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欲の部屋

 ーーいいじゃん。


 改めて新居を眺めて私は満足感に浸っていた。入居するまではそれなりに不安もあったが、住めば都という心強い言葉もある。ここが私のこれからの都となる。永住するわけではないだろうが、少なくとも数年はお世話になるつもりだ。


“はい、事故物件ですよ”


 それでも不動産屋がなんともなしにあっさりと口にした言葉が頭をかすめる。

 

 ーー大丈夫よね。


 内見した時も今も、部屋からそういった嫌な空気は一切感じない。気にしたら負けだ。


「よし」


 わざと口に出し自分を勇気づける。

 自分が決めた事だ。後悔はないし、してはいけない。







 新卒で入った前職はそれなりの給与を与えてくれた。だがそれでは賄いきれない程の時間、体力、精神を日々むしり取られる激務だった。

 課されるノルマ、叱咤激励という名の罵詈雑言、雑多で煩雑な事務作業。癖だらけでこちらの感情を踏みにじる客達の無茶な要望やクレーム。気が休まる時など一瞬もなかった。休みの日でも容赦なく社用携帯は鳴り響いた。


 それでも三年はと思い働き続けたが、これ以上は得るものより失うものの方が多すぎると退職に踏み切った。根性なしだとか散々言われたがどうでも良かった。もはやその程度の罵声では何も感じなくなった心に思わず苦笑した。


 得られたはずの賃金もいざ仕事を辞めてみれば唖然とした。仕事で忙殺される中、そのストレスを発散せんとばかりに生活の中で物の値段を気にすることなく買い物をしていた。当時その事を全く気にも留めていなかったが、今になってその事に気付かされた。

 これで自分はなんとかバランスを保っていたんだ。結局自分には何も残っていないのだと一人暮らしの部屋の中で愕然とした。


 ありがたい事に転職先はすぐに決まった。ただ給与は以前に比べかなり下がった。それでも良かった。自分の心身を優先した結果だった。しかし現実的に金銭面の問題は大きな課題となった。そこでなるべく安い部屋を探していた所でこの物件を見つけた。


 築三十年の三階建てのアパートの一室。五年程前にリフォーム済みで間取りは2LDK。駅から徒歩五分で家賃はなんと三万という破格の格安物件だった。


「事故物件ですか?」


 信じがたい条件に思わず尋ねると、


「はい、事故物件ですよ」


 馬淵という男性職員は内容にそぐわない爽やかな笑顔で答えた。


「でも、女性の方なら大丈夫ですよ」

「どういう事ですか?」

「男だったら100%死ぬんで」


 と、馬淵はなおも笑顔を崩さなかった。

 馬淵が言うに過去三人この部屋に男性が住んだが、どれも一か月以内に自殺や事故や不審死で亡くなっているという。そこで大家から値段を下げる事と共に”女性だけ”という入居条件を加えた所、そこから一切死人が出なくなったそうだ。


「住まれた女性の方達は特に何もなかったんですか? 死にはしなくてもそれ以外の何か」

「まあ何もない事はないですよ。それが怖くて住めないといった方も実際いましたし。でも相性が良ければ長く住まれる方もいらっしゃいましたよ」

「そうですか……」

「とりあえず見てみますか? 何はともあれ部屋自体は我々も自信を持っておススメ出来ますから」


 馬淵の言った通り、実際に部屋を見せてもらうと一目で気に入った。それなりの心霊現象は覚悟しておいた方が良いかもしれないが、条件としては申し分ない。ここにしようと心の中ではほぼ決まりだった。


「おや、次に住まわれる方かい?」


 恵比寿さんのような笑顔を浮かべながら、ふくよかで温和なおじさんが声を掛けてきた。


「いえ、まだ今日は内見で。あ、こちら大家の湊さん」

「そうかい。ここは良い部屋だし気持ちよく住めると思うよ」


 と湊は朗らかな笑顔を向けた。優しそうな大家さんがいる事も決め手となり、結局私は即決した。




 



