記憶の紅茶、約束の香り
それは、大学三年の初秋。ゼミの初日だった。
緊張で湿った手のひらを袖でぬぐい、私は重い扉を押して研究室に入った。
その瞬間、ふわりと香りがした。柑橘の爽やかさと、紅茶の深い香ばしさが溶け合った、温かく上品な匂いだった。
「——あ、新しいメンバーの子だね。おはよう」
声の主は、窓際の席でカップを手にしていた先輩だった。
陽だまりのなかで微笑むその人の周りに、香りは静かに漂っていた。
「アールグレイ、好き?」
突然の問いかけに戸惑って、私は首をかしげる。
先輩は、困らせないようにとでもいうような優しさで、笑みを返した。
「僕、コーヒーが苦手でさ。だから、いつも紅茶。意外と好きな人、少ないんだけどね」
「……私も、紅茶、好きです」
それは嘘ではなかった。
けれど、アールグレイという名前を知ったのは、その日が初めてだった。
「そう? 今度一緒に飲もうか。美味しい淹れ方、教えてあげる」
彼の名前は、ソウタ。経済学部の四年生で、卒論のテーマは地域経済の活性化。
穏やかで、後輩思いで、センスがよくて——私のような平凡な三年生には、まぶしい存在だった。
◇
「カナちゃん、紅茶淹れるから、ちょっと待ってて」
ゼミ後の静かな教室で、ソウタさんは小さな電気ポットで湯を沸かしていた。
夕日が差し込む窓辺で、ティーバッグを丁寧にカップへ沈める姿が、絵のように見えた。
「ミルクティーにする? それとも、ストレート?」
「……ミルクティーで、お願いします」
温かいミルクが注がれると、紅茶はやわらかなベージュ色に変わった。
立ちのぼる湯気とともに、あの香りがそっと包み込んでくる。
「どう?」
初めて飲んだアールグレイのミルクティーは、想像以上にやさしい味だった。
ベルガモットの香りが鼻を抜けて、ミルクの甘さが静かに残った。
「……美味しいです」
「よかった」
ソウタさんは、カップを両手で包みながら目を細めた。
「うちの母が、紅茶好きなんだ。小さい頃から、よく飲んでてさ。アールグレイは、母の香りみたいなもの」
「香り……ですか」
「うん。母がよく言ってたんだ。アールグレイは“記憶の紅茶”なんだって」
少し、遠くを見るような目をしていた。
「この香りを嗅ぐと、大切な人や時間を思い出すって。……だから僕も、大事な時間には、必ずアールグレイを飲むようにしてる。この香りと一緒に、いい記憶を残したくて」
窓の外、夕暮れが静かに落ちていく。
私たちは、黙ってカップを傾けた。その時間がどれほど特別だったか、そのときの私はまだ、気づいていなかった。
◇
大学四年の春。
就職活動で忙しくなったソウタさんとは、なかなか顔を合わせられなくなった。
それでも、ゼミ後の教室で、たまにふたりきりになることがあった。
「カナちゃん、卒論のテーマ、決まった?」
「……まだです」
「そっか。去年の僕も、最後まで悩んでたよ」
そう言って、ソウタさんはまた紅茶を淹れてくれた。
「今度、面接で大阪に行くんだ」
「大阪、ですか」
「うん。うまくいったら、来年から向こうで働くことになる」
カップを持つ手が、ほんのわずかに揺れていた。
大阪。その地名に、胸の奥が静かにざわめく。
「寂しくなりますね。ソウタさんがいなくなると」
「カナちゃんも、来年は就活で忙しくなるさ」
その日の紅茶は、いつもより少し苦く感じた。
甘めにミルクを足しても、胸の奥の渋みは、うまく紛れなかった。
◇
ソウタさんの卒業式の日。
咲き始めた桜のなかで、最後の紅茶をふたりで飲んだ。
「これ、カナちゃんに」
小さな紙袋を手渡された。中には、缶入りのアールグレイが入っていた。
見たことのない、少し高級そうなもの。
「いつものより、ちょっといいやつ。一人でも、美味しく淹れられるから」
「……ありがとうございます。でも」
「でも?」
