その8 森の中の逃避行
背後から途切れ途切れに聞こえてくる追っ手の声から逃れるように、セドリックたちは”黒い森”の奥へと足を踏み入れていった。
やむなく分け入ってしまった魔の者が棲まう森の中。
ただ、心配していた魔物や魔族の気配は、かけらも感じられなかった。
小鳥のさえずりに虫の声。時折カサカサと音がするのは、彼らに驚いた小動物が茂みを揺らして逃げていく音だろうか。
「レイヴィルの森と、あまり変わらないな……」
ポツリとセドリックは呟いた。レイヴィルは、彼らが育った故郷である。
子供の頃によく遊びに行ったその森と同じく、”黒い森”の中は鬱蒼と木々が立ち並んで薄暗い。
だが、怖さや不気味さというものはあまりなく、むしろ枝葉の隙間から時折差し込む木漏れ日などに幻想的な美しさすら感じることがある。
地表付近には茂みや灌木が生い茂り、たまに倒木や地面の起伏があって思う方向に進めないことがあるものの、それは彼の故郷の森だって同じこと。
逆に藪の中には獣道と思しきものが通っているところもあり、方角を選ばなければ、立ち止まらずに進んでいくことに支障はなかった。
事前に聞いた話によれば、木樵や狩人、あるいは果実や野草を採る者など、この付近の村の者は、森の浅い所にまでならしばしば立ち入ることがあるらしい。
彼らがいま通っているこの獣道も、もしかしたらそのような者たちが通った跡なのかもしれない。
であれば尚更、セドリックの故郷にある森とあまり変わらない──。
「一見したところでは、そう思えるよな」
セドリックの呟きに、ユージンが応じた。
「だけど──」
肩すかしを食らったような気になっていたセドリックと違い、ユージンはいまだ固い顔を崩してはいなかった。言葉とともに、親指を立てて指し示すように背後に向ける。
「?」
追っ手の気配を探りがてら、セドリックは足を止めて背後を見た。
何の変哲もない森の景色が広がっている。
木々の間に藪や灌木が生い茂り、獣道が──。
「!」
ようやくセドリックは、ユージンが気にしているものの正体に気がついて戦慄した。
「私たちの通ってきた道が、消えている……」
女性二人の足を考えて、彼らは追っ手のことを気にしながらも比較的歩きやすい場所を選んでここまで来ていた。
つい今しがたも、生い茂る灌木と灌木の間の、ちょうど人ひとりが通れるような隙間を抜けてきたばかりである。
その、木々の隙間が消えていた。
いまセドリックの背後に立ち並ぶ灌木の間は茂みのようになっており、人が通れそうな場所はどこにもない。
「俺たちが見ていないところで、少しずつ森が変化しているんだ」
ユージンが言った。
追っ手から逃げている身としては、進んできた痕跡を隠してくれることはありがたい。
だが──
セドリックは前方に目を戻す。
茂みの間に、いかにも「ここを通って下さい」と言わんばかりに、獣道らしき草木の途切れた場所がある。
ただ、これ幸いにとそこを進んでもいいものだろうか。
何者かに、誘われているのではなかろうか。
魔物の中には森の中で人を特定の場所まで誘い込み、沼に落として殺したり、怪物の住処に招き入れたりする者がいるという。
そのような話を思い出して足を踏み出すことを逡巡したセドリックに、ユージンが言った。
「迷っていても仕方がない。どうせ、あそこしか通れる場所はないんだ。ただ、警戒は崩すなよ」
頷くセドリック。
そんな彼らを見て、行商人の父親がボソリと言った。
「申し訳ありません……。私たちのために、お二人までこんな所に立ち入らせてしまって……」
「気にしないで下さい、ロランドさん」
努めて表情を柔らかくし、セドリックは返した。
「民を守るのは騎士の務めです。それに……」
ロランド一家を襲撃した者たちは、ただの野盗ではないとセドリックは確信している。正体を隠してはいたが、彼らはどこかの家の騎士と兵士だと思う。
だが、ロランドたちには騎士に命を狙われるような心当たりはないという話だ。
──昨日の、あの出来事の他には。
