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無尽戦記続  作者: のん野
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バシンスヴェゼの動向

 バシンスヴェの空は、永遠に薄汚れた灰白色に染まっているかのようだった。まるで何度も使い古され、それでも一度としてきちんと洗われることのなかった巨大なリネン布が、遥かに広がる麦畑の上に垂れ込めているように見える。


 風は地平線の向こうから吹いてきた。土の奥底から掘り起こされたような冷気と、遠くの工業地帯から微かに漂ってくる、錆びついた金属と粗悪な燃料の焦げた臭いとが混ざり合っていた。


 その風は、フラ・グラグ・バシンスヴの背中をなでるように通り過ぎ、すでに色褪せて、織り目の粗い経糸と緯糸がむき出しになったカーキ色の上着をあっさりと貫いた。そして、彼の体にいつもの、そして無意識のうちに受け入れているような微かな戦慄を与えたのだった。


 彼の手に握られた鍬は重かった。その一振り一振りが、凍土のように固い畝に浅い窪みを刻んでいく。土は深い褐色で、まるで冷えて固まったアスファルトのように粘りつき、鍬の刃にしつこく絡みつく。引き抜くたびに、「ぶしゅっ」と鈍く不機嫌そうな音がして、まるで労働そのものを拒んでいるかのようだった。


 遠くの畑の端には、いくつかの巨大で不格好な集団農場のコンバインが、まるで先史時代の怪物の骨格のように錆だらけで横たわっていた。収穫用の巨大なアームはひどく歪み、ねじれ、すでに忘れ去られた激務の中で、最後の力を使い果たしてしまったかのような有様だった。


 さらにその向こう、疎らな小林の背後には、粗いコンクリートで作られた方尖塔がそびえていた。雨に打たれてできた黒ずみがその表面を覆い、頂上の大きな金属製の五芒星は傾いたまま、くすんだ空を無言で指している。


 それは「偉大なる祖国戦争勝利五十周年」を記念して建てられたものだった。だがフラの記憶によれば、その戦争も、今まさに百年目に突入したこの「永遠の壁」作戦と呼ばれる戦争と同じように、バシンスヴェの村人たちの曖昧で遠い集団記憶の中に、実際の恐怖や悲しみをほとんど何一つ残してはいなかった。


 その鈍重で、単調で、果てしないかのような動作の繰り返しの中——

突然、村の中心にある、これまた錆だらけで高くそびえるスピーカーから、電流に歪められた鋭い声が、まるで冷たい鉄の釘のように静まり返った田野を突き刺した。


 「――前線より吉報! 栄光は不朽の戦士たちにあり! 偉大なる統帥部の英明なる指揮のもと、我が軍は西部戦線『鉄床アンヴィル』要塞地帯にて、敵軍の狂気の反撃作戦『毒蛇の牙』を再び粉砕! 敵は屍をさらし、無様に敗走! 初期集計によれば、撃破、負傷、捕虜を含め、敵精鋭『黒豹』兵団の兵士計一万三千六百四十七名を確認! さらに鹵獲……」


 フラは無意識のうちに鍬を握る手に力を込めていた。指の関節がわずかに白くなる。

 

 彼は背を伸ばした——その単純な動作だけで、腰の奥深くに溜まった鈍い痛みが引き攣れ、思わず小さく息を吸った。

 

 額ににじむ汗と舞い上がる土埃にまみれた顔を上げ、村の方角を見やる。


 スピーカーから流れ出る男性アナウンサーの声は、相変わらず怒鳴り散らしていた。ひどく歪んだ音質で、語られる「勝利の数字」はすべて鋸のようにギザギザしていて、空気を裂き、そして彼の麻痺した神経までも切り裂いていくかのようだった。


 「一万三千六百四十七……」

 

 フラはその数字を、かすれた声で呟いた。砂利を擦るように乾いた響きだった。


 彼の思考は、自動的に、そして病的なほどに軍事的な計算へと動き始めていた。標準的な兵団編制は何人か? 装備比率は? 補給線の構築にはどれだけの人員と資源が必要か? この敵殲滅数はどれほどの規模の戦闘を意味するのか?


 彼はゆっくりと辺りを見回した。視界に広がるのは、灰白色の空の下、病んだような黄緑色を帯びた無限の麦の波だけ。

 

 そしてその遠く、田畦の端に、泥土の中を同じように腰を丸めて動いている数人の影——


 老人イゴーリ、片脚を引きずるヴァーシャ、そして口数少ない寡婦のマーシャ。

 

 彼らの動きは鈍く、この土地そのものから生えた、どこか湿った根のようにゆっくりと動いていた。


バシンスヴ村の壮年の男たちは、一体どこへ行ってしまったのか?

 

 フラの視線は、歪んだ扉がかろうじてぶら下がっているだけの、静まり返った農家の家々をゆっくりとなぞった。


 ラジオでは毎日のように「勝利だ」「敵を数千、数万と殲滅した」と喚いているが——

 

 徴兵官のグリゴーリ・ピョートロヴィチが前回訪れたときに連れて行ったのは、村に辛うじて残っていた、まだスコップを持てる程度の少年たちだった。


 そのときのグリゴーリの顔を、フラは忘れていなかった。あの公務的で冷淡な表情の奥底に、微かに焦りが滲んでいたように思える。


 配給券を配りながら、彼は登記簿のインクで線が引かれた名前を指で叩き、ぼそりと呟いたのだ——


 「補充……補充せんと、な……」


 「おい、フラ!」


 不意に、ざらついた声が思考を断ち切った。


 声の主は老人イゴーリだった。彼は鍬を杖代わりに突き立て、風雨に削られた老木のように立っていた。


 濁った目でラジオスピーカーの方向を見つめながら、歯の欠けた口を開いて笑った。それは茫然とした顔に、長年染みついた満足感が混じったような笑みだった。


 「聞いたか? また一万以上だとよ!」


 彼は嬉しそうに舌打ちした。「あの“黒豹”とかいう奴ら、名前だけでびびるような連中なのによ、俺らがぶっ飛ばしたってさ! ラジオが毎日言ってんだから間違いねぇって! こんな暮らし、安泰だなあ!」


 そう言って彼は腕をぶんと振った。


 まるで自分が、その“輝かしい勝利”の当事者であったかのように。


フラは無理やり口元を引きつらせ、笑みに似た何かで応じた。

 ——安泰、だって?


 彼の視線は、老イゴーリの皺に覆われた顔をなぞり、その体に纏われた、自分のよりもさらに擦り切れ、継ぎ接ぎだらけの上着を見た。そしてさらに遠く、瓦車の再び真っ直ぐに伸びることのない、引きずる足にまで及んだ。


 これが“安泰”だというのか?


 ラジオが語る帝国の栄光と、目の前に広がるこの痩せた土地で繰り返される果てしない労働、人々の顔に刻まれた骨の髄まで染み込んだ疲労と無感動——それらは決して交わらぬ二本の平行線のように、無意味に伸び続けていた。


 勝利の喧騒が大きくなればなるほど、畑を包む静寂はより重く、より冷たく沈み込む。


 ラジオが鳴るたびに響く、あの膨大な“敵撃滅”の数字たち。


 それはまるで巨大で冷えきった石の塊が、彼の心の湖へと投げ込まれるようで——


 誇らしさの波紋など起きることもなく、代わりに、音もなく何層にも広がる困惑と寒気だけを残していく。


 繰り返し称えられる、山のように積み上がった“敵”とは何者なのか?


 彼らはどこから来たのか?


 その血は本当に、ラジオが描くあの遥か遠く、名前すら現実味のない要塞を赤く染めたというのか?


 あれほどまでに壮大で天文学的な数字なのに、なぜバシンスヴ村の土に、一滴の血の実感すら残されていないのか?


夕暮れ時、鉛色の雲がさらに低く垂れこめ、空気は湿り気を帯びてねっとりと冷たく肌にまとわりついてきた。


 フラは重たい身体を引きずるようにして、村の唯一の、でこぼこだらけの主道を歩いていた。


 道の両側には、低く縮こまった土壁の家が並び、その壁面に描かれた巨大な石灰水のスローガンは、もはやすっかり色褪せ、剥がれ落ち、文字の輪郭すら曖昧だった。


 それでもかろうじて「勝利」「永遠」「要塞」——そんな言葉の残骸だけが、時間にかじられた死骸のように、かすかに読み取れた。


 各家の窓から漏れる灯りはくすんだ黄に染まり、厚くこびりついた汚れと紙貼り窓を通してぼんやりと滲んでいた。


 その光の中に、人影が曖昧に揺れ動き、まるで亡霊のように思えた。


 集団食堂——粗雑な赤煉瓦を積み上げて急ごしらえされた細長い建物。屋根は波打つトタン板で覆われ、夜のバシンスヴ村で唯一、光と熱が集中する場所。


 同時にここは、住民たちにとっての“精神の聖域”でもあった。


 フラは重く、軋む音を立てる木の扉を押し開けた。


 すると、劣悪な紙巻き煙草のツンと鼻に刺さる刺激臭、煮すぎて原形を失った蕪と甜菜の味気ないスープのにおい、そして何よりも、人々の集まった場に充満する汗の酸っぱさが混ざり合って、彼の呼吸を一瞬止めた。


食堂の中央には、かなり大きなブラウン管テレビが吊るされていて、四隅から幽かな緑色の光を放っていた。


その画面には、まさに「永遠の壁」作戦の最新戦地ドキュメンタリーが映し出されている。


映像は激しく揺れ、ちらつき、ジジジという電流音が響いていた。


 解説者はわざとらしく声を張り上げ、ドラマチックな調子で前線のある拠点での“輝かしい戦果”を熱く語っていた。


「……見よ!これが我が軍の恐れ知らずの鋼鉄の洪流だ!『鉄床アイアンアンヴィル』要塞外縁の『血爪ブラッドクロウ』高地にて、我が勇敢なる戦士たちは雷鳴の如き勢いで、敵軍コードネーム『鋼牙スティールファング』の装甲突撃集団を粉砕したのだ!あの燃え盛る残骸を見よ!あれは敵の傲慢なる『獠牙ファング』戦車が呻き叫ぶ姿だ……!」