 ーーマジか。


 覚悟を決めたはずだったが、まさか住み始めた初日で金縛りに遭うとは思っていなかった。全身が鉛の塊のように重くまるで自由が効かない。ただこの程度で恐怖は感じなかった。前職で激務のせいかその頃から幾度か金縛りを経験していた。簡単に言えば金縛りの原因は疲れだ。心霊現象でも何でもない。理不尽な上司や客達の方がよっぽど怖かった。とはいえ、事故物件であるという事に多少の不安を感じたその時だった。

 

 とん、とん、とん。


 フローリングの床を鳴らす足音が聞こえた。足音は私の寝ているベッドの方にどんどん近付いてくる。幻聴ではない。私の部屋に誰かがいる。

 

 足音はベッドの横でぴたりと止まった。金縛り状態ではあるが瞼だけは自由が利きそうだった。ただ開けられるわけがなかった。というより開けずとも分かるが故に開けたくなかった。

 男がじっとこちらを見ている。まるで値踏みするかのようにじとっとした視線を頭からつま先まで向けている。


 ーー消えろ消えろ消えろ。


 声が出せないので頭の中で必死で念じてみるが何の効力もなく男の気配は消えない。それどころか更に気配は濃くなり、ぐっと私に顔を近づけてきているのが分かった。生暖かい空気が耳に当たる。まるでこちらの反応を楽しんでいるようだった。


 良い部屋? 気持ちよく住める?

 どこがだ。最悪じゃないか。覚悟していたとはいえ、初日からこんな目にあうとは。

 恐怖に固まった身体は震える事すら許されなかった。夏場故にタンクトップにショートパンツという露出の多さが更なる仇となった。無抵抗な私の肌をすぅっとつま先からふくらはぎにかけて指が触れる感触が伝っていく。

 ぞわっと鳥肌が立った。指は太ももまで伸び肉感を楽しむようにゆっくりと揉みしだいた。


 ーーまさか、色情霊か?


 それを証明するかのように指はどんどん身体をまさぐっていく。足から腹と身体を昇っていき、両胸を包み、先端を摘まみ優しくこねていく。

 そう、優しい。恐怖に混じるなんとも言えない別の感情の正体が掴めなかったがようやく理解できた。やけに男の触り方が優しいのだ。いや、もう正直になろう。

 

 気持ちいい。男の指に私の身体は喜びを隠しきれなかった。

 始めいやらしく感じた指の動きは、フェザータッチと呼ばれる天使の羽で撫でられるような幸福感を纏い私を包んでいく。


 ーーなんだこいつ。


 某ラップ芸人の相方の決まり文句が思わず飛び出しそうだった。

 恐怖の鳥肌は快感の鳥肌に変わり、ぞわぞわと高揚感と共に身体の内側がどんどん火照っていく。

 

 こんなの初めてだ。生身の男性との行為でもこんな快感を得られたことはなかった。指先だけなのに労わりと慈しみに溢れたタッチだけで既に脳がふやけそうになっている自分がいた。


 ーーもっと、もっと。


 恐怖はとっくに消え、快感の渦に飲み込まれたい欲望が剥き出しになろうかという最中、急に指の感触と男の気配が一瞬にして掻き消えた。


「え?」


 思わず声が漏れ、そのタイミングで縛られた身体に自由が戻った。しばし呆然とした。時間を見れば深夜の三時だった。

 痺れた脳と全身に残る感触は紛れもなかったが、唐突に全てを断ち切られた事で夢か現実か、全てが途端に曖昧になった。自分の身に起きた今しがた起きたことは一体何だったのか。ただ夢であれ現実であれ、私の中に残っているのはどこまでも素直な欲望だった。


 もっとして欲しい。

 不気味で不確かな存在に求めるのは大間違いなはずの感情だけが確かに残った。







 甘美で衝撃的な初夜から謎の存在による愛撫は毎日続いた。

 私の本能を感じ取ったのか、それとも自らの欲望をただ満たそうとしているだけなのかは分からない。日中常識的な思考回路が働く間は恐怖や不安を思い出した。一体あれは何なのか。普通に考えればそこはかとなく不気味で危険な存在だ。恐怖するべき対象だ。分かっているはずなのだが、無抵抗の身体をあの指が這った瞬間全てがどうでも良くなった。


