」
淡々と、事務的に。
心底嫌そうに。
そして、やはりこちらを見ない。
……ふむ。
なるほど。
これはつまり――
私は“時間稼ぎ用の妻”というわけですわね?
内心でそう整理してから、私はにっこりと微笑んだ。
「あら。ではこれは――白い結婚、ということでよろしいでしょうか?」
「……ああ。そう捉えてくれていい。私は君に触れようとも思わないし、夫婦としての義務も期待しない。互いに干渉せず、数年を過ごす。それだけだ」
……そこまで言われますか。
胸の奥で何かが冷えていくのを感じたが、同時に天佑とも解釈した。
まぁ、家族のために純潔を売る覚悟で来たけれど、それならこっちだって気が楽なものである。
あとは――
「では、確認させてくださいませ。離婚する際には――慰謝料は頂けますよね? もちろん、相場以上の額を」
それは、法律に準拠した確認。
だって当たり前じゃない? 私は何も悪くないのに「子供が出来ない女」と箔をつけられるのですから。
あとで「白い結婚」と言ったところで、普通に信じる人のほうが少ない。
「元から金目当てだったのならば話は早い」
元からではありませんが!?
少なくとも、魅力的な恋愛をしてくださるのであればこちらも「ダーリンへの料理はどんなものを作ってさしあげましょうか」なんて考えすらありましたが!?
「では、契約書を交わしましょう」
「面倒な女だ……金しか頭にないのか?」
すこぶる眉間に皺を寄せて睨んで来るアルベルト。
そもそもその愛する姫君とやらのために金で私を妻にしたのでしょうがね!?
「保険です。それに、いざその愛する姫君に再会された際は、円滑に独身という肩書が必要でしょう?」
「それもそうか」
結局――彼は私の顔を一度も見ることなく、 嫌々ながらも契約書に署名してくれた。
***
「という過程を経て! 契約書を! 交わさせていただきましたのよッ!!」
「はは――それはまた、随分と……思い切った条項ですね」
伯爵邸キッチンにて――落ち着いた声が、鼻先をくすぐる香草の匂いと一緒に返ってくる。
彼――エリアス・フォン・ヴァルトはこの伯爵家に仕える執事。
私がイライラしながら屋敷内を徘徊していたら、丁度キッチンで夕食の支度をする彼が見え、そのまま調理に参加させてくれたのだ。
落ち着いているのに、見た目は私と同い年くらい。
落ち着いた灰色の瞳に、柔らかな物腰。
いかにも“できる執事”といった佇まいで――よくあんな嫡男の下で働けるなとも思う。
「でしょう!? でしょうとも!! だって聞いてくださいなエリアスさん。契約書を見た途端、次々と条項を付け足していきましたのよ!? 白い結婚ではあるが、最低限の社交はしてもらう、とか! 厚かましくないですか!? まあ、しますけど!? それでいてパートナー必須の夜会は出席不要!? どっちですの!? がああああ!!」
私は怒りに任せて、包丁でまな板を叩く。
タマネギが、泣きながら粉々に散った。
「まぁ、お気持ちはよくわかります。アルベルト様は……女性に対して配慮が不足し過ぎておられますからね。いえ、率直に言えば“極端に欠けている”のですが。まったく、困ったものです」
さらりと陰口が混ざった。
どうやら旦那様は私以外にもそんな感じらしい。
「ええ! そうでしょう!? あれは配慮不足を通り越して……なんでしょう、冷凍庫に入れて凍らせた礼節みたいなものですわ!」
「ふふ……たしかに、凍結保存された礼節ですね」
言いながら、エリアスは私が欲しい食材をここぞとばかりに調理台に並べていく。
というかこの執事、人の扱いが上手すぎる。
愚痴を聞いてくれる上、私に好きなように調理させてくれて、愚痴まで全部同調して聞いてくれるのだから。
「しかし奥様は、感情がそのまま料理に現れるのですね」
「はい?」
「怒りが“辛味”に変換されるのは、珍しい才能です」
何言って――と言いそうになって調味料を見て確信した。
「こんなにスパイス混ぜてました!?」
「ええ、それはもう、見ているこちらも気分が良くなるほど豪快に」
「ご、ごめんなさい」
謝る私に、しかしエリアスはその鍋の中身を小皿で一口味見し――