 フラは、油の浮いた痕跡すら見えないほど薄味のスープ椀と、石のように硬い黒パンを手に、隅の脂ぎった長い木製テーブルの脇に腰を下ろした。


 スクリーンには、火の手が天を焦がし、黒煙が渦巻いていた。爆発の閃光が次々と映し出される。だが、爆発の震源は常にカメラの遥か彼方にあり、炎に照らされた煙の中で、人影のようなものが走り、伏せ、激しく動いているのに、どこか現実味に欠ける。その姿は、まるで見えない糸に操られた操り人形のようだった。


 映像は目まぐるしく切り替わる。映るのは、遠くのぼやけた地平線、燃えさかる古めかしい鉄の残骸(型式は、フラが古い軍事雑誌でしか見たことがないようなもの)、そして曖昧な輪郭の兵士たちの背中。解説者は「激烈な白兵戦」「血飛沫が舞う肉弾戦」と語るが、スクリーンに映るのは、ただぼやけたシルエットがもみ合ってはすぐに離れる、それだけだった。細かい描写は皆無で、血の色すら一滴もなかった。


 「おおっ、いいぞっ! やってくれたな!」


 隣のテーブルのヴァーシャが、ドンと机を叩き、義足がガタリと鳴った。興奮で褐色の顔が赤らみ、画面を食い入るように見つめている。まるでそのチラつく雪のようなノイズの向こうを貫こうとでもしているかのようだった。


 「こうじゃなきゃな! あいつらに思い知らせてやれ!」


 「まったくだな!」


 そう相槌を打ったのは、水車の番人である老シミョンだった。


 「見ろよ、またどれだけ吹っ飛ばした? 放送じゃ戦車だけで百台以上沈めたって言ってたな? チッチッ、ほんとに懲りない連中だよ!」


 彼は濁った自家製の密造酒をぐびりと煽り、満足げに舌を鳴らした。


 フラは、スプーンで水のように薄いスープを静かにかき混ぜながら、無言で周囲を見渡した。テレビの光に照らされた顔、顔、顔。そのどれもが画面に夢中で、目を輝かせていた。興奮、満足、そして自分がその戦果に貢献したかのような誇らしさ——それらが、年月と労苦に刻まれた皺の合間に、くっきりと浮かび上がっていた。


 スクリーンの光が彼らの濁った瞳の奥でまたたき、まるで干上がった井戸に投げ込まれた小石のように、空虚な反響だけを生んでいた。

彼らは、そこに映し出されるすべてを疑うことなく受け入れていた。まるで、存在すらしない雨を、乾いた大地が必死に吸い込もうとするかのように。


 幾度となく強調される「敵」の損害報告は、彼らの貧しい精神世界において、唯一の滋養として機能していた。遠い戦場への想像を支え、自分たちの「平穏」を信じるための、唯一の拠り所として——。


 フラの腹が、きゅるりと音を立てた。ただの空腹ではない。もっと深く、もっと冷たい何かが、彼の内側で静かに凝固し始めていた。


 彼はふと視線を落とし、スープ椀の中に映る自分のゆがんだ顔を見つめた。そこには、混乱と、声にならぬ問いかけが宿る、鈍く濁った瞳が映っていた。


 スクリーンに映る炎と爆発、ヴァーシャと老シミョンの喝采、食堂に漂う安酒と汗の匂い——そのすべてが、妙に現実味を欠いていた。あまりに作為的で、あまりに……虚ろだった。


 ぼやけた映像、過剰な歓声。それらは、まるで分厚い絵の具のように、何か巨大で空っぽな舞台装置を塗り固めるようだった。


 フラの心に、ふと疑念が芽生えた。


 ——この壮大な「永遠の防壁」は、本当に存在するのだろうか?


 もしかして、これはただ、虚無の舞台で繰り返される、終わることのない無言劇パントマイムにすぎないのではないか?


 繰り返し「殲滅」されているという「ブラックパンサー」「スチールファング」「ファング」たち——


 彼らは一体、誰なのだ?


 あるいは、本当に存在しているのか?


 フラは、まるで木屑のような黒パンを喉へと無理やり押し込んだ。そのざらついた食感が喉を荒らし、鋭い痛みを伴って飲み込まれていく。 


 ラジオから流れる戦果の数字、スクリーンに映る炎、隣人たちの興奮した声——それらすべてが、目に見えない縄のように彼のまわりをじわじわと締め付け、ついには息ができなくなりそうなほどに彼を縛っていた。


 胸の奥深くで、吐き気に似た嫌悪感がぐつぐつと煮え立っていた。


 その息苦しさが頂点に達しようとしたまさにその瞬間——


 コツ、コツ、と何かが打ち鳴らされるような、一定のリズムを持つ足音が食堂のざわめきを破って遠くから近づいてきた。


 バタン、と扉が開き、冷たい夜風が食堂の濁った空気を鋭く切り裂くように吹き込んできた。


 入口に現れたのは、三人の人物。


 先頭に立つのは、集団農場の責任者、イワン・セルゲーエヴィチ。ずんぐりとした体格に、いつも決まって貼りつけたような疲れた笑みを浮かべる中年の男だ。顔色は良く、だがその笑顔はあまりに型通りで、もはや表情とは言い難い。


 その横に立つのは、濃いグレーの制服に身を包み、縁なしの眼鏡をかけ、脇にパンパンに膨れた黒い人工皮革の書類鞄を抱えた男。襟元には小さな銀色の歯車と麦穂をかたどったバッジが光っていた——

「精神健全及び社会調和委員会」、通称「精社委せいしゃい」の職員である証だ。


 彼は無言のまま、鋭い視線で食堂内の一人一人を、まるでメスのような精密さで静かに、しかし容赦なく見つめていった。


 さらにその後ろには、同じ制服に身を包んだ若い記録係が続いていた。手には記録用の板とペン。


 その瞬間、食堂の喧噪は水を打ったように止んだ。


 テレビからは今も熱狂的な解説の声が流れていたが、今やそれは不自然に響き、耳障りで、どこか空疎だった。


 全員の視線が、その三人の来訪者に集中する。興奮していた表情はすぐに硬直し、代わりに広がったのは——畏怖、困惑、そして長年培われた従順という名の沈黙だった。


 イワン主席は咳払いし、さらに笑みを濃くしながら前に出た。だがその笑みは、どこか引きつっていた。


 「同志諸君!お揃いですね?ちょうどいいタイミングでした。お食事中、失礼しますよ!」


 彼は横に立っていた男に道を譲るように身を引き続けた。


 「こちらは、地区の精社委を代表していらっしゃった、ヴィクトル・アレクサンドロヴィチ同志です。皆さんの日頃の労苦に感謝しつつ、最近の精神状態と生活状況を把握し、我々全員が勝利の栄光のもとで、明るく元気に生産活動へ取り組めているか、確認に来られたのです!」


 その言葉は、まるで何百回と繰り返されてきた通達のように滑らかだった。だが、そこにはかすかに震えるような、微妙な緊張が混じっていた——まるで、誰かの呼吸を恐れているかのように。


 ヴィクトル・アレクサンドロヴィチは一歩前に出た。


 その顔に浮かんだのは、柔らかさを装いながらも一切の温度を感じさせない微笑み。


 そしてその視線は、まるで探照灯のように人々を舐めるようにしてゆっくりと走った。


 「同志の皆さん、こんばんは。どうか緊張なさらずに。帝国は、すべての忠誠なる国民の心身の健康を何よりも大切にしています。 


 特にこの偉大なる《永遠の防壁》作戦の中においては、後方の安定と精神の純粋さこそが、前線の勝利を支える柱であります。


 今回の我々の訪問は、皆さんの声を聞き、もし——なにかしらの“疑問”や“困難”があれば、我々の力で解決するためのものなのです。」


 その声は決して大きくなかった。むしろ落ち着いた口調で、抑揚も穏やかだった。


 だが、その言葉には不思議なまでの圧力があった。テレビの音すら押し退けるほどに、食堂の空気を支配する力がそこにはあった。


 沈黙。


 まるで全員が言葉を忘れたかのように、誰も声を上げなかった。


 聞こえるのは、誰かの荒い息遣いと、炉の中で薪が時折爆ぜる音のみ。


 老シェミョンは土製の酒瓶をそっとテーブルの下へと隠した。


 ワーシャは思わず身を縮こまらせ、その不自由な片脚がぎこちなく震えた。


 ヴィクトルの鋭い視線は、無言のまま人々の間を漂い続けた。


 まるで、そこにある“何か”を探しているかのように。


 そして、その視線は、ある一角で一瞬止まった——


 それは、フラ・グラゲ・バシンスヴの上でだった。


 その目は長く留まることはなかった。


 ほんの一瞬、水面に触れるトンボのように軽く、そして冷ややかに彼を通過していった。


 だがその一瞬に、フラは確かに感じた——その視線は、破れかけの上着すら透かし、胸の奥にある   “沈黙と疑念に蝕まれた心”を覗き見ていたのだと。


 脊髄の奥から凍えるような寒気が這い上がり、頭のてっぺんまで突き抜けた。


 フラは慌てて顔を伏せた。


 まるで目の前のスープに全集中しているかのように振る舞いながら、鼓動が激しく胸を打ち続ける。肋骨を突き破りそうなほどに。


 彼は、微細な表情すら漏らすことができないと悟った。


 手は震え、陶器の碗の縁を必死に握りしめ、白くなった指関節がそれを物語っていた。


 あの目——短く、そして鋭く、心の奥底にまで突き刺さるような冷たさ。


 それは、隠していた感情をつまみ上げるピンセットのように正確だった。


 彼は必死に、スープに浮かぶ煮崩れたビートの葉を見つめた。


 まるでそれがこの世界で最も重要な研究対象であるかのように。


 ヴィクトルの視線が彼の頭上を去ったのは、まさに“息が詰まる”その二秒後のことだった。


 そのまま彼は淡々と、しかし強烈な存在感を放ちつつ、人々を静かに見回していった。


 「うむ、同志の皆さんの精神状態は非常に良好のようですね。」


 その声は再び空気を支配し、圧のある沈黙を破った。


 「勝利への信念こそが、我々の最強の防壁です。イワン主席、ご配慮感謝します。これから数日間、村の公民館にて臨時の相談窓口を設置いたします。困っていることがあれば、何でも相談してください。忘れないでください——帝国は常にあなた方と共にあり、勝利は必ず我々の手に!」