言いかけて、私は口を閉じた。
一人で飲む紅茶に、どんな意味があるのか——本当はそう、言いたかった。
「……何でもありません。大切にします」
「元気でね、カナちゃん。また会えたらいいな」
「……はい」
ソウタさんは、静かに笑って、桜並木の向こうへ歩いていった。
私の手の中に、紅茶の香りだけが、やさしく残っていた。
◇
それから三年。
昼休みの表参道。
パン屋へ向かう途中、ふいに足を止めた。
すれ違いざまに鼻先をかすめた、あの香り。
あたたかいミルクと、ベルガモットの甘くやわらかなアールグレイの匂い。
(……懐かしい)
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
夕暮れの教室。差し込む光。湯気の向こうにいた、あの人の横顔。すべてが、一瞬で戻ってくる。
つい目で追ってしまったのは、トレンチコートを羽織った男性の背中。
白い紙袋と、タンブラーを持つその姿に、どこか覚えのある静けさがあった。
(まさか……)
彼が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
人混みのなか、なぜかはっきりと目が合った。
「……カナちゃん?」
——やっぱり。あの声。少し大人びた表情。
「……ソウタさん?」
そう呼ぶと、彼はふっと笑った。まるで、それが合図だったかのように。
「こんなところで会うなんて。今、近くで働いてるの?」
「うん。この春、転勤で戻ってきたばかり」
彼は、タンブラーを掲げて冗談めかした。
「たまたま紅茶、買いに来てただけ。……まだ、飲んでるよ。アールグレイ」
その一言で、胸がじんとした。
懐かしさと、変わらないものがそこにあったことへの安心と——言葉にできない何かが混ざる。
「覚えてます。ソウタさんの香り……ゼミ室で、よく漂ってました」
「……覚えててくれたんだ」
少し照れたように笑ったその声に、私の記憶もまた、静かに答えた。
「実は……あの時もらった紅茶の缶、今でも大切に持ってるんです」
「ほんとに?」
「時々、一人で飲んでます。そしたら、あの教室のことを思い出すんです」
ソウタさんは、目を細めてうなずいた。
「僕も……アールグレイを飲むたびに、思い出してたよ。夕暮れの教室と……カナちゃんとの時間」
目が合った。言葉がなくても、想いが伝わる気がした。
少し風が吹いた。
彼のコートの裾が揺れて、香りがふわりとまた、漂った。
「今、少し時間ある?」
「……あるよ」
気づけば、ふたり並んで歩き出していた。
「じゃあ、その紅茶のお店、案内してくれる?」
「もちろん」
歩幅が自然と合って、靴音が静かに重なった。
通りのざわめきが、少しだけ遠ざかる。
「あのね、カナちゃん」
ソウタさんの声が、落ち着いていて、けれどどこかためらいを含んでいた。
「大阪にいた間、ずっと思ってた。……あの時、もう少し勇気があればって」
私の胸が、小さく跳ねた。
「卒業式の日、本当は伝えたかった。でも、君が新しい場所へ進むタイミングで、足を引っ張りたくなくて……言えなかった」
彼は立ち止まり、私の方をまっすぐ見た。
やわらかくて、真剣なまなざしだった。
「今度こそ、ちゃんと言いたい。……もう一度、一緒に紅茶を飲みたい。今度は、気持ちを隠さずに」
——たったそれだけの言葉なのに、ずっと待っていたような気がした。
喉がつまって、言葉にならなかった。
けれど、心はすぐに追いついた。
「……私も。いつかまた会えたらって、ずっと……」
まばたきをして、涙をこらえる。
「会えて、よかったです」
ソウタさんが、小さく笑った。
「うん、俺も。……香りって、すごいね」
「記憶の紅茶、ですね」
「まさに。今度は、ふたりでゆっくり飲もう」
午後の光のなか、ベルガモットとミルクの香りが、やさしく背中を押していた。