その9 “黒い森”の一騎討ち
騎士を相手に、作法に則って名乗るべきかと考えたセドリックだが、結局はやめておくことにした。ジェラルドはいま騎士の装いではない。ならば、目の前の男には、あくまで”野盗”として接した方が互いのためだろう。
ジェラルドの方も、セドリックの考えは察したようだ。あえて名乗る必要はないぞ、と言うように口を開く。
「確か先程、グラスヴァル家の者だと言っていたな……」
路上でエルマたちを助けたとき、セドリックは一度名乗りを上げているのだ。
「小貴族とはいえ、かの聖騎士イーヴァン・ホーをはじめ高名な騎士を何人も輩出してきた家系だ……。そこの者だというのなら、手加減はせぬぞ」
両手で剣の柄を持ち、ジェラルドが構える。野盗の装いの彼は、盾を持ってはいない。鎧も革製の簡素なものだ。
ただ剣だけは──使い慣れた武器を選んだのだろう、セドリックのものと同種の長剣だった。片手両手兼用、馬上でも徒歩でも使える汎用性の高い剣である。
相手と同じように両手で剣を構えながら、セドリックは油断なく彼我の状況を分析した。
盾も馬もないのは、セドリックも同じである。ただ、金属鎧である分、防御力は自分の方が上だ。反面、身のこなしの素早さでは軽装のジェラルドの方に分がある。迂闊に切りかかっても、かわされるのがオチだろう。
そう判断して、慎重に相手の動きを見定めるセドリック。
ジェラルドが、動いた。
一歩踏み出し、同時に両手構えの剣が瞬時に右手に持ち変えられる。
神速で繰り出される、リーチの伸びた横薙ぎ。長い間合いで広い範囲を攻撃できる一閃だ。
後方に跳んで間合いを取り直すセドリック。
逃すまいとばかりに繰り出されるジェラルドの連撃。
剣で受け流しつつ、セドリックは隙を見て渾身の一撃を放つ。
しかし狙い澄ました攻撃は、紙一重でジェラルドに避けらてしまう。
再び始まるジェラルドの連撃。
しばらく、一進一退の攻防が続いた。
やがてジェラルドの動きに、セドリックはわずかな違和感を覚えはじめた。
自身の左側を狙ってきた攻撃を剣で打ち払ったとき、その正体に気づく。
今のセドリックへの攻撃は、普段であれば盾で止めていたところだ。今は盾がないから、仕方なく右手の剣で打ち払った。
そしてそれは、ジェラルドも同じなのである。
普段は持っているであろう盾がないジェラルドは、常に右半身を前に出した姿勢で攻撃を繰り出してきていた。セドリックの右手の剣から近い左半身を、できる限り隠そうとしている。
(無意識に盾を使おうとして、反応が一瞬遅れるのを怖れているのか……)
そう考えたセドリックは、ジェラルドの剣戟の隙を突いて体を左側に──ジェラルドにとっての背中側に大きく動かす。
背後を取られまいと、ジェラルドの体が動く。
背中を隠すように。
左半身を前に出すように。
瞬時に、セドリックは左手を剣から離した。右手一本の方が射程が伸びるし、自由度も高い。先程のジェラルドもそうだった。
弧を描くように剣を回し、横からジェラルドの左腕を狙うセドリック。
通常なら、これは盾に阻まれる無意味な攻撃だ。しかし、今は敵に盾はない。
ブウゥンッ!!
振り上げた場所から半円を描く剣。
その刃が、ジェラルドのいる場所に届く。
だが、手応えは感じられなかった。セドリックの剣は、空を切っている。
彼の剣の下をくぐるように、ジェラルドは姿勢を低くしていた。その右手は、腰の横にある。水平に構えた剣の切っ先が、斜め上を向いている。
(しまった!)