 そう締めくくると、ヴィクトルはわずかに頭を下げた。


 その顔に浮かぶ、完璧に訓練された職業的な笑みは、まったく崩れなかった。


 イワン主席は深々と頭を下げながら先導し、三人は静かに食堂を後にした。 


 重い木の扉が閉まり、外の冷たい風を遮断した。 


 そして同時に——あの視線もまた、外の闇の中へと消えていった。


 凍りついていた食堂の空気が、まるで呪縛が解けたかのように一気に緩み、その直後には、先ほどまでよりもさらに騒々しいざわめきが巻き起こった。それは恐怖と安堵がない交ぜになった、抑えきれない感情の爆発だった。


 「おい……マジかよ。“精神調和委員会”の人間だぞ……なんで突然来たんだ……?」


 「しっ、声を落とせ!あいつら、まだ近くにいるかもしれねぇだろ!」


 「でも……ヴィクトル同志、見た目は割と穏やかそうだったじゃねぇか?」


 「穏やか?馬鹿かお前!あの目つき……背骨の奥が凍ったぞ俺は!

あいつらってよ、聞いた話だと、疑念を嗅ぎ分ける——」


 「やめろ!もういい!飯食ってさっさと帰るぞ!」


 フラは頭を垂れたまま、微動だにしなかった。目の前のスープはすでに冷え切り、表面には薄く白い油膜が張っている。だが彼の意識は、そこにはなかった。


 ヴィクトル・アレクサンドロヴィチが最後に彼へ向けたあの視線。

あの冷たく、鋭利で、鋼のように硬質な一瞥——それが、まるで針のように脳裏へと突き刺さっていた。


 「心の声を聞くため」?

 「困難を解決するため」?

 あの穏やかな言葉の一つ一つが、今の彼には——まるで首に刃を当てられながら囁かれる処刑宣告のようにしか思えなかった。


 彼は感じた。自分がまるで、蜘蛛の巣に引っかかった小さな虫のようだと。

ちょっとでももがけば——その振動が、確実に闇の中にいる捕食者へ伝わってしまう。

そしてその“何か”が、彼の存在に確実に気づくのだ。


 恐怖。

今までただの“疑念”でしかなかったそれが、今、明確な“恐怖”となってフラを呑み込んだ。

ぼやけた不安や違和感ではない。

骨の髄にまで染み渡るような、確実で、逃げ場のない冷たい恐怖だった。


 ——しまった。

 彼は心の奥で叫んでいた。

 今になってようやく気づいた。

 あの畑の中で、誰もいない路地裏で、あまりにも多くを“黙って”しまっていたことを。

 それが、あまりにも目立ちすぎていたことを。


 “放送よりも勝利よりも、この国の触手の方が、はるかに現実で、はるかに……恐ろしい。”


 突如、フラは立ち上がった。

 その勢いで長椅子が転がり、耳をつんざくような軋む音を響かせた。

 周囲の人々が驚きと共に彼を見つめる。


 だがフラは、視線に構わず——

 手付かずのスープと黒パンを持ち上げ、頭を垂れたまま、よろめくように足を進めた。

 彼が向かったのは、食堂の隅にある、油と腐臭が混じり合った残飯用の回収桶。


 「ガチャン!」


 陶器の碗が、重く鈍い音を立てて底へ叩きつけられる。


 「……フラ?大丈夫か?」

 老イゴーリが不安げに声をかけた。


 フラは振り返らなかった。

 ただ、掠れた声で曖昧に返す——


 「……大丈夫、ちょっと……気分が……」


 その声はまるで、砂紙で喉を削ったように、かすれ、枯れていた。

 まるで何かに追われるかのように、彼は食堂の重い扉を開け、

 そのまま夜の闇へと逃げ出した。


 湿った泥の匂いを含んだ夜風が、無数の針となって火照る顔を刺した。

 だがそれは、混乱した頭をかすかに冷ますようでもあった。


 フラは歩いた。

 いや、ほとんど駆けるように、いつもの道を辿って——

 村の外れ、崩れかけた泥造りの自分の小屋へ向かって。


 そこは……狭くて、古くて、風も漏れるが——

 今の彼にとっては、唯一の“殻”だった。

 せめて、一時的にでも、そこだけは安全だと信じたかった。


 そして彼が、村はずれの巨大な農具倉庫の横を通りかかったとき——


 「ガァアァァァッ!」


 突如、唸るような風が渦巻き、吹き荒れた。


 倉庫の屋根に取り付けられた、錆びた鉄板が激しく揺れ、

 次の瞬間、鋭い金属音を立てて一枚が外れ、空へ舞い上がる!


 「ガチャン——ガッッシャァァァン!!」


 風に煽られた鉄板は、怒り狂った猛獣のように宙を舞い、

 そのまま廃棄された窓——

 木の板で雑に塞がれた、倉庫の側面へと叩きつけられた。


 夜闇に響くその轟音は、まるで何かの“兆し”のようだった。


 耳を劈くような破砕音が、夜の静寂を切り裂いた。


 朽ちた板張りは鉄板の直撃を受けて、無惨に砕け散り、不規則な形の穴が穿たれた。

 その隙間を見つけた風は、待ち構えていたかのように狂ったように吹き込んでくる。

 塵と枯葉を巻き込みながら、唸るような音を倉庫の闇へと響かせていた。


 フラの心臓が、一瞬、本当に止まったかと思った。

 全身がこわばり、本能に突き動かされるように彼は素早くしゃがみ込み、

 すぐそばの干し草の山の裏に身を隠した。

 息を潜め、目を見開き、辺りを見回す。


 遠くで数匹の犬が不安げに吠えたが、

 それ以外に騒ぎを聞きつけた様子はない。

 ——ヴィクトル・アレクサンドロヴィチの姿も、幸いなことに見えなかった。


 しばらくのあいだ、風の音が支配する時間が流れる。

 やがてその音も、少しだけ弱まってきた。


 フラはおそるおそる立ち上がり、砕けた窓口へと歩み寄る。

 壊れた板の隙間は、彼がなんとか身体を通せるほどの大きさだった。


 穴からは、長年閉ざされた倉庫特有の、

 乾いた埃と腐った木材、そして鼠の排泄物が混じり合った、強烈な臭気が押し寄せてきた。

 フラは思わず顔を背け、咳き込みながら一歩引いた。


 ——やめた方がいい。

 理性がそう告げていた。

 今すぐ村の委員会へ報告すべきだ、と。


 だがその一方で、それを押しとどめる、もっと強い衝動がフラを支配した。


 それは“秘密”への欲望。

 “禁忌”を覗き見る衝動。

 まるで運命に導かれているかのような、抗いがたい誘惑——


 ヴィクトルのあの冷たい視線、

 食堂に満ちた空虚な喝采、

 放送で響いていた不自然な戦果の数字——

 すべてが、見えない糸となって彼を引っ張っていた。


 “この先に、何かがある——”


 もう一度、村の方へ振り返る。

 暗闇の中に、かすかな灯りが点在している。

 食堂の方向から、まだ人の声が遠く聞こえていたが、足音は近づいてこない。


 フラは大きく息を吸い込んだ。

 そして、決意する。


 壊れた木板の縁を掴み、鋭いささくれに注意しながら身をかがめ、

 ゆっくりと身体を滑り込ませた。


 両足が倉庫の床に着地すると、分厚く積もった埃が舞い上がり、むせ返るほどの粉塵が立ち込めた。


 倉庫内は、想像以上に広く、そして暗かった。

 破れた窓から差し込む微かな星明かりだけが、わずかに巨大な梁や支柱の輪郭を浮かび上がらせている。

 空気は動かず、濃密な腐臭と黴の匂いが肺を圧迫してくる。


 積まれた農具は、どれも錆びつき、破損し、朽ちていた。

 古代の巨獣の骨のように、物言わぬ死の存在感を放っていた。


 フラは、慎重に歩みを進めた。

 時折、足元で何か硬いものを蹴り、鈍い音が響く。


 記憶の中にある——

 倉庫の奥には、小さな部屋があったはずだ。

 昔は帳簿や物資を管理するための空間で、今では廃れて久しい。


 闇の中を手探りで進む。

 やがて、手のひらがざらついた木材に触れた。


 それは、扉だった。

 鍵は掛かっていない。

 軽く押すと、「ギギィ……」と耳障りな音を立てて開いた。


 部屋の中はさらに暗く、埃の匂いが一層濃い。

 壁に手を伸ばすと、粘り気のある汚れが指に絡みついた。

 

 記憶通り、部屋の隅に机があるはず——

 膝が固い木の縁にぶつかり、彼はしゃがみ込んで手探りを続ける。


 ——火を。

 蜡燭でも、マッチでも、何か……

 期待するにはあまりにも無謀だとわかっていたが、それでも。


 その時——

 彼の指先が、分厚い埃の下に“紙”の感触を捉えた。


 粗い質感。

 端が巻かれて、湿気で波打っている。

 ——古い新聞だ!