「いえ、謝る必要はありません。むしろ――見事です。奥様は今、意識の半分が怒りに向いていたはず。それでもなお、複数の香辛料を順番も配分も間違えずに使い分けています。かなりの手腕ですね」
「ほ、本当? でも、辛くないかしら?」
「確かに想定よりかなり暴力的ではありますが、大したことではありません。むしろ、あの量でよくここまで旨味と辛みを融合させましたね。それでいて香りの豊富さも私のものとは段違いです。ぜひご教授願いたいほどですよ」
「そ、そう?」
暴力的ってなんじゃいとも思ったが、そんなに言語化して褒めてくれるのは嬉しい。
ふっ……自分の才能が怖いわ。
王宮のシェフ顔負けとはよく言われてるけどね……お父様だけど。
「……いずれ、商いでも始めてみてはいかがでしょう? 奥様なら、十分に稼げます」
「商い?」
私の胸が、ぱっと明るくなる。
――稼げるなら、自分で稼ぎたい。
まして、それが料理なら……どんなに嬉しいことか。
「あとはそうですね、帳簿などはつけられますか?」
「ぐぇっ」
夢見心地中のかけられた容赦ないエリアスの一言に、私は鍋をかき混ぜながら呻くしかなかった。
「そうですわ……私、金勘定とか……ぜんっぜんわかりませんわ……。肉の鮮度なら見抜けますけど……」
十年前から料理のみに身を捧げ続けたせいで、私の算術能力はもはやダメダメのダメである。
くっ……こんなだから貧乏貴族に――いえそれはお父様のせいね。
「であれば、空き時間に私が教えましょう」
「いいのっ!?」
「帳簿のつけ方。仕入れと売上。人件費。税と納付。営業許可の取り方なども」
息をするみたいに言う。
私は、ぽかんと口を開け――
「・*:.。..。.:*・'(*゜▽゜*)’・*:.。. .。.:*・。」
「…………はい?」
そんなこんなで――離婚するまでどう数年間も過ごそうと悩んでいたけれど、エリアス――もとい救世主様のおかげで退屈しそうにない結婚生活が始まった。
***
白い結婚だなんて――と思ったこともあるが、意外とこうもお互い触れずに生きていくというのはやりやすかった。
夜会への出席は不要ということで、私は昼間の御婦人方とのお茶会だけ出席した。
しかしまぁ、体調不良という名目で夜会は欠席しているのに、お茶会には元気に出席しつつ、なんなら自前の料理まで出してくるのだから、皆さま自ずと事情を察してくれていた。
旦那様、女性を軽視しすぎじゃないかしら?
もしくは『愛する姫君』以外の全女性は、石か草程度にしか認識してないんじゃないでしょうか?
そう思われても不思議ではないくらい明らかに女性を意識していない。
ちなみに何度か私の手料理が食卓に並んだこともありましたが、あの旦那様がエリアスが作ったものと見分けれるはずもなく、なんならお残ししておられました。
キッチンにいるところをたまたま目撃された時は、『魔物の骨髄で出汁を!? おぞましい。貧乏みがにじみ出ているな』と仮にも妻に一蹴するように言い放ち、その日は食事に手を付けることもありませんでした。
まぁ、別に愚痴るほどではあれど、悲しんだり泣いたりは別にないというか、寧ろ好都合。
侍女たちに苛められるということもなく、社交界の奥様たちに馬鹿にされるということもなく。
エリアスのとっても分かりやすいお勉強会も楽しいし。
いやぁ、なかなか快適じゃない?
強いて言うなら、一人で趣味の狩猟をしようとしたときはエリアスに止められたくらい。
勉強のお礼に狩猟を教えてあげる! と言うと目を丸くしてついてきてくれたけど。
とりあえず、離婚した後のことの為に色々準備しないとね。
と、私は私で帳簿の勉強で脳を焼かれながらも、ちゃっかり市場の値動きまで覚え始めていた。
そんなある日――
「愛しの姫君が見つかった。少々早いが、お前には出て行ってもらう」
久しぶりに呼び出されたかと思えば、やはり私の顔も見ずに端的に物事を伝えてくるだけの旦那様。
「あら、おめでとうございます。わかりました。期間外なので――金額は上乗せしてくださいね」
「……は? 何を言っている」
「契約書に書いてございますわ。年限前の離縁は、違約金条項が適用されます」
私は、ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
――ええ、もちろん持ち歩いていますわよ?