 もはや恐怖はなかったが触れられている間に目を開ける事はしなかった。何となくだが、目を開けて男の存在を見た瞬間に、この至高の快楽の時間が終わりを迎えてしまうような気がしたからだ。


 そうやって最初二週間が過ぎたが、焦らすかのように局部だけは全く触られなかった。鼠径部をなぞり期待だけさせて肝心の部分にはノータッチ。じれったさに余計に身体が疼いてしまい、結局金縛りから解放されると自分で慰める羽目になり恥じらいと惨めさを感じながら果てる日々が続いた。


 しかし全てを見透かしたように、一か月が過ぎた所で丁寧なタッチをかなぐり捨てていきなり局部を攻めたてられた。予想外の不意打ちに私は一瞬にして絶頂した。

 何てことだ。腹が立つ思いと恥ずかしさとやっと触れてくれたという喜びが綯い交ぜになり身も心もぐちゃぐちゃだった。


 この部屋に巣食う悪霊は恐ろしくろくでもなく、そして途轍もないテクニシャンだった。事故物件と聞いてどんな恐ろしい目に遭うかと身構えていたが、よもやこんなやり口で迎えられるとは。


 ここに来て色々な事が自分の中で繋がり始めた。

 

“でも、女性の方なら大丈夫ですよ”

“男だったら100%死ぬんで”


 馬淵との会話。部屋の条件について確認した際、女であれば大丈夫と言われた理由。そして男では絶対にダメな理由。

 死してなお女の身体を求めるこの部屋の悪霊が男など求めるはずもない。さっさと出ていけとばかりに殺してしまうのだろう。そう考えるとやはり恐ろしい存在である事は間違いない。

 

“まあ、何もない事はないですよ。それが怖くて住めないといった方も実際いましたが、相性が良ければ慣れて長く住まれる方もいらっしゃいましたし”


 相性なんて上手く言ったものだ。きっと部屋との相性ではなく悪霊との相性の事を言っていたのだ。そして恥ずかしながら、これが癖になってずっと住みたくなるという気持ちも分からなくはない。


“そうかい。ここは良い部屋だし気持ちよく住めると思うよ”


 湊が残した言葉も今思えば意味深だが、馬淵の口振りと合わせれば大家である彼が知らない方が不自然だ。きっと全てを知っているのだろう。となると、毎晩私が悪霊にいいようにされている事を二人も承知の上という事になる。なんという辱めだ。

 

 しかし、今の所ここを離れる気はなかった。部屋は確かに良いし立地も駅近で利便性も高く家賃もリーズナブル。それでいて極上の性の悦びまで提供される。

 確かに相性さえ良ければ、ここは女性にとって最高の物件だった。







 暮らし始めて三か月が過ぎた。

 毎晩の営みは相変わらず至高で、この頃には指だけではなく明らかに男性の象徴とも思われる硬いもので私の中は満たされるようになっていた。体温がない不思議な感覚を除けば、紛れもなく行為自体は生きた男性と同じ感触だった。


 しかし夜の満足感とは別に日常生活では色々と支障が生じていた。

 まずは身体的疲労。毎晩のように行われる営みは若い肉体とはいえ次の日に疲労を残した。しかしそれよりも支障があったのは日中ですら常に頭の中で彼を求めるようになり、業務への集中力が著しく奪われている事だった。

 前職とは違い簡単な事務仕事なので淡々とこなせば問題ないレベルのものなのにミスが続くようになった。おまけに同僚や上司からは顔色が悪い、やつれているなど体調を心配される言葉をよくかけられるようになった。これは少しまずいかもなと思いながらも、大丈夫ですと応え生活を変える事はなかった。