 彼の心臓が一瞬、跳ねた。

 「これは……!」


 汚れていることなんて、どうでもよかった。伏拉は厚く積まれた紙の束をがしっと掴むと、闇の中を手探りで戻り、倉庫の壊れかけた入り口近く──そこだけ、星明かりが微かに差し込んでいる──へと向かった。


 焦る気持ちを抑えきれず、その場にしゃがみ込んで、震える手で紙をめくっていく。


 紙はすでに黄色く変色し、湿気で脆くなっていた。カビのような、息が詰まる臭いが鼻を刺す。印字はすっかり滲んでいて、文字を読み取るのも一苦労だ。

──《赤星新聞》、《集団農場戦闘通信》。

どうやら十年ほど前の新聞をまとめた合本らしい。


 彼はもう、読むというより“掘る”ように、夢中でページをめくり続けた。

パリパリと乾いた紙の音。止まらない指先。


 そのとき──。


 「……っ!」


 目を引いたのは、一面を飾る大きな見出しと、かすれた戦場写真。


 帝国暦115年7月22日・前線速報:

我が軍は“鉄床”要塞区外縁“血爪”高地にて、鋼の意志と決死の犠牲をもって、敵装甲集団“鋼牙”の狂気の猛攻を粉砕せり!


 伏拉は、呼吸が止まった。

 

 「……う、そだろ……」


 “鉄床”。“血爪”。“鋼牙”。


 ──それらの単語が、まるで灼熱の鉄棒のように、彼の網膜を灼いた。


 つい、数時間前だ。食堂のテレビに映っていた報道番組。

司会者は高揚した声で、まさに同じ地名、同じ敵のコードネームを読み上げていたじゃないか!


 画面は荒く、ぼやけていた。けれど──地形の輪郭、炎上する車両の残骸……今、彼の手の中にある“十年前”の新聞の写真と、まるでコピーしたように、そっくりだったのだ!


 「……っ、そんな……!」


 “粉砕”、“狂気の猛攻”、“鋼の意志”──

報道の語彙まで、ほとんど同じ。


 震える手で、伏拉は別の新聞を掘り出した。

帝国暦120年、3月15日──


 “鉄床”不落!“血爪”東南翼にて“毒蛇の牙”浸透部隊を撃退!


 帝国暦122年、9月8日──


 “血爪”北斜面で“黒豹”偵察部隊を殲滅!


 “鉄床”、“血爪”、“鋼牙”、“毒蛇の牙”、“黒豹”……。


 血の匂いをまとったコードネームが、繰り返し、繰り返し、紙面に踊っている。

まるで時が止まったかのように、同じ戦場で、同じ敵が、何度も現れては“殲滅”されている。


 十年だぞ……!

十年も前から──同じことを、何度も……!


 「っ、くそ、そんなの……そんなのって……!」


 伏拉の背筋が凍りついた。

寒さなんかじゃない。骨の芯から来る、全身を貫くような──“狂気”だ。


 ラジオで流れていた“最新の勝利報告”が、テレビで映し出された“現在の戦況”が──

どれもこれも、使い回された古い記事の焼き直し!?

映像と音声と文字で精密に組み立てられた、“虚構の勝利”……?!


 「じゃあ……あの“敵”って……誰なんだよ……!?」


 それは──“存在しない敵”か?

それとも──“俺たち自身”か?


 ぐらり、と視界が傾いた。


 まるで、世界が反転するように。


 「……っ、う……!」


 胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。伏拉は口を押え、地面に手をついてうずくまった。だが、吐けない。ただ、こみ上げる“恐怖”だけが、喉を焼く。


 そのとき──。


 ガタンッ!


 倉庫の外で、何かが風にあおられて倒れる音がした。


 「……っ!」


 それだけで、彼の心臓は破裂しかけた。

脳内に、一瞬で名前が浮かぶ。


 ──ヴィクトル・アレクサンドロヴィチ。


 冷たい探針のようなあの目。

まさか、見ていたのか?

外に、いるのか……?


 「……っ!」


 伏拉は震える手で、新聞の束を上着の裏に詰め込んだ。

一枚残らず──この命より重い“証拠”を、胸元に押し当てた。


 壊れた裏扉へ向かい、物陰をすり抜け、必死で体を滑らせる。

風の音。闇。腐葉土の匂い。

すべてが、彼に牙をむいてくるようだった。


 灌木の影に身をひそめ、震える体を丸める。

胸元に押し当てた新聞が、まるで焼けた鉄のように熱い。


──“鉄床”、“血爪”、“鋼牙”。


 その言葉が、頭の中でぐるぐると渦巻く。

赤い。黒い。重い。恐ろしい。


 この帝国は、ずっと前から嘘でできていた。

血と紙と数字で塗り固められた、巨大な虚構の舞台。

──ぼくたちはその、舞台装置だったんだ。


 どれだけの人間が、名前を消され、数字に変えられたのか?


 自分の名前を、思わずつぶやきそうになった。


 ──伏拉・古剌圪・バシンスヴェ。


 けれど、それはもう“彼自身”ではない。

そう思えてしまうほどに、世界はすでに、壊れていた。



 「……違う。」


 それは、勇気なんかじゃなかった。

ヴラの胸の奥底、絶望と狂気が荒れ狂うその魂の廃墟で、ぽつんと響いた声だった。

それはもっと原始的な、もっと本能的な――自分という存在がこの世界から完全に否定されることへの、哀しき拒絶の叫び。


 もし、この戦争がすべて茶番だというなら?

 もし、村の者たちの「消失」が、冷たい数字にすり替えられた偽りの報告書にすぎないのだとしたら?

 では、自分ヴラ・グラゲ・バシンスヴの存在は?

 あの日々の重労働は?

 安穏を求めた願いは?

 遠い未来をぼんやり夢見た、あの微かな希望は?


――全部、嘲笑うための冗談だったのか?


 「……絶対に……俺は、消えたりしない……」


 声にならない誓いが、ヴラの喉元からこぼれた。


 無言のまま、彼は胸元を押さえていた手をゆっくり離した。指先はまだ冷たかったが、もはや震えていなかった。

雑草をかき分け、まるで初めて外界に出る子鹿のように、彼はおそるおそる顔を覗かせた。

夜の闇に沈む村の方角――村役場の窓が一つだけ灯っていた。

そこは、ヴィクトル・アレクサンドロヴィチの臨時相談室。

あの男が、いる場所だ。


 黒い墨を流したような闇が、バシンスヴェ全体を覆っていた。

ヴラは泥の壁に背を預けるように、音を立てずに移動を始めた。

濡れた地面に靴底が沈み、空気の震えすら感じ取ろうと、耳は常に張り詰めていた。

どこかで遠く犬が吠える声、枝が折れる音、風に揺れるトタンのきしみ――全てが、罠のように思えた。


 ジャケットの内ポケットに突っ込んだあの新聞束。

今やそれは紙切れではない。

熱した鉄の塊、あるいは体内で今にも爆発する時限爆弾だった。

ヴィクトルの、あの針のような視線が今も背後に突き刺さっている気がする。

 

 家には戻れない。あそこはもはや安全ではなかった。

目立ちすぎる。監視されているかもしれない。

ヴラは記憶をたどり、村外れの廃窯を思い出した。

子供の頃に一度だけ足を踏み入れた、誰も知らない“隠れ場所”。


 そこへ行くと決めた瞬間、彼の足は自然と動いていた。

膝を曲げ、背を低くし、まるで野生のウサギのように畦道を駆け抜ける。

冷たい風がジャケットの隙間から吹き込み、冷や汗を奪っていった。


 だが、希望の小さな光が見えたその刹那――


 「……シャ……シャ……」


 乾いた葉を踏むような、風とは違う異質な音が背後右から聞こえた。


 ヴラの全身が硬直した。


 息を止め、音の主を探る。

音は、黒く茂ったイラクサの藪の中からだった。


 「……シャ……」


 再び、今度はもっと近くで――そして、明らかに意図的に。


 風じゃない。誰かが……いる。


 恐怖が彼の背筋を凍らせた。

ヴラはもう隠れることを諦め、全力で小林へ向かって走り出した!


 その瞬間、藪が激しく揺れ、影が跳ね上がった!

黒よりも濃い、夜そのもののような何かが――彼に向かって飛びかかってくる!!


 叫びも警告もない。あるのは、刃のような沈黙と、殺意のこもった脚音!


 ヴラは狂ったように走った。

その足音は、ただの村人のものじゃない。鍛えられた兵士――それも、殺しに来る者のそれだった!


 「くそっ……!」


 彼は河床へと飛び込んだ。転びそうになりながらも、必死に足を動かす。

だが――


 「……ッ!!」


 背後から、何かが脚を掴んだ!

氷のように冷たく、鉄のように固い手が、ヴラの足首を握りつぶさんばかりに力を込める!


 「出てこい。」


 低く、かすれた声が命令した。

それは、人の声とは思えない。まるで地獄の底から響いてきたような声――


 「う、うわあああああああッ!!」


 ヴラは咄嗟に洞穴の中へと体をねじ込んだ。

手が泥をかき、爪が折れそうになっても構わず進む。


 そのとき――指先が、固く尖った石に触れた。


 思考はいらなかった。


 叫びと共に、彼はその石を握りしめ、全力で後ろの“何か”に向かって振りかぶった――!


 「ドンッ!」


 鈍い衝突音が夜闇を切り裂いた。骨が砕けるような「パキッ」という音と共に、痛みと驚愕に満ちた低い呻き声が続いた。次の瞬間、足首を掴んでいたあの手が、信じられないほどあっさりと離れた。


 今だ——!