人生の命綱ですもの。
ぱさり、と開いて見せ、指先で条文をトントンと叩いてやった。
あらあら、そんなに睨まないでくださいまし。
サインしたのは旦那様なのに、およよ。
「チッ、薄汚い奴め。わかった。離婚届と共に用意する」
「では、明日には出ていきますわ。よろしければ、実家に戻るついでに離婚届も提出しておきます。見届け人の従者をお付け願えますか?」
「明日? 随分と準備がいいのだな」
「ええ、いつ『姫君』が見つかってもいいように、荷造りだけはしておりましたから」
「ふん、そこだけは褒めてやろう」
うっせ、バーカ。
「では、エリアス。君が見届け人として明日、彼女に同行してくれ」
「かしこまりました」
およ、都合よくエリアスが通りかかってくれた。
あぁ、私のここ一年弱の救世主ぅ。
最後の日まで、私に寄り添ってくれるのね!
彼がいなければどれだけ退屈になっていたことか。
逆に言えば、彼がいてくれたおかげで「ここに来てよかった」と思える唯一の理由でもある。
私を透明人間みたいに扱う旦那様とは違って!
***
そして、しばらくの時が経った。
あの日の翌日――何はともあれ、私は無事に伯爵家とは縁が切れた。
それにしても旦那――いえ、元旦那様は『姫君』にはちゃんと優しく出来るのでしょうか。
なにせ『女性には優しくせねばならない』と言われるこの貴族社会で、あまりにも女性を軽視することを隠そうともしないのですから。
まぁ、そんなことを今更気にしても仕方ない。
私は私で、やりたかったことが実現できたのだから!
そう、何を隠そう念願の私の料理店!
お父様が治める小さな町でも、私が料理長を務めると言い始めれば意外と繁盛した。
どうやら前々から私が血まみれで帰った後、必ず濃厚な香気が屋敷から町に流れ出していたのが噂になっていたらしい。
「マリィ様の魔物料理!? そんなもの、ずっと食べたいと思っていたァ!!」
という感じで、さながら「待て」をされていた犬のように、私が作る料理をみんなが望んでくれたのだ。
父は「せっかくなら王都のど真ん中で高級料理店を!」などと言っていたが、「窮屈なのは嫌!」と一蹴してやるとすぐに大人しくなった。
だって、私は――賑やかなのが好きだ。
通りに面した一階をどん、と開け放ち、カウンターと長テーブルを並べた。
厨房は丸見え。火口は多め。換気は強め。
「料理人の顔が見えない店なんて、信用できませんもの!」
そして――この店の内装や、許可申請や、契約や、その他もろもろの手続きを総てしてくれたのは、私の救世主様、エリアスだ。
もう、何から何まで世話になりっぱなしで、エリアス様様である。
「マリィちゃぁぁん! テーブルが足りないよぉ!」
「うるさいですわお父様! 足りないなら自分で増やしてください! 拭き掃除もちゃんとやってくださいまし!」
「そんなぁ! これでも父、子爵だよ!?」
「マリィ様ァ! 串焼き十本追加で!」
「あ、はーい!!」
……そんな騒がしい夢みたいな日々の中、思いもしなかった客がやってきた。
「いらっしゃ…………」
「…………む」
入口で、この場に不釣り合いすぎる両手いっぱいの薔薇を抱えた身なりのいい貴族。
――元旦那様だと一瞬で気づき、思わず言葉を失ってしまった。
そして――
「ふぁ!? 何しに来たんですか!?」
「それはこちらのセリフだ! なぜここにいる!?」
お互いに予期しない出来事だったからだろうか、声が裏返った。
いきなりのことで、客の視線が全て彼に移る。
「いえ、なぜって……だってここ、私の店ですし……」
「……は?」
「慰謝料をたくさんいただきましたので。開業資金になりましたの。ありがとうございまーす」
軽く手を振ってやると、元旦那様の口があんぐりと開いた。
何言っているんだこの女――という顔。
そのまま返してやりたいわ。
「っ……まあいい! 私は用があって来たのだ!」
元旦那様は咳払いし、花束を抱え直す。
私は包丁を置いて、ゆっくりとカウンターから出た。
「ここに――マルグリットという可憐な女性が働いているはずだ!」
「…………私に、何か御用ですか?」
「あぁ!?」
「え? 今しがた私の名を呼ばれましたので」
というか、聞きなれない言葉が飛んできたな?
可憐? ――そんなこと、一度だって言われたことはないのに。
「お前が……?」
「えぇ、嘘だと思うのならどうぞ離婚届の書類でもなんでも見たらいいじゃないですか」
ていうか……何、この人?