セドリックはようやく悟った。
ジェラルドは、左側を攻撃されるのを嫌がっていたのではない。
嫌がるふりをすることで、誘っていたのだ。
半身になった左手側を攻めるために、セドリックが大振りするのを。
渾身の力で振った剣は空振りしても止まらず、剣を握るセドリックの右手が体の斜め下にいく。
一歩踏み出していた結果、セドリックは右肩を前にする姿勢になっていた。自然と左の首が真っ直ぐに伸び、胸の鎧と繋がる金属襟の間に隙間ができている。
ジェラルドが狙っているのは、そのわずかな隙間だ。頸動脈を切り裂くつもりなのである。
盾がないのは、セドリックも同じだった。しかもジェラルドと違い、もともとは盾で隠されていた彼の左前腕には手甲もない。
それでもセドリックは、咄嗟に左手を上げて首を隠そうとした。
頸動脈をやられたら即死である。それぐらいならば──
(左手一本、くれてやる!)
一直線に突き出されるジェラルドの剣。
(!?)
その瞬間、セドリックは不可解なものを目にしていた。
ジェラルドの右手が、剣の柄を離している──。
その意味を考える前に、セドリックの体は動いていた。
重力に引かれて落下するジェラルドの剣。
その柄を握ったのは、空いていたジェラルドの左手だ。突きの最中に、剣を持つ手を入れ替えたのである。
ジェラルドがそのまま左手を押す。剣の切っ先がわずかに流れる。軌道が変わった剣が狙っているのは、セドリックの右脇腹だった。
いま、振りきったセドリックの右手の剣は、体の左側にある。右脇腹を守るものは何もない。動きやすさを重視して、その部分には金属鎧も着けていない。左手も、首を守るために使ってしまった……。
ズザンッ!
「ぐっ!!」
右脇腹に激痛が走る。思わずその部分を左手で押さえるセドリック。
「…………。驚いたな……」
左手に持ち替えた剣でセドリックの脇腹を切り裂いたジェラルドが、心底感服したように口を開いた。
「首はともかく、最後の”左”まで避けたのは貴様が初めてだ……」
ジェラルドはそう言うが、完全によけきれたわけでもなかった。
内臓に達する致命傷は避けられたが、セドリックの右脇腹には大きな傷が血を滲ませている。
ただそれでも、ジェラルドが剣の柄から右手を離した瞬間に動きだしていなければ──そして人並み外れた瞬発力と脚力がなければ、今頃その傷口からは内臓がはみ出していたことだろう。
(あのとき、足が一瞬光ったような気がしたが……)
やはり青い光だった。
ジェラルドには見えていなかったようだが、セドリックだけに見える幻としても二回目だ。
大きく跳んでよけたのも、セドリックにしてみれば意図せぬ行動だった。
まるで誰かに引っ張られたかのように、体が勝手に動いていた。
あるいは、青く光った足がひとりでに動いたのか──。
「惜しいな……」
ジェラルドが言った。
「生きていれば、優秀な騎士になっただろうに……」
万全の状態で、ジェラルドとセドリックはほぼ互角だった。
だが、脇腹に大きな傷を抱えた状態では、もはやセドリックの勝ち目は薄い。
それでも傷口を左手で押さえながら、セドリックは右手一本で剣を構えた。
ジェラルドは、そのまま左手で剣を構えている。両利き──あるいは、左利きが本来なのかもしれない。
手傷を負っている上に、さらに相手は変則的な左の剣──。
セドリックの額に、一筋の汗が浮かんだ。
「うぎゃあああぁぁぁっ!!」
そのとき突然、森の中に悲鳴が響きわたった。セドリックもジェラルドも、思わずそちらに目を向ける。
セドリックも驚いたが、それ以上にジェラルドの顔に浮かんだ衝撃の方が大きかった。その声に、心当たりがあるようだ。
「た、助けてくれぇぇえっ!!」
「御領主様ぉおおぉぉっ!!」
続く悲鳴に、ジェラルドの瞳に逡巡の色が浮かぶ。
彼の部下が、何者かに襲われている。
そしておそらくは、主君も──。
ここは、魔物や魔族が巣くう”黒い森”の中なのだ。
「くっ!」
悔しそうに一声呻いて、ジェラルドが声のした方へ転身した。
目撃者の口封じができても、主君が殺されてしまっては意味がない。
茂みの奥へと消えていくジェラルドの背中を、セドリックは脂汗を垂らしながら見続けていた。
危ういところで命拾いをした。
あの悲鳴がもう数瞬遅ければ、彼はジェラルドに斬り捨てられていたことだろう。
ジェラルドの部下たちには悪いが、皮肉にも彼らが魔物に襲われてくれたおかげで、セドリックは助かったのである。
敵の気配が完全に森の中に消えたことを確認して、セドリックは歩きだした。
左脇腹の傷を押さえながら、灌木の間のトンネル状の隙間を進んでいく。
せめてもの血止めにと服できつく縛りつけはしたが、すでにその布は滲んだ血で真っ赤になっている。早くきちんと応急処置をしたいところだ。
頭上で木の枝が合流した自然のトンネルはすぐに終わり、やがてセドリックは木々がまばらな場所に出た。
ユージンのくれた”鈴”を見て、彼らのいる方向に進もうとするセドリック。
そこで彼は、ふと左手の方から水の跳ねる音を聞いた気がした。
木々の隙間から、水鳥が上空に飛び上がっていくのが見える。
(池か、川があるのか……?)