 ヴラは一瞬のためらいもなく、まるで泥にまみれたドジョウのように、全身をぐいっと狭く悪臭漂う穴の奥深くへと滑り込ませた。胸の奥で心臓が激しく暴れまわり、そのたびに鋭い痛みが全身を貫く。


 洞の最奥、完全なる闇の中。彼は膝を抱え込むようにして小さくなり、体は止めようもなく震えていた。歯はガチガチと音を立て、顎も震え、指先まで氷のように冷たい。両手で口を塞ぎ、息すら漏らさぬよう、必死に耳を澄ませる。


 ……いた。洞の入口、すぐ外。荒く、怒りに満ちた呼吸が闇を裂いた。傷を負った獣のような、憎悪と苦痛を孕んだ吐息。足音が、重く、苛立ちに満ちてそこにある。そして次に訪れたのは——


 沈黙。


 風が枯草を擦る音、石ころが転がるかすかな音……それらですら、まるで誰かが泣いているように聞こえた。夜の静けさが、皮膚を切り裂くような冷たさでヴラを包み込む。


 一秒が、永遠にも等しく感じられた。


 冷たく湿った土が彼の体温を吸い取り、血の気が引いていく。旧い新聞の束が胸に押し当てられていた。ザラザラとした紙の感触。まるで死体の肌のように冷たく、乾いた絶望の証のようだった。


 どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。数分かもしれないし、もう夜が明けかけているかもしれない。そして……再び、音。


 「……カサ、カサッ……」


 枯れ葉が微かに擦れるような音が、ゆっくりと遠ざかっていく。踏みしめるように、慎重に、後退する足音。やがて、それも風の中に消えた。


 ……行ったのか?


 ヴラは動けなかった。呼吸すらできなかった。洞口の先に広がる、枯草の間から差し込む微かな星の光を、ただ、ただ見つめる。再び沈黙が支配する。そして、それがあまりにも長く続いた時——


 「……っ!」


 全身の力が抜け、彼は崩れ落ちるように冷たい地面に倒れ込んだ。シャツは冷汗でぐっしょりと濡れ、体にぴたりと貼りつく。脚の痛みが、まだそこに生々しく残っている。あの“手”の爪痕だ。現実だ。悪夢ではない。


 彼は震える手で、胸元の新聞をそっと取り出した。この命と引き換えに手にした真実。闇の中では文字など見えない。でも、あの名前たちは——確かにそこにある。


 「鉄床アナヴィル」……「血爪ブラッドクロー」……「鋼牙スティールファング」……「毒蛇のヴァイパーズ・ファング」……「黒豹ブラックパンサー」……


 それらはもはや、紙面上の印刷された名ではない。血にまみれた呪いだ。帝国が築き上げた、巨大な嘘の機構を回すための、歯車の名前。その歯車が回るたびに、彼のような無力な人間の命が、無造作に飲み込まれていく。


 洞の奥。冷え切った泥にうずくまりながら、ヴラは傷を舐めるように呼吸を整えた。体は硬直し、空気には土と恐怖の匂いが満ちていた。脚の痛みが焼けつくように熱い。それは、世界が彼を殺しに来たという証し。


 胸元の新聞は、今や彼の“命の証明書”のようだった。一枚一枚の紙が、まるで冷たい鱗のように肌に触れるたび、そこに刻まれた地名や番号が意識に突き刺さる——「鉄床」「血爪」「鋼牙」……それらは地名でも部隊名でもない、巨大な臼の刃だ。命を粉砕するための“機構”なのだ。


 ヴィクトル・アレクサンドロヴィチの、あの探針のような視線が闇の中に浮かび上がる。冷たく、分析的で、何もかも見透かしているような目。そして——あの男。川辺で彼を追い詰め、腕を砕かれたあの“追手”。あいつも、同じだ。奴らは一つの群れ。精社委という名の“狩人の手”。——知っていたんだ。奴らはすでに、ヴラ・グラゲ・バシンスヴを「マーク」していた!


 倉庫の“事故”、夜の追跡、それは偶然なんかじゃなかった。試練だ。警告だ。排除の“第一段階”にすぎなかった!


 バシンスヴ・ゼ、彼が半生を過ごしたこの地。そこにあるすべての“日常”が、今や罠にしか見えなかった。


 イゴーリ老人の目の奥にあったあの“満足”は、果たして現状への甘えではなかったか?

戦況報告に拳を叩きつけたヴァシャの“興奮”は、自分の存在意義が“勝利の幻影”の中にしかないことへの狂信では?

配給票を配るグリゴーリ・ペトロヴィチの手元に見えたわずかな焦燥、それは“補充リスト”という冷酷な命令の重圧ではなかったか?


 誰もが“演じて”いた。信じているように見せかけ、何かに怯えていた。誰が味方なのか。そもそも、味方なんているのか……?


 絶望が、冷たい波のように心を満たしていく。


 ……燃やすか? この新聞を? 深く埋めて、見なかったことにして——明日から、また“普通”の一日を生きる?

畑で鍬を振るい、薄いスープをすすり、ラジオから流れる勝利の報告を聞いて……

そして、ある日静かに、彼の名がグリゴーリの名簿から消え、数字になる。


 「……いや」


 それは叫びではなかった。むしろ、魂の瓦礫の下から這い出た、かすかな声。だが確かにそこにある。

勇気でもない。ただの、本能的な拒絶。自分の存在が、無言のまま、粉砕され、使い潰されていくことへの、動物のような反抗。


 もしも黙っていたら。もしも目をそらしたら、自分はあの巨大な嘘の歯車の一つになる。

ヴラ・グラゲ・バシンスヴという名は、永遠に忘れ去られる。


 「……消えたく、ない……」

 

 その念は小さな火種だ。冷たい風に吹かれ、今にも消えそうだ。それでも、消えない。震える手で、ヴラは新聞を再び胸元にしまい込んだ。

ボロ布のような上着で、それを包み込む。まるで、それだけが彼の“生”を証明するもののように。


 彼は、ここを離れなければならない。バシンスヴ・ゼという名の、巨大な沈黙の罠から——。


 どこへ? それは分からない。帝国のどこへ行こうと、“勝利”という名の壁はそこにある。“精社委”の目も、そこにある。

それでも、ここにいては、ただ消えるだけだ。番号になる。檻の中の亡霊になる。


 ——逃げるしかない。夜明けが来る前に、幽霊のように。


 彼は再び、固くこわばった身体を無理やり動かした。まるで冬眠を邪魔された蛇のように、極端にゆっくり、極端に慎重に──おぞましい悪臭を放つ穴の口から、そっと頭だけを突き出した。


 すぐさま、冷たい夜風が彼の頬を切り裂くように吹きつけてきた。自由の匂いを運びながら、その裏には計り知れないほどの危険が潜んでいる。


 外は相変わらず、墨を流したような闇。風に揺れる疎らな林が、まるで誰かのうめき声のように低く呻いていた。干上がった河床には無数の冷たい玉石が敷き詰められ、どこまでも、見えない未来へと続いている。村の方向には、かろうじて灯る幾つかの明かり──闇の中に、死にかけた星のように瞬いていた。


 伏拉は深く息を吸った。その空気は肺を刺すように冷たく、しかし同時に、鋭利な現実感を与えてくれた。彼は最後にもう一度、バシンスヴ村の、かすかに見える眠りについた輪郭を見つめた。そこには、自らの半生の汗と、麻痺した安寧、そして今まさに彼を呑み込もうとする恐怖が詰まっていた。


「……さようならだ、バシンスヴ村。さようなら──嘘にまみれたあの日々。」


 彼は腰を低く落とし、身体を影のように地面へと溶かしながら、静かに河岸の斜面を滑り降りた。足元の玉石がごろごろと転がり、小さな音を立てるたびに、心臓が跳ねた。


 進む先は、既知の道ではなかった。彼は迷いなく、川下へ──地図にすら「未開拓地」としか記されない、誰も寄り付かぬ荒野へと歩みを進めた。


 一歩ごとに足元の石がずれ、鋭く足裏を突き上げる。足首の痛みは鋭く、胸に秘めた“それ”は、まるで爆弾のように重く圧し掛かってくる。だが、彼は何も考えないようにした。痛みも、恐怖も、後ろにいるかもしれない追跡者のことも。今はただ、眼前の道なき道に、全ての意志を集中させる。


 夜の闇は果てしなく続き、風はさらに勢いを増していた。砂と塵を巻き上げ、顔に無遠慮に打ちつける。荒野の地形は、夜の闇の中で得体の知れぬ獣のように蠢いて見えた。


 ──伏拉・グラゲ・バシンスヴ。


 この国でもっとも平凡な農夫。その男が今、帝国を焼き尽くすかもしれぬ真実と、自らのあまりにちっぽけな存在を背負い、ただひとり、誰も知らぬ暗闇へと踏み出していく。


 やがて彼の影は、荒野の凹凸と夜の帳に呑み込まれ──その姿は、まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消えた。


 そして彼の背後では、バシンスヴ村がなおも、灰色の黎明を迎える直前の眠りに包まれていた。村の中央、無機質なスピーカーが、朝の第一声と共に、歪んだ雑音混じりの放送を始めた。


 「──前線から朗報です!偉大なる《永遠の防壁》作戦、決定的な進展!我が軍は東部戦線《金床》要塞にて──」


 ──目が覚めたのは、寒さのせいだった。


 だがそこは、自分の泥炕の上ではなかった。伏拉・グラゲ・バシンスヴが目を覚ましたのは、河床の下流にある、洪水で削られた岩と枯れ枝の溜まる浅い窪地だった。


 夜明けの光が、吝嗇な灰色となってゆっくりと彼の周囲に染み込んでいく。全身の骨がまるでバラバラにされたように痛む。特に足首──あの鋼のような手に掴まれた痕は、深紫の痣となって皮膚に刻まれており、わずかに動かすだけでも悲鳴をあげたくなるほどだった。


 濡れた外套とズボンは、肌に貼りついて冷たさを通り越して麻痺すら感じる。


 「……ある……!」


 彼は苦痛に顔をしかめながら、胸元に手をやった。肋骨に硬く当たる感触──命を賭して奪った、あの旧い新聞紙の束は、まだそこにあった。


 しかし安堵も束の間、今度は強烈な不安が彼を飲み込む。野獣のような目を光らせて周囲を見回した。荒野は灰色の光の中、息を殺して静まり返っている。追跡者の影はない。ただ風だけが、枯れ草の海を通って、寂しげに鳴いていた。