仮にも元妻の名前も覚えていなかったの?
そりゃあ、確かに名前すら呼ばれたこともなかったし、初日の自己紹介すらさせてくれなかったけど。
けど……いや、そんなことある?
「おい、本当か!?」
言いながら、元旦那様は後ろを振り返る。
そこに控えていた従者は心底疲れた様子で、ため息交じりに頷いた。
おああ……なるほど、必死に伝えようとしたけど聞いてもらえなかったのね……。
なんかすごい伝わるわ。
そして同情するわ。
「……なるほど、つまり最初から私たちは引かれ合っていたのだな。やはりマルグリット、君こそ私の運命の姫君だ!」
「………………はい?」
突如出てきた言葉に、心底意味が分からなくて訊き返す。
あれだけ私には興味すら無かった元旦那様はしかし――今は頬をわずかに赤く染め、眩しいまでの笑顔でゆっくりと歩み寄ってきた。
「えなになになんですの!? めっちゃ怖いんですけれど!?」
「憶えていないか? 無理もない。十二年前のあの頃、君はまだ八歳と言っていたからな」
「十二年前!?」
元旦那様は、遠い空を見上げるように語り出す。
天井ありますけど。
「あぁ……十二年前の冬だ。伯爵家の招待で行われた狩猟会……君は、そこにいた」
「狩猟会?」
――あぁ、確かにそれは覚えてますわね。
人生の転機ですし。
思わず頬に手を当てる。
あの時の肉。香り。脂の甘み。煮込み料理の濃厚さ。
あれが私の人生の歯車を、完全に別方向へ回したのだ。
「人生の転機なので狩猟会は覚えてますわ」
「……そうだろう。そしてあれは、私の人生も変えたのだ」
……ん?
その言い方、なんか嫌な予感しかしないんですけど。
元旦那様は、なぜか恍惚とした顔になり、店内のざわめきなど存在しないかのように語り出す。
「私は本来、そのような野蛮な会には参加したくなかった。獣臭く、解体はおぞましく、貴族たる者がこんなことまで……などと考えていた」
花束を抱える腕に力が入る。
目の色が、妙に熱い。
「しかしある朝、私は本物の熱が心に灯るのを感じた。寒くて眠れなないまま朝を迎えた日、冬の朝霧の中――凍った湖畔に立つ、一人の少女に出会った時だ」
「ん~~~?」
私の記憶の片隅に、確かに冬の景色が蘇る。
野営が楽しくて、早起きして……うっすら白い息。冷たい空気。
湖面は薄氷に覆われ、朝霧が、ゆっくりと漂って――
……そういえば、そんなこともあったような?
そして、彼は恥ずかしげもなく続ける。
「霧に包まれた湖は鏡のようで、空の色と同じ灰青を湛えていた。その中で君だけが――まるで光を纏った白銀の小鳥のように、凍てつく世界に咲いた一輪の花のように……」
語彙が、重い。
そして痛い。
今この店内で展開するには、痛すぎる。
「まるで、氷の世界が私と君以外の時を止めていたような感覚……あれを、私は十二年間忘れられなかった」
「……えぇ……」
周囲の客が「なにそれ」「急にポエム始まったぞ」とざわざわし始める。
いや、そんなことよりこわッ!?
この人、そんな一瞬しか会ってない少女を、十二年も!?
「確か君は、その時静かに涙を流していたね」
「……泣いて?」
「そうだ。それを見た私は胸が裂ける思いだった」
裂けないでくださいまし。
「それもそうだ。あんな野蛮な狩猟界隈の中に、あれほどか弱い天使を連れてくるだなんて……辛かっただろう。寒かっただろう。今すぐ帰って、暖かな暖炉の側にいたかったはずだ」
――ん~、そんなことで泣いたっけ?