であれば、むしろ巻き込んでしまったのはセドリックの方であろう。ロランド一家は、昨日の一件の報復として狙われたのである。
「あのジェラルドという男は、闇討ちのようなやり方で報復を謀るような者には見えなかったが……」
セドリックの言葉を受けて、ユージンが口を開いた。
「事の発端になった、奴の”主君”とやらの意向じゃないか?」
ジェラルドが忠実な騎士であれば、本意でなくとも主君の命には逆らえぬだろう。“主君への忠誠”は、騎士道の柱の一つだ。
そして、最も積極的に攻撃を仕掛けてきたあの巨漢の男──。
思い返せばジェラルドは、始めのうちはそれほど積極的にこちらの命を狙っているようには見えなかった。
彼が豹変したのは、巨漢の男の覆面が外れてからのことである。主君の悪行が露見することを怖れたのであろう。
「やはり、あの巨漢の男がジェラルドの主君なんだろうな」
セドリックの推察に、ユージンが頷いて言った。
「聖鎧のようなものを使っていたな……。聖騎士なのか?」
ユージンも、あの男の黒い右腕を見ていたのだ。セドリックだけに見えた幻ではなかった。
「あのようなことをする者が神の祝福を受けられるとは思えぬし、黒い聖鎧というのは有り得ないように思うが……」
独語のように呟いて、ユージンが首をかしげる。
黒は、神と敵対する魔族を象徴する色だ。神の祝福とは相反する色なのである。
「だが、魔術の類いにも見えなかったしな……」
考え込む様子のユージン。
(しかし、ならばあの黒い腕はいったい……)
セドリックもそのときの様子を想起して、ふとあることを思い出した彼は、一人の世界に入ってしまったユージンに声をかけた。
「そういえば、ユージン。改めて礼を言わせてもらうよ」
「ん? なんだ、藪から棒に?」
「あの戦いの時、防御の魔法をかけてくれただろう? あの青い光のやつだ。あれは本当に助かった。あれがなければ、今頃この左腕は使いものにならなくなっていただろう」
「あ? うむ……」
言葉を濁すようなユージンの態度をセドリックが怪訝に思ったときだった。
「あの……」
おずおずというように、ロランドの娘のエルマが話しかけてきた。
「お二人は、いったいどのようなご関係なのですか? セドリック様は騎士で、ユージン様は魔術師でいらっしゃるみたいですけど……」
騎士見習いの従者として魔術師が同行するのは、かなり異例だ。
しかもユージンは、先程からセドリックに対して臣下というより仲の良い友人のような話し方をしている。
「ああ……」そこはまだ説明していなかったと思いながら、セドリックは答えた。
「兄弟なのですよ」
「えっ?」
「しかも同い年の……双子なのです。似ていないとは、よく言われます」
「そうだったのですか……」
言いながら、エルマがセドリックとユージンの顔を見比べた。彼らにしてみれば慣れた反応ではある。
「年少の血縁者であれば、従者代わりに同行することは認められているからな。セドリックは一応、俺の兄貴だ」
どうにも頼りない兄貴だがなとユージンが笑い、エルマが首を横に振った。
「そんなことはないです」その頬が、わずかに染まる。「とても、格好良かったです。その……助けて頂き、ありがとうございました」
「いえ……」と返し、どうにも照れくさかったセドリックは話題を変えることにした。
「皆さんは、南の方からこちらに?」
エルマたちのオリーブ色の肌は、この辺りの出身者にはあまり見かけないものだ。
「はい」と、エルマが頷く。
もともとは南の商業国家で店を開いていたが、住んでいた町が魔族に襲われてしまった。それで、財産と持ち出せる限りの商品を持ち出して、売り歩きながらここまで逃げてきたのだという。
しかしその商品も、先程荷馬車ごと失ってしまった。
下を向くエルマに、ロランドが空元気を出すように言った。
「なに。命あっての物種だ。幸い、金子は身に着けている。荷馬車と商品は、またどこかで調達するさ」
「そうですよ」
ロランドの妻──エルマの母であるパオラも言った。