 ただもう一つ別の問題があった。

 ある日ポストを開けると宛名も何もない封筒が入っていた。開けて見ると簡素な紙に、『早くその部屋から出た方がいい』と書かれていた。

 

 気味が悪いなと思い無視したが謎の投函は続いた。たいてい内容は同じだったが、しばらく続くと『一度話がしたい』と携帯の番号が添えられたものも入れられた。もちろん怖くて連絡を取る事はしなかった。

 湊にも相談し、日中変な人物が来ていないかと尋ねたが特には見ていないと言われた。こちらでも警戒しておくので何かあったらまた私か馬淵にまず相談して欲しいと言ってくれたのでそれを頼りにさせてもらう事にした。


 一体誰が。内容からするとこの部屋の事情を知っていると思われる。という事は元住人関連だろうか。しかしなぜわざわざ警告を残すのか。

 不気味だと思いながらも紙を捨てなかったのはやはり私自身気になっていたからだろう。それに、自分と同じ体験を共有している人間と話してみたいという感情もあった。

 思案の末、一度は無視した携帯番号に発信した。


『……はい?』


 電話口から女性の声が聞こえた。


「あなたですか。私の部屋に変な封筒を入れたの」


 瞬間、あっと電話口から小さな声が漏れ聞こえた。この女がやはり犯人のようだ。


「どういうつもりなんですか?」


 無駄話は必要ない。私は単刀直入に尋ねた。


『そこに住んでどれぐらいになるの?』


 がさつな物言いと声音ではあったが、自分とさほど年齢は離れていない若さのある声だった。しかし初めて喋る人間にため口とは。妙な封筒を遠慮なく入れるような人間なら当然かと呆れながらも納得した。


「三か月は経ちましたけど」

『じゃあすっかりあんたも沼っちゃってるわけだ』


 どこか得意気な口振りが癪に障ったが、今の発言からもやはりこの女は部屋の事は知っているようだ。この女と感情を共有する気は全くなかったが、女の意図は確認しておく必要がある。


「話がしたいって、一体何を話したいんですか?」

『もう夜だから焦ってるの? 大丈夫よ。十二時超えないと彼現れないから』

「焦ってません。早く要件を言ってください」

『……何。今気に入られてるのは自分だからって調子乗ってるわけ?』


 ーーこの女、まさか。


 話をしたい理由になんとなく察しがついた所で電話を切りたくなった。この女と話す価値はおそらくない。だが滑稽な女の言葉を聞くのも面白そうだと思い電話を続けた。


『あたしはそこで一年以上住んだの。彼とはとても相性が良かったらからね。本当はもっとずっと一緒にいたかったけど、仕事の事情があってどうしても離れざるを得なかった。でも間違いなく彼にとっても私が一番だったはずよ。だって一年間毎日私を求め続けてくれたもの』


 やはりそういう事か。毎日求められてなんて言うがそれは私も同じだ。何を勘違いしているのか。彼に魅了され溺れる理由は共感出来るが、部屋を離れた女に今更何の権利もない。


「出ませんよ」

『はぁ?』

「あなた、また彼に抱いてもらいたいんでしょ。だから私に出て行って欲しいんでしょ。早くその部屋から出た方がいいなんて意味深な言い方をして不安を煽って。最初からストレートに言えばいいのに。我慢出来なくておかしくなりそうだからどうか部屋を譲って下さいって」