狩猟会は最高だったから、帰りたいって泣くのはありえない。
とはいえ、子供の頃に泣いた記憶なんて無限にあるし、その一回一回の理由なんて思い出せない。
けれど、もしもその状況で私が泣くとしたら――
「たぶんそれ、わたくし帰りたくなくて泣いてますわね」
ぽつりと言うと、元旦那様が固まった。
「……なに?」
「だって、料理は美味しいし、家事をしなくてもいいし。野営もとってもの楽しかったんですもの。帰るのが嫌で泣いたんじゃないかしら。それに、その日以降アルベルト様は私を見ましたか?」
「……いや、そこでの邂逅が最初で最後だったが」
ほら、じゃあやっぱり最終日じゃないの。
なんとなーく、帰りたくなくて駄々こねてたことも思い出してきたし……。
しかし元旦那様は咳払いし、強引に話を戻す。
「いや、強がらなくていい……誰にでも弱い部分はあるのだ。そして、その時の私にもっと勇気があれば、君をその場で攫って暖を用意してやれたのに……!」
攫うな。
自分で犯罪を語るな。
私は思わず後ずさる。
店内はというと、完全に見世物状態になっていた。
ああもう、最悪。
厨房も止まってるし、私が動けない分、無能父上が後ろであたふたして――
――パリンっ。
お父様ぁぁぁぁ割りやがったですわねぇぇぇ!?
叫びたいのをこらえて、私は目の前の元旦那様に向き直った。
「で? 用ってなんですの」
「どうか、私と結婚してほしい」
……あ、サブイボ。
「嫌ですけど!!!!」
反射で即答した。
「何故だ!?」
「何故って私、追い出されましたよね!?」
「それは君のことだと知らなかったからだ! 運命の人と分かっていれば!」
「知らなかったとしても、そもそも女性に冷たい方とはお断りです! 私の料理だって気持ち悪いと、おぞましいと言ったではないですか!」
「大丈夫だ。君なら私は優しく出来る。何よりも優先すると誓おう。君の好きなものであれば、否定的なことも言わない!」
なんだその一方的すぎる愛!
まず、嫌だって言ってるのに!
しかも否定的なことは言わないってなんだそれ、否定的な思いはあるんだろーが。
「そもそも私、アルベルト様と会った覚えなんてないんですけれど!?」
「気にするな! 私がちゃんと覚えている!」
客席から「うわぁ……」という声が漏れた。
父が「うわぁ……」という顔をした。
私も「うわぁ……」という気持ちだった。
私は歯を食いしばり、ギリギリ限界を突破しそうになりながら、言葉だけの圧を叩きつける。
「――いいですか。私は、あなたを愛することは絶対にありません!!! 元妻を透明人間のように扱い、私の好きなものまで全力で気持ち悪がってくる人への嫌悪感はどうやっても拭うことは出来ません!」
もはやお客さんのことなど気にせずに、辛辣に、この上なく湧き上がる嫌悪感と共に、私は言ってやった。
何を今更驚いた顔をしているのかしら?
そもそもこの人、私が今一度首を縦に振るとでも思っていたの!?
どうやって? 何を根拠に!?
「そもそも私には、愛してくれている――」
「マリィ。どうしたんだい? えらく揉めているようだけど」
追撃しようとした瞬間――入口から、落ち着いた声がした。
「エリアス!!」
私はほとんど反射で、彼に駆け寄って――その背に隠れるように抱きついた。
あぁっ、私の救世主様ッ。
いつも私がイライラしてる時に来てくれるっ!
もう好き好き好き。
「あぁ、これはこれは旦那様でしたか。ご無沙汰しております」
「……エリアス。お前が、どうしてここにいる」
アルベルト様の表情は、氷点下まで冷えているようだった。
「ご挨拶が遅れましたね。実は伯爵家をお暇させていただいてからは――マルグリット・ドルドワ令嬢と正式に婚姻させていただき、現在はこの店の運営を陰ながら支える身にございます」
……あ。
きゅん。
「な……に……?」
私は、エリアスの背後から顔を出し、にっこり笑って言ってやった。
「はい。私の救世主様ですので」
アルベルト・フォン・グランディオスは、花束を抱えたまま固まっていた。
目が、泳いでいる。
頬が、引きつっている。
口が、半開きで「な……」の形のまま閉じない。
あらあら。
氷点下の礼節が、今まさに解凍されて溶け出しておりますわよ。
「……エリアス」
ようやく声が出た。
「お前が、私の執事で……それが、何故……」
視線が、私とエリアスの間を行ったり来たりする。
うんうん、わかるわ。
あなたの脳内ではきっとこうよ。
――妻は道具。
――執事は家の道具。
――道具が勝手に結びつくはずがない。
ね?