「みんなこうして生きている。そのことにまずは感謝をしなければ。本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げられ、かえってセドリックは恐縮してしまう。
「いや……当然のことをしたまでですから」
彼に続いて、ユージンも照れたように鼻を掻きながら口を開いた。
「そうだな……。それに、悠長に話し込んでいるのもまずい。今は、まずこの森を抜けることを考えよう」
その言葉に、ロランドたちが頷いて歩きだす。
彼らを守るべく、先頭に立とうとセドリックが足を早めたとき、つっと近寄ってきたユージンが耳元で囁くように言った。
「セドリック……青い光というのは何のことだ? 俺はあの時、<炎の壁>以外の魔法は使っていないぞ」
えっ、と思ったセドリックは、ついその場に立ち止まってしまう。
彼の返答を聞かずにユージンがスタスタと歩き出し、先頭に立つ。
成り行きで最後尾を歩きながら、セドリックはいまユージンが言ったことの意味を考えていた。
金属製の盾を粉砕した”黒い腕”の一撃から彼を守ってくれたあの青い光。
あれは、ユージンが使った魔法ではなかった。彼の口ぶりから察するに、そもそも青い光などユージンは見ていないようである。
では、あの光だけはセドリックが見た幻だったのか。
しかしそれならば、あの黒い腕に殴られながら、左腕が何ともないのはどう説明すればいい──?
答えの出ない問いに頭を悩ませながら歩き続けるセドリック。
木々が途切れ、少し開けた空き地のような場所に来たとき、彼は首筋にチリリという独特の感覚を抱いた。
「ユージン──」
空き地の真ん中辺りまで来たところで立ち止まり、先頭のユージンに声をかける。
「どうした?」
「そのまま歩いて……先に行ってくれ」
言いながら剣を抜くセドリック。
彼らの進行方向には灌木が生い茂り、通り抜けられそうな場所はほとんどない。
ただ、一箇所だけいかにもここを通って下さいとばかりに、左右の灌木の枝がアーチのように合流してトンネル状になっている場所があった。
いまのセドリックには、そのわざとらしい通路が、木々の壁に設けられた天然の脱出路のように見える。
振り向いて、彼は今度は背後を見た。
そちらは、今は茂みになっている。彼らが通ってきた”道”は消えているが、草をかき分ければ何とか進むことができそうではある。
その茂みの奥から、声が聞こえてきた。
「たいしたものだ……。気配は消していたはずなのだが」
エルマたちが息を呑む。
生い茂る草をかき分けて、使い込まれた鎧に身を包んだ男が出てきた。森の外で、ロランド一家を襲った男たちの一人だ。
手分けしてセドリックたちを探していたのか、あるいは何かの事情ではぐれてしまったのか。ここまで追いついてきたのは、目の前の男一人だけのようである。
ただ、よりにもよって最も手強そうな男に追いつかれてしまった。
覆面で顔を隠しているが、男は騎士・ジェラルドだと思えた。
油断なく剣を構えながら、セドリックは背中に庇う者たちにもう一度言った。
「ここは私が引き受ける……。皆は、早く逃げるんだ」
「セドリック様!?」
「行こう」悲鳴のような声をあげるエルマを、ユージンが制してくれた。
「アイツなら大丈夫。そんじょそこらの者にやられるような奴じゃない」
それから、ユージンはセドリックの方に目を向けてきた。
「セドリック。”鈴”は持っているな?」
「ああ……」
森ではぐれたときの用心にと、ユージンが事前に用意してくれた魔法の鈴のことだ。二つペアになっていて、対になった鈴が存在している方向だけ色が変わる。セドリックはその一つを、首からぶら下げた袋の中に入れていた。
敵の方を真っ直ぐに向いたセドリックの背後で、ユージンたちが先に進んでいく足音が聞こえる。
それを確認した後、眼前の男に向けてセドリックは言った。
「確か……ジェラルドと名乗っていたな?」
「…………」
正体が知られていることを悟っても、ジェラルドの目に動揺の色はない。
「もう、この覆面は邪魔なだけだな」
言って、顔を隠していた覆面を外す。
昨日、広場で会った騎士の顔が露わになった。