『……調子に乗るなよ。あんたに私の居場所は分からなくても、私にはあんたの居場所が分かるんだから』

「何? 殺してでも奪うつもり? だいぶご無沙汰なのかしら」

『……は、はは。あはははは』


 何がおかしいのか女が急に笑い声を上げた。


『あんたさ、ちゃんとその部屋の事分かってるの?』

「どういう意味?」

『分かってないんでしょ? 本当に覚悟出来てる? その部屋に住み続ける覚悟を』


 意味深な言いぶりでまた煽るつもりか。芸のない女だと思いながら確かに分かっていない事は色々とある。文字通り目を瞑っているので彼の姿を未だ見たこともない。


『もしかしてちゃんと彼を見たこともないんじゃない? ただされるがままで、それで彼の事を満足させられるわけ? 人形相手に腰振ってちゃ彼も面白くないでしょうに』


 負け犬の遠吠えに過ぎない。それでもちくりと心が痛む。私にとって彼はもはや、性欲を満たすだけの存在ではなくなっていた。


『さっさと出てけよマグロ女』


 吐き捨てるように言われ電話は切られた。

 どこまで言っても自分を慰めてもらえない女のちっぽけでくだらない嫉妬に過ぎない。しかし彼女が言うように私は確かに何も知らなすぎる。生来の気質もあるが、あまり物事に深入りして考える癖がなかった。自分にとって不利益も感じなかったので、この部屋の事を探ろうという気がまるでなかった。

 

 正直この部屋の詳細は今でもそこまで重要に感じなかった。ただ向けられた嫉妬のせいで私の中にも嫉妬の炎が静かに燃え始めていた。

 彼女は彼の顔をきっと見ている。私はまだ一度も見ていない。見たら消えてしまうという怖れがあったから。だが彼女はその怖れを超え、彼の顔を知っている。この点だけは悔しいがあの女の方が上だ。でもおかげで分かった。

 

 目を開いても彼は消えない。

 それならば、彼の顔を見てみたい。







 朝になり昨晩の交わりを思い出す。今まで得られたのは肉体の悦びだけだった。だが今朝になっても残る余韻はこれまでのものとは圧倒的に違っていた。初めて見た彼の姿に私の心はしっとりと囚われていた。 


 正直どんな悍ましい姿がそこにあるのか不安も大きかった。覚悟を決めゆっくりと瞼を開いた。

 そこにいたのはあまりにも平凡な男だった。およそ女遊びをするようなちゃらついた見た目とは真逆の誠実そうな男。歳は三十前半ぐらいだろうか。飛びぬけて見た目が良いわけでもなかったが悪くもない。

 それがまた良かった。私を虜にした優しく艶めかしい指使いや荒々しく突き立てられ絶頂を繰り返した性技の数々をこんな素朴な男性にされていたのかと思うとぞくぞくした。


 その日を境に金縛りがなくなった。されるがままの日々から自由を与えられると営みの重厚さはより増した。今までのお礼とばかりに私も奉仕した。やはり彼に一切の温度はなかったし体液も存在しない。彼が死人である証拠に切なさを覚える日もあったが、それでも果てた瞬間にとろりと私の中に流れ込むあるはずのない感触がたまらなく愛おしかった。

 

“あんたさ、ちゃんとその部屋の事分かってるの?”


 あの女への嫉妬は消えた。だが引っ掛かるものは残っていた。

 この部屋の事。彼は何故死んでなお生きた女を抱き続けているのか。


 彼の事を知りたい。

 事故物件を深堀しても恐怖が増すだけだと今までわざわざ触れてこなかった。

 しかしここに来て、私は初めて自らの意思で本当の彼を知る為に部屋の事を調べる事にした。


 





 

 まずはここが何故事故物件扱いとなっているのかを調べてみた。今では事故物件の情報を扱う専用のサイトがあるので簡単に調べる事が出来る。この部屋に一体どんな過去があったのか。

 

 調べるとすぐに情報が出てきた。ここでは三人の男性が死んでいた。首吊り自殺、手首を切っての自害、風呂場での謎の溺死。気のせいだろうか急に寒気がしだした。実際に人が死んでるという事実はやはり気分の良いものではない。しかも三人全員が自殺や不審死となれば立派な曰くつきと言えるだろう。

 男は絶対に死ぬ部屋。あまりに待遇が違い過ぎる。改めて自分が女性で良かったと思った。


 この三人の中に彼がいるのだろうか。ネットや資料を漁り、その甲斐あってそれぞれの名前と顔情報になんとか辿り着いた。しかし結果は虚しく三人共彼ではなかった。

 