でも現実は、道具扱いしてた方が道具に置いていかれただけですわ。
「念のため申し上げますが、私は“旦那様の所有物”ではございません」
エリアスは丁寧なまま、しかし容赦なく言った。
「私は伯爵家に仕え、契約により職務を遂行しておりました。ですが、マリィとの婚姻解消後、私は退職の意向を申し出、正式に受理されました。――その後の進路は、私自身が選びます」
アルベルト様の口元が、ひくりと痙攣する。
「……何故だ」
「何故?」
エリアスが少しだけ首を傾げた。
その仕草が、あまりにも“執事”で――
それでいて今の彼は、もう伯爵家の執事ではない。
「簡単です。私は――この方に、必要とされたからです」
……うわ、刺さるぅ。
私は胸の奥が熱くなるのを感じて、つい抱きつく腕に力を入れた。
そしたらエリアスが、私の頭の上に手を置いて、さらっと撫でてくれる。
自然に。
当たり前みたいに。
ぎゃっ。
私の心が、ウェルダンで焼けた。
「旦那様と別れた後のマリィが気になりまして、元々もありましたが、色々と相談に乗っているうちに惹かれました。旦那様が気持ち悪いと言ったマリィの好きなものも、私にとっては魅力的だったのです」
いや、本当は私が伯爵家にいたころから、何かと気にかけてくれていて、私も色々と気を配ってくれるエリアスに惹かれていったのだ。
だから本当は"屋敷にいたころから"なのだけれど。
そういうことを言ってしまうと不貞だと思われてしまいかねないので、 ここですらりと無難な言い訳を作ってしまうところがさすが私の旦那様!
しかもそうよね。
私の好きなものを好きと言ってくれる人がやっぱり好き。
子爵家に婿入りしてくれてからは、毎日が楽しくて、好きなものに包まれながら家族みんなで奮闘中なのである。
だから、元旦那様に構っている余裕なんて一ミリもない。
「なので――私は、妻・マルグリットをもう逃がさないと決めました」
「エリアスと引き合わせていただいたことだけは感謝しております」
「「元旦那様」」
そう声を揃えて言ってやると、元旦那様はゆっくりと後ずさる。
さっきまで“運命”を叫んでいた人間とは思えないほど、頼りない足取り。
その足が、床の段差に引っかかり――
「っ……!」
よろ、とよろめいて、花束が腕から滑り落ちた。
薔薇が床に散らばる。
赤い花が、店の土の床に転がって、なぜだかひどく滑稽だった。
「……私は……私は……」
アルベルト様は顔を覆い、ただ立ち尽くす。
そこへ、従者がそっと近づき、低い声で囁いた。
「……旦那様。戻りましょう。これ以上は……」
アルベルト様は、唇を噛んだまま、頷いた。
そして――ヨロヨロと、敗走するように店の扉から出ていった。
……終わった。
「……なんだか、さすがに言い過ぎたかな。仮にも元旦那様に……」
玄関先に捨てられていった薔薇の花束を拾いながら、旦那様は呟いた。
いや、あれくらいがいいんじゃないかしら?
尊厳を踏みにじられ、蔑視されてきて、今更愛せる訳もないし。
ああでも誰かに言われなければ、きっと傷つくのは金で買われた次の妻なのだ。
店内は、妙な静寂――いや、違う。
何故か湧き上がるように、拍手が起きていた。
「皆さま! お騒がせし、申し訳ございませんわ! 今日は特別に――一杯無料でサービスさせていただきますわ!」
「おおおお!!」
「お父様がっ!」
「えぇぇぇぇッ!?」
「エリアス、例の樽、開けられる!?」
「もちろん」
客たちが笑う。
父が泣き笑いで皿を拭いている。
店内に、肉の焼ける音が戻る。
「ねぇ、私、今とーっても幸せ」
その言葉に、旦那様が頬に軽く口づけしてくれた。
店内は歓声どころか喝采だ。
あの方も、次の方とはこんな恋をできたらいいのにね。
――と思えるのも、今エリアスが私のことを心から愛してくれている余裕があるからだ。
まぁ、本音を言えば、あの男が簡単に悔い改めるとは思いませんけどね。
さて、次はどんなことを旦那様としましょうか。
THE END
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最後の写真は異世界で出てきそうな料理が作りたーい!
と思い立って三種のお肉を使った『食べる』スープです。(マリィが作りそうなやつ)
王国風味な料理っていいですよねぇ~。
異世界ファンタジーの宿とかで出てきたら嬉しいなって思いながら、そんな料理好きな女の子を主役にしてみました。
(しかし実際貴族が大衆食堂なんかしたらスキャンダル級だが、まぁ魔物とかいるしご愛敬で←)