 ──戻らなければならない。


 その思いが、氷のように鋭く彼の心を貫いた。逃げてはいけない。まだ、今は。昨日の襲撃は、やつらが彼の正体を知っていることの証明だった。無理に姿を消せば、それは告白と同じ意味を持つ。だからこそ、何もなかったかのように──いつも通りに振る舞わなければならない。


 彼は歯を食いしばりながら立ち上がった。体の節々が軋み、足首の痛みは歩くたびに鋭く刺さる。だが彼は、あえて人気のないルートを選び、草の間と石だらけの小道を踏みしめて、ゆっくりと村へ戻っていった。


 ──そして、帰還。


 泥まみれ、ぼろぼろ、魂の抜けたかのような姿で、村の外れに姿を現したときには、空はすでに白く明るんでいた。


 彼は顔を伏せ、襟を立てて、極力誰の目にも映らないように歩いた。どの視線も、どの足音も、“あの連中”のものに思えて、胸の奥の心臓が暴れるように跳ねる。


 やがて彼は、誰よりも早く、村の隅にある自分の泥小屋の扉を押し開けた。軋む音。湿った土と汗の匂いが混ざった空気。狭く暗い室内。冷たい泥の壁に背を預け、ようやく彼は、ひと息ついた。


 ──けれど、まだ安全ではない。これは、ただの幻に過ぎない。


 彼は震える手で濡れた衣服を脱ぎ、傷だらけの足首に荒れた薬酒をすり込む。痛みは鋭く、だがその分だけ意識が冴える。


 働きに行かなければ。いつも通りに。欠勤などしたら、すぐに目をつけられる。彼は濡れた外套から、あの新聞紙の束を取り出した。端がふやけ、文字は滲みかけていた。「金床」「血爪」「鋼牙」──どの単語も、鉄の焼印のように神経を灼く。


 ──ここには、置けない!


 慌てて彼は小屋の隅の薪山に手を伸ばす。数束をどかし、土の下に小さな穴を掘る。新聞を丁寧に巻き直し、そこへ慎重に収めた。薪で覆い、何もなかったかのように整える。


 汗が噴き出し、心臓が耳元で雷のように鳴った。


昨夜の残り。まるで石のように固くなった黒パンをフラは無造作に掴み、口に押し込んだ。奥歯に力を込め、ぎりぎりと噛み砕く。粗悪な粉の粒が喉を削り、胃に届く頃には、ほんの僅かな熱量と満腹感をもたらした。それだけのものだった。

 彼は無理やりそれを飲み下すと、扉の脇に立てかけられた鍬を手に取る。冷たい木の柄が掌に馴染んだ感触を返してくる。だがその温もりは幻のように薄く、虚ろだった。


 扉を押し開けた瞬間、朝の冷気が一気に彼の全身を包み込む。

 深く息を吸い、痛みと寒さで丸まった腰を無理に伸ばす。顔には無表情という名の仮面を張りつけた。…さあ、行くのだ。あの集団農場へ。“大後方の栄光ある生産地”と称された、あの不毛な麦畑へと。


 田には既にいくつかの人影が散らばっていた。

 曲がった背で鍬を振るうのは、老イゴーリ。まるで巻き戻し再生のような遅さで土を打っていた。

 足を引きずるヴァーシャは、あぜ道に腰を下ろし、壊れた足をさすっている。

 未亡人マーシャは、黙々と雑草を摘み取っていた。誰も何も言わない。昨日も一昨日も、何も変わらない。…永遠に変わらない。


 フラは自分に割り当てられた狭い畝の前に立った。

 濃褐色の土は今日も重く、冷たく、しつこく粘ついている。

 鍬を振り上げようとした腕が、夜の寒さと心労で鉛のように重い。

 腰の古傷が鈍く疼き、足首に走る昨日の痛みが、骨を砕くように襲ってくる。

 彼は息を呑み、歯を食いしばった。

 そして――振り下ろす。


 「ズグンッ…」


 濡れた泥の中で、鍬の刃が小さく跳ねた。

 その音だけが、静かな地面に生を告げる。

 再び、もう一度。…何度も。


 汗が鬢を濡らし、目尻へと滴り落ちた。視界を刺すその痛みにも、彼は反応しなかった。ただ機械のように動き続けるだけ。


 ――そのとき、鋭く耳をつんざく金属音が、田を裂いた。


「……前線より勝利の報せ! 西部戦線・“金床”要塞地帯、外縁の“血爪”高地において、我が帝国軍は敵襲撃集団コード“毒蛇の牙”を撃破! 敵兵一万八千九百二十一名を殲滅し、さらに……」


 一万八千九百二十一?


 フラの手がぴたりと止まった。鍬を握る指が白くなるほどに力が入り、呼吸が喉で詰まった。


 “毒蛇の牙”…“血爪”…“金床”。


 ――昨日だ。昨日の午後、食堂の古びたテレビで、同じ言葉を聞いたのだ。

 同じ地名。

 同じ敵のコードネーム。

 同じ「撃破」。

 そして同じく、万単位の“殲滅”。


 そして…昨夜。あのカビ臭い倉庫の奥、崩れかけた新聞の束の中にあった。

 三年前の紙面。五年前の紙面。

 やはり、そこでも“血爪”が、“毒蛇”が、“金床”が――勝利の象徴として踊っていた。


 一万八千九百二十一?

 昨日は一万三千六百四十七だった。

 なぜ増える? 何が増えている?


 十年、いや、それ以上。

 “血爪”高地は永遠に血を吸い続ける屠殺場なのか?

 “毒蛇”や“鋼の牙”は、果たして人間なのか?

 それとも、工場で量産された死ぬための機械なのか?

 それとももっと恐ろしいことに……あの数字の“中身”とは――


「フラ!? 大丈夫かい?」


 唐突に、くぐもった声が背後から聞こえた。老イゴーリだった。

 鍬にすがりながら、曇った目でフラを見つめている。


「腹でも壊したか? それとも昨晩、冷えちまったかね? まったく、この天気は……」


 イゴーリは空咳のように笑い、再び耳をラジオへと向けた。

 そして、顔をくしゃくしゃにして、満足げに呟いた。


「……またやったな、我が軍は。いいぞいいぞ、“毒蛇の牙”なんざ、聞くだけで背筋が凍るが、やつらも粉々だ。やっぱり帝国だな。ラジオが言ってるんだ、間違いっこないよ。後方も安泰ってもんさ。」


 安泰……?


 フラはイゴーリの顔をまじまじと見つめた。

 深く刻まれた皺、失った歯、破れたコート。

 引きずる足、沈黙の女、途切れた名。

 これが、彼らが口にする“勝利の後方”なのか?


 フラは泥まみれの手で顔を乱暴に拭い、震える声で呟いた。


「……ちょっと、寒気がしただけです。」


 その瞬間、自分の声が自分のものではないように思えた。

 目が合うことすら恐ろしい。

 この目が、疑念に染まっていることを知られてはならない。

 彼は鍬を握り直し、狂ったように土を掘り返し始めた。


 ――そうだ。考えるな。

 考えれば、崩れる。

 ならば、壊れる前に、ただ……掘れ。


 土が跳ねる。汗が落ちる。痛みが走る。

 それが、彼にとって“唯一の現実”だった。



 朝が来た。


 いや、正確に言えば──「また、朝が来てしまった」と言うべきか。


 伏拉フラは硬直した身体をベッドの上で無理やり動かしながら、重たいまぶたを開けた。窓の外はまだ灰色の霧が立ち込めており、朝というにはあまりにも色彩が乏しい。息を吐くと、白い煙がふわりと舞い上がり、すぐに消えた。


 彼の部屋は石壁と木の梁だけで構成された簡素な空間だ。壁際に置かれた古びた棚、継ぎ接ぎだらけの椅子、そして昨夜脱ぎ捨てたままの作業着が寒々しく床に転がっている。


 「……また、今日も“偉大なる後方”のための労働か」


 呟いた声が自分の耳にすら届かないほど、伏拉の喉は乾き切っていた。


 彼はテーブルの上に放置された昨夜の残り物──黒く乾ききったパンの欠片に手を伸ばす。それはまるで石のように硬く、指先に冷たい感触が伝わった。


 ガリッ。


 強引に口に押し込んだ瞬間、歯に響く鈍い痛み。咀嚼する度に、粗悪な粉の粒が喉を擦り、かすかな熱量だけが胃に届く。だがそれすらも、すぐに空虚に飲み込まれていく。


 「……味なんて、覚えてないな」


 独り言のように呟きながら、伏拉は扉に立てかけてあった木製の鍬を手に取った。冷たく湿った木の柄が手のひらに吸い付くような感触を残す。それは、まるで死者の手のようにひんやりとしていた。


 彼は扉を押し開ける。朝の空気が一気に流れ込み、骨の髄まで凍りつかせるような寒気が襲いかかってきた。息を吸い込んだだけで肺が痛む。


 ──でも、それが「日常」だった。


 「よし……行くか」


 伏拉は自分にそう言い聞かせるように呟き、背中を伸ばした。だが腰に走る鈍痛が、それすらも許さないように悲鳴をあげる。彼は顔に無理やり無表情の仮面を貼りつけ、歩き出した。


 行き先は、集団農場の麦畑──帝国が「偉大なる後方」と呼ぶ、生産の戦場だった。


 ──昨日と同じように。


 ──一昨日と同じように。


 ──幾千の昨日と、寸分違わず。


 カツン、と歯が鳴った。伏拉フラは反射的に口元を押さえ、顔をしかめた。手の中の黒パンは、まるで石のように硬く、昨晩の湿気を吸って更に重くなっていた。乾ききった唇を少し湿らせてから、彼はそれを無理やり噛みちぎる。