 彼は一体何なのか。この部屋の曰くと無関係ではないはずだ。

 どうしてこの部屋は事故物件となったのか。その始まりまで遡る必要がある。


 次にこのアパート近辺で起きた事件が何かないか調べ直した。

 するとすぐに一つの事件が見つかった。その瞬間思わず声が漏れた。


 連続女性監禁事件。

 犯人の菅谷政伸すがやまさのぶは五年に渡って四人の女性を部屋に監禁し暴力や性的な行為により女性を支配した。暴力による恐怖と辱められた姿を写真や動画に残す事で口封じを行う卑劣な手段を常套としていたが、四人目の女性が勇敢にも脱出し警察に駆け込む事でようやく事件が露呈し菅谷は逮捕された。女性は助かったものの左足を刺され後遺症が残る形となった。

 

 この事件が起きた場所がこのアパートであり、毎晩私を抱いている男こそ菅谷だった。

 なんて事だ。虫も殺さぬような善良な見た目からはまるで想像のつかない凄惨な事件を起こした犯人が、まさか彼だったなんて。


 そういう事かと納得しかけたが、一点疑問が残った。

 菅谷は終身刑だった。調べた限りでは彼が死んだという情報は出てこなかった。

 彼はまだ生きている。生きてなおこの部屋に現れ続けている。


 ーー生霊。


 ある意味死霊よりも性質が悪い。生々しく残った彼の念はいまだにこの部屋で自分の欲望を満たし続けている。欲望の邪魔となる男は徹底的に排除する。


“分かってないんでしょ? 本当に覚悟出来てる? その部屋に住み続ける覚悟を”


 覚悟していたつもりだった。だが知ってしまってはもう無理だ。

 最悪だ。ここは普通の事故物件ではない。何より恐ろしいのは、そんな男と知らず嬉々として抱かれ続けた自分自身だ。すっかり私の身体は彼によって汚され尽くしていた。

 

「うっ……」


 途轍もない嫌悪感が胃を押し上げ、我慢出来ずトイレに吐き散らした。

 どいつもこいつも異常だ。私も、事実を知った上でなおもこの部屋に執着するあの女も、そしておそらく全てを知りながらもこの部屋を貸し続ける湊と馬淵も。

 

 ーー出よう。


 ただより怖いものはないと言うが、安い物件にはそれなりの理由がある。

 すぐに私は退去の旨を伝えた。その日から部屋には戻らず、ホテルやネカフェでしのぎながらその間に新しい部屋を見つけ、逃げるように去った。

 しかし最終日、会う気はなかったが湊とばったり鉢合ってしまった。


「残念です。楽しまれてたようだったのに」


 そう言いながら微笑む湊の笑顔はたまらなく気持ち悪かった。







 それからすぐ別の部屋を見つけ暮らし始めた。家賃は前の1.5倍で部屋の広さや利便性は下がったが、何も起きない普通の部屋なだけで十分だった。


 どうかしていた。あの部屋の出来事は今となれば長い悪夢のようだった。あんな部屋で快楽に溺れていたのも、あの男の悪しき魂と触れ続けてしまったせいでおかしくなっていたのだろう。思い出す度に自分がどこまでも情けなく恥ずかしくなった。




 数か月後、湊と馬淵が逮捕されたと知った。

 私が住んでいたあの部屋に盗聴器をしかけていたそうだ。

 自殺が相次いだ後、リフォームを済ませ女性だけを入居させるようになったタイミングから盗聴を行い、その音声を二人で共有し楽しんでいたという。

 

“残念です。楽しまれてたようだったのに”


 あの時は気にも留めなかったが、どうしてあんな言葉が吐けたのかは部屋の様子をずっと聞いていたからだったのだろう。

 

 女性を性のはけ口として道具のように扱い続けた菅谷。

 菅谷の生霊へ贄のように女性を与え、そのおこぼれに預かっていた湊と馬淵。

 

 ーー気持ちの悪い生き物。


 それ以降、私は男性という生き物に対して一切の興味が失せた。

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