であれば、一度傷口を洗いたいと思った。
ユージンのいる方向からは少し外れるが、まずは傷の手当てが優先だろう。
水鳥が見えた方向に、セドリックは進路を変えた。
途中、一箇所だけ茂みの濃いところがあったが、どうにか草をかき分けて進んでいくと、目の前の景色が急に開けた。
木々が途切れた場所に、綺麗な泉が陽光を反射してキラキラと輝いている。
美しい泉だった。水は澄み渡り、危惧していたような泥水ではない。
泉の中には大きな岩がいくつか立ち並び、作られた影と輝く水面とが、まるで光と闇の隠喩のように思えていかにも絵画的な光景だった。
セドリックは泉に手を触れ、水をすくってみた。
掌に感じる水温さえなければ、本当にそこに水があるのかと思うほどに透明だ。一粒の砂すら浮かんでいない。
鎧と服を脱ぎ捨てると、セドリックは泉の中に入っていった。
「痛っ……」
脇腹の傷に水が触れたときには、さすがにしみて痛みを感じたが、これほどきれいな水ならば、傷口の汚れもきちんと洗い流してくれるだろう。
バシャバシャと何度か傷口に水をかけると、一瞬だけ赤く染まった水がすぐに周囲に溶け混じって消えていく。それとともに、なんだか傷の痛みも消えていくように感じた。
泉からあがったセドリックは、服を破って包帯代わりにし、もう一度腹をきつく縛った。出血はだいぶ止まってきたようで、布の表面に少し赤い染みが生まれた程度で大きく広がることはなかった。
ふう、とため息を一つき、セドリックはまた泉の水に足をつけた。
陽光に照らされ続けた水はそれほど冷たくはなく、火照った体に徐々に染み込んでいくような適度な水温である。その心地よさに目を細めたセドリックは、足を水につけたまま腕を枕にしてゴロリと岸に横たわった。
森の中の行軍と連戦での疲労を、大地と泉の水が吸い取ってくれるかのようだ。
水に浸かっていない上半身はポカポカと暖かい日光に照りつけられ、それがまたなんとも気持ちがよい。
ついセドリックはウトウトとして、やがてその瞼が完全に閉じられた。
まどろみの世界に誘われた彼は、朧気な夢を見ていた。
母の腕に抱かれている夢だった。懐かしい子守歌も聞こえてくる。
赤子に戻ったセドリックが、揺り籠から抱き上げられて母の乳房を吸っていた。
そのまま視線を上げて、ぼんやりとセドリックは母の顔を見た。
濃い霧がかかったような視界の中、見えている女性の顔が徐々にはっきりとしてくる。
不思議なことにその顔は、母・シャーリーのものではなかった。まだ細かい目鼻立ちは分からぬが、髪色が明らかに違う。顔の輪郭も、シャーリーのものとはどこか違っている。
(もしや貴女は……私の本当の母上?)
随分と前からセドリックは、自分が母・シャーリーの本当の息子ではないのでは──と、考えていた。
この夢は、その彼の考えを裏付けているように思える。
生まれたばかりの赤子のときの記憶が、夢となって瞼の裏に現れている。
いまセドリックが見上げているのは、顔も覚えていない生みの母──。
ぼやけていた女性の目鼻立ちが、霧が晴れるように徐々に明瞭になっていく。
その顔を見て、セドリックは息を呑んだ。