 ザラザラとした粗悪な小麦粒が喉を擦り、痛みと共に僅かな温もりと満腹感を与えてくれる。それだけが、朝という時間に自分が存在している証だった。


 「……これも、糧か」


 誰に向けるでもない言葉が、冷たい空気にすぐかき消されていった。


 硬直した背筋を伸ばすと、鈍く疼く腰の痛みに思わず眉をひそめる。彼は壁に立てかけられた一本の鍬を手に取った。木の柄は凍えたように冷たく、その冷気が掌を突き抜けて骨まで沁みる。だが、それすらも今の彼には、どこか懐かしい安らぎに思えた。


 家の扉を押し開けると、朝の空気が肌を刺すように吹きつけてきた。吐き出した息は白く濁り、空にはまだ朝陽の気配さえない。灰色の空は、今日という日がまた昨日と同じであることを告げていた。


 フラは一歩を踏み出した。その歩みは重く、まるで自身の体重以上の何かを引き摺っているかのようだった。


 目の前に広がるのは、集団農場——“偉大なる後方生産基地”の名を冠した麦畑。その広大な田畑の一隅に、今日もまた同じ顔ぶれが黙々と労働していた。


 イゴーリ爺が、錆びた鍬をゆっくりと振るっている。動きはまるで時が止まったかのように緩やかだ。瓦夏は田の縁に腰掛け、傷んだ脚を摩りながら空を仰いでいる。マーシャは無言で雑草を引き抜き、冷たい土に手を汚していた。


 まるで演劇のセットだ。配役も、台詞も、何も変わらないまま、ただひたすらに同じ場面を繰り返している。


 フラは自分に割り当てられた畝へと向かった。鍬を構え、土を一振りする。鈍い「ブシュッ」という音がして、濃い褐色の土が少しだけめくれ上がる。


 それが始まりだった。彼は無言のまま、同じ動作を繰り返す。だが、その中には昨日とは決定的に違う感情があった。


 心臓の鼓動が早くなる。


 理由は分かっている。昨夜、自分の手で見つけてしまった“それ”が、胸の奥底にまだ燻っているのだ。


 歯を食いしばる音がした。それと同時に、農場の彼方から、ギギ……ギギギ……と電気の軋むような音が響く。


 そして——


「……前線より最新戦果報告!偉大なる統帥部の英明なる指導の下、西部戦線《鉄床》要塞圏外周の《血爪》高地において、敵部隊《毒蛇の牙》に壊滅的打撃を与え……撃滅数一万八千九百二十一名、戦車三百二十四輌、砲台百九十……」


 その声はまるで鉄板を擦るように耳障りだった。電気信号がひび割れ、言葉の一つ一つが鋭利な刃となって鼓膜を切り裂く。


 《毒蛇の牙》。《血爪》高地。《鉄床》。


 聞き覚えのある名——否、それはつい昨日の午後、食堂のテレビで見たばかりだったではないか?場所も敵のコード名も、全く同じ。


 しかも——


「……一万八千九百二十一?」


 フラの手が止まる。握った鍬の柄がミシミシと鳴った。関節が白くなるまで力を込めているのが、自分でも分かった。


 昨日は、一万三千六百四十七だったはずだ。同じ敵、同じ場所で、なぜ数字だけが日ごとに膨れ上がる? 


 彼はあの霉臭い倉庫で見た古い新聞記事の束を思い出した。三年前も五年前も、紙面には全く同じ地名、同じコードネーム、そして同じ“輝かしい勝利”が踊っていた。


 この国では、戦いは終わらない。勝利の報告は止まらない。数字だけが肥大化し、血の匂いも、名前も、記憶も、どこかに消えていく。


 そして彼は、思い出す——


 格里高利グリゴーリ・ペトローヴィチ徴兵官の、無表情で業務的な顔。配給票を配る手の下、登録簿に赤く引かれた線。かつてこの村にいた壮年の男たち——ミハイル、セルゲイ、ワレリー……彼らの姿が、いつからか誰にも語られなくなっていたことを。


 あの数字の中に、彼らはいたのではないか?


 彼はゆっくりと鍬を土に突き刺したまま動けずにいた。


 吐く息が白く、喉が焼けるように乾いていた。心臓の鼓動は明らかに速くなっていたが、寒さのせいか、それとも何かを悟ったせいなのかは分からなかった。


「……昨日と同じ、じゃない……昨日以上だ……」


 数字が大きくなっている。それはなぜか。戦闘は日々続いているのか? いや、それとも——そもそも実際には起きていないことを、毎日少しずつ数字だけ上乗せして報じているのではないか?


 脳裏に、昨夜見た古い新聞記事の山がよぎる。すべて保管倉庫の隅、錆びた軍用コンテナの中に無造作に詰め込まれていたものだ。紙面は黄ばみ、文字は滲んでいたが、それでもはっきりと記憶している。


《我が国は勝利を収めた》《敵を撃退》《要塞を死守》


 そのすべてが、今朝の放送と全く同じ言葉だった。まるで何かの“テンプレート”を使っているかのように。


 フラは無意識に辺りを見回した。誰かが自分を見ている気がして、息を殺す。


 ——誰も、いない。皆、無言で土を掘っていた。まるで一人ひとりが壊れた機械のように。


 「おい、フラ」


 低く、掠れた声が耳元でささやいた。振り返ると、そこにいたのはイゴーリ爺だった。


 彼は背を丸め、片手に煙草の吸い殻を握っていた。だが、その視線は異様なほど真っ直ぐで、まるでフラの脳の奥を覗き込んでいるようだった。


「お前、……気づいたな」


「……な、何を……?」


「昔はよ、畑の土の色ももっと黒かった。麦も太かった。報せが来ると、本当に泣いてたもんだ。嬉し涙ってやつだ。だが……今の涙は違う。あれは、土が腐ってる色だ。戦の話もな……もう、“本物”じゃねえ」


 フラは一歩、後ずさった。イゴーリ爺の瞳には理性の火がかすかに灯っていた。しかしその奥底には、何かもっと別の“理解”がうごめいていた。


「ここに長く居すぎると、分かるんだよ。どこからか“何か”が、こちらを見てる。報道が嘘でも誰も怒らねえ。なぜなら、それを疑った時点で……“消える”からだ」


 その言葉に、フラの背筋が凍りついた。


「……消える?」


「ああ、名簿からも、配給表からも、家族の記憶からも、すべてだ。まるで最初からいなかったみてえに。……だがな」


 イゴーリ爺はそこで小さく笑った。その笑いは哀れみとも諦めともつかず、氷のように冷たい音だった。


「人は、完全には忘れねぇ。魂のどこかに“おかしい”って感覚だけは残る。お前は、それに触れちまった。もう、元には戻れねえぞ」


 そして彼は、無言でフラのポケットに何かを押し込んだ。古びた、小さな紙片だった。見れば、切れ端のような新聞の一部。だがそこに記された日付は——


「……七年前?」


「あの年の戦果報告と、今朝のを見比べてみな。場所も敵も、数字すら、同じだ」


 フラは震える手で紙片を握りしめた。心臓が爆発しそうだった。土の匂いが濃くなり、世界の輪郭が揺らぎ始めた。彼の頭の中で、一本の線が静かに音を立てて切れる。


 自分は、この世界に騙されていた。ずっと、ずっと。


 そして、今——


「もう、後戻りはできない」


 その呟きは、誰に向けたものでもなかった。だが確かに、空気がそれを聞き取り、記憶したように思えた。


 夜が落ちた。


 寮舎の窓から見える空は墨のように黒く、星のひとつも瞬いていなかった。夜間照明灯はところどころ断線していて、村の東端――例の保管倉庫のあたりなどは完全な闇に包まれていた。


 フラは、息を潜めながら靴ひもを結んでいた。身じたくといっても、着るものは昼間の作業着と同じ。ただ胸ポケットには、昼間イゴーリ爺から受け取った新聞の切れ端を忍ばせていた。


 脳裏では、何度も同じ言葉が反響していた。


「もう、元には戻れねえぞ」


 戻れないのなら、進むしかない。なぜ自分の人生がこの村に縛られているのか、なぜ毎朝の放送が同じことを繰り返しているのか――


 確かめる。


 自分の目で。


 フラは寮舎の裏口から忍び出ると、音を立てないように靴裏で土をならしながら倉庫へ向かった。夜風は冷たく、肌を裂くようだったが、それ以上に背中を撫でる“視線の気配”が気になって仕方がなかった。


 何度か振り返るが、誰の姿もない。だが、その“無”こそが異様だった。


 この村の夜は、こんなに静かだっただろうか?


 倉庫の前にたどり着くと、フラはそっと扉を押した。


 ギィィ……


 かすかな軋み音。だがその瞬間、彼は全身の毛穴が開くのを感じた。音が、異様に響いた。まるでこの空間すべてが“耳”になっているように。


 暗闇に包まれた倉庫の内部。だが、目が慣れると、見えてくるものがあった。


 ——あの棚だ。


 彼はそっと歩を進め、奥の壁沿いに並ぶ木製の棚に手を伸ばす。そこには、昨日見たはずの新聞の山が、まるで誰かが意図的に整頓し直したように、きちんと束ねられていた。


「……昨日と……違う……?」


 確かに、自分が見たときは雑然としていた。だが今は違う。並び方が整い、しかも、一部の紙面が抜かれている。


 彼の心臓が跳ねた。


 誰かが、ここを“監視していた”。そして、自分が見た記事を把握し、削除した可能性がある。


 震える手で残された紙束をめくる。日付順、地域別。整然としすぎていた。だが――あった。


《模範労働者、今年も最多表彰》


《共和国政府、功績労者に「永久信任証」付与》


 その記事の一角に、ひときわ大きく印字された一文があった。


“表彰者は国家の誇りであり、未来永劫その名は刻まれ続けるであろう”


 ……だが、その“名”を、フラは聞いたことがなかった。


 農場の誰ひとりとして、「表彰された」とされる者を見たことがない。毎年この放送が流れるのに、表彰式も通知も、該当者も現れたことがない。


 おかしい。


 おかしすぎる。


 フラの呼吸が荒くなった。視界が揺れる。新聞の活字が泳ぎ、文字列が不気味に歪んで見える。


「これじゃあ……ただの……幻想だ……」


 真実を知らされず、称賛の言葉だけが流され、労働は続き、疑問を持てば「消される」。


 この世界は、最初から正気ではなかったのではないか?


 その瞬間、倉庫の奥――暗がりの向こうで、**コツン……コツン……**という足音が響いた。


 誰かがいる。


 フラは反射的に新聞束を元に戻し、棚の陰に身を潜めた。


 足音はゆっくりと、だが明確にこちらへ向かっていた。長靴のような硬い靴底が、コンクリートの床を叩くその音に、全身の血が凍る。


 暗闇に目を凝らす。


 ――影が、ある。


 一つ。人影。だが顔は見えない。背丈は高く、肩幅も広い。作業着ではない。見たことのない服装だった。軍服……いや、違う、どこか役人のような、冷たい印象の制服。


 その“それ”はしばらく新聞棚の前に立ち尽くし、やがて、棚に手をかけた。


 そして——


「……フラ・グラゲ・バシンスフ……」


 男の低い声が、倉庫内に響いた。


 なぜ、自分の名前を……?


 フラは声を出せなかった。舌が動かない。体が金縛りに遭ったかのように硬直している。


 その男はしばらくそこに立ち続けたのち、まるで“確認”を終えたように静かに背を向け、足音を響かせて去っていった。


 残された倉庫の空気が、さらに重くなった気がした。


 朝が、来ていた。


 だが、それはいつもと同じ“朝”ではなかった。


 スピーカーから流れる号令。鉄の鍬のぶつかる音。小麦粉と水だけの、あの重くて冷たいパンの匂い――


 全てが、微かにズレている。


 耳にする音、鼻に感じる匂い、見える光景、全てが「昨日まで」と同じようでいて、どこかが違う。あたかも誰かが“昨日の風景”を真似て、上からなぞったような違和感。


 フラはパンを噛みながら、誰とも目を合わせようとしなかった。


 周囲の労働者たち。誰も彼も、異常なほど静かだった。おしゃべり好きのカリンの声も、手の早いゴルの鍬の音もなかった。


 まるで全員が、何かを待っているように、身じろぎもせず、規則的にパンを噛み、スープを飲み下していた。


(……バレたのか? 昨日のことが……)


 だが、誰も何も言わない。ただの“空気”だけが、彼の喉を締めつけた。


 食後、作業が始まった。


 今日の配置は西区画。雑草の除去と土の再耕起。先日までフラと同じ列だったヨレンが、何も告げずに離れた列へ移動していた。


 彼の視線は一度もこちらを向かなかった。


 替わりに、見知らぬ顔が一人、彼の隣に立った。


「……」


 がっしりした体格。無表情。瞳は色素が薄く、まるで硝子玉のように光を反射していた。作業着こそ村人と同じだが、靴が違っていた。新品の軍用ブーツ。


 フラは何も言わず、目を逸らした。


 恐怖ではない。直感だった。これは「労働者」ではない。見張り。あるいは、「監視者」。


 この男は自分の行動を観察しに来ている。


(……昨夜、あの倉庫にいた男と関係があるのか?)


 疑念は次第に、確信に変わっていった。


 午後、作業の合間にトイレへ向かうふりをして、農機小屋の裏手にまわる。そこで、フラは誰にも聞かれない小声で呟いた。


「イゴーリ爺……まだ生きてるか?」


 返事はない。風だけが、乾いた土の匂いを運んで通り過ぎていく。


 だが、彼の足元に、何かが落ちていた。


 一枚の、黄色い紙片。


 表に何も書かれていないが、裏に小さな字でこうあった。


「夜0時、西の柵を越えろ」


 見覚えのある、イゴーリ爺の筆跡だった。


 その夜、フラは再び倉庫裏へと向かっていた。いや、今度はもっと外へ――「村の外」へと。


 西の柵。そこには常に見張りの兵がいたはずだ。だが、今日の様子からして、誰かが交代の隙間を作ってくれている可能性がある。


 問題は、その先に何があるのかを、自分はまったく知らないということだった。


 この村に、地図は存在しない。


 外の世界は「戦火の地」「化け物の棲み処」と教えられてきた。誰もそこを目指そうとはしなかった。だが今は、むしろそこしか真実がないように思えた。


 農場の柵は、錆びていた。鉄条網の一部が切断され、布が巻かれていた。


 すでに誰かが“出入り”していた痕跡。


 心臓が爆発しそうなほど脈打つ。


 その時、背後で音がした。


 振り返る。


 影が、いた。


 あの“硝子玉の瞳”の男が、静かに立っていた。武器はない。ただ、その無機質な顔が、フラを見つめていた。


「やっぱり、お前は“外”を知っているな」


 フラは、口を開かなかった。


 男は一歩、近づいてきた。夜風が吹き、鉄線が軋む。遠くで何かが鳴いていた。


「戻るなら、今だ。見なかったことにして働けば、表彰は……ある」


 その言葉に、フラは小さく笑った。


 乾いた、力のない笑い。


「ある? あんなのがか?」


 そして、一歩。


 男の脇をすり抜けるように、柵の裂け目へ足を入れた。


 背後から、声が追いかけた。


「二度と戻れんぞ」


 フラは、足を止めずに言った。


「もう、戻る場所なんて残ってない」


 死の荒野――そう呼ばれていた場所は、意外なほど静かだった。


 草一本生えていない、ひび割れた地面。風の通り道には白く乾いた砂が舞い上がり、月光に照らされて光る。


 フラは、足元の土を見下ろして立ち尽くしていた。


 黒く焦げた石。半ば埋もれた鉄片。何かの歯車のような残骸。


(……本当に、ここで戦争があったのか?)


 そう考えた瞬間、背筋をなぞるような悪寒が走った。


 すべてが、作られた風景のようだった。


 鉄片は、等間隔に散らばり、地割れはまるで整列した罅のよう。かつての爆撃の名残にしては整いすぎている。


 と、その時。


「遅かったな、坊や」


 ――声。


 フラは振り返った。


 そこには、農場で失踪したはずの男――イゴーリ爺がいた。


 長い灰色のコートに、深く被ったフード。小柄な体に似合わぬ重い鞄を背負って、彼は古びた照明器具のようなものを掲げていた。


 照明の淡い明かりが、周囲の闇を切り裂く。


「ここは“死の荒野”なんかじゃねぇ。……ただの“演習場”だよ」


「演習場……?」


「戦争なんざ、とっくの昔に終わっとる。帝国も共和国も、もう“ない”。だが奴らは戦争を“続けていること”にしたかった。なぜかわかるか?」


 フラは答えられなかった。


 イゴーリ爺は、乾いた笑いを漏らして言った。


「労働者は戦争がないと、逆らうからだよ。」


「…………」


「戦争があると信じている限り、誰もが銃を作り、麦を育て、命令に従う。死ぬのは“外”だけだと思ってるからな。だから“戦争ごっこ”は永遠に続けられる。そう、ずっとな……」


 フラはその言葉を、飲み込めなかった。いや、飲み込みたくなかった。


 自分が信じていた「模範労働者制度」も、「戦場への貢献」も、すべて茶番だったのか?


「じゃあ……俺たちは……なにを作ってたんだ……!? 毎日、何千回も鍬を振って、何百トンの作物を収穫して、それをどこへ送ってたんだよ……!」


「“どこか”にな。だが、その“どこか”は、もう存在しない。」


 イゴーリ爺の声は、かすれていた。


 彼は、足元の石をどかした。そこに、扉があった。


 古い金属のハッチ。錆び、鍵の取れたその扉を開けると、地下へと続く階段が姿を現した。


 冷たい空気が吹き上がってくる。微かに、薬品の匂いが混ざっていた。


「……来るか? “本物”の模範者たちが眠る場所だ」


 フラは躊躇わなかった。


 それが恐怖を超えた先にあるものだと、彼の直感が叫んでいたからだ。


 階段を降りると、そこはかつての地下研究所のような空間だった。


 割れた強化ガラス。液体の入ったタンク。無数の紙片と、スクリーン。そこに映っていたのは、監視映像だった。


 フラが働く村の、様々な角度からの映像。


 食事を取る様子。畑を耕す列。表彰式。全てが「上から」見られていた。


「ここはな、“模範制度”を作った奴らの観察室だった。モデル農場は全部、監視と実験の一環だったんだ」


「……それを、あんたは……」


「見てきたさ。そして、逃げた。……今まではな」


 イゴーリ爺の手が、震えていた。


 彼は机の引き出しから、一枚のフィルムを取り出した。


「こいつを見ろ。……そして決めろ。“見なかったふり”を続けるか、本当に終わらせるかを」


 映像は、ノイズ混じりの白黒だった。


 しかしそこに映っていたのは、フラの知っている顔だった。


 村の“模範者”として表彰されていた者たち。


 だが次の瞬間、彼らは列に並ばされ、注射を打たれ、檻のような装置に閉じ込められていた。


 呻き声。暴れる腕。焼けただれるような音。


 フィルムは終わった。


 フラは、全身の力が抜けたように座り込んだ。


(……俺は、嘘の中で、生かされてたんだ……)


(本当に、全部……嘘だったんだ……)


 イゴーリ爺が、ぼそりと呟いた。


「動くぞ。もう時間がない。“奴ら”は、お前がここに来たことを……きっと、知ってる」


 その瞬間、地下の奥で、カン、と何かが落ちる音が響いた。


 振り向いたフラの瞳に、赤い点灯と、起動音が映った。


 何かが、動き始めていた。













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