その6 街道の戦い
「長閑だなあ……」
馬の背に揺られながら、ユージンがそう言って空を見上げた。
釣られるように、セドリックも頭上を仰ぎ見る。
どこまでも続く青い空を背景に、一羽のヒバリが飛んでいた。左の方から飛び上がり、天に向かって駆け昇っていく。
彼らが歩く道の左側は、少し急な傾斜の土手になっていた。その向こう側には黄緑色の草原が広がっている。
陽光の眩しさに目を細めているユージンの視線は、その左斜め前方の丘に向けられていた。真っ直ぐ前を向くこともほとんどなく、意識的に右側から視線を外しているようにも見える。
道の右側には、一筋の小川が流れていた。緩やかな清流の中に時折小魚の群れが見え、その背が陽光を反射して銀色のきらめきを放っている。
そこだけ見れば、こちらも長閑で牧歌的な光景だった。
だが──。
小川の向こうに、セドリックは目を向けた。
川の向こう岸は、一転して鬱蒼と木々が立ち並んでいる。
”黒い森”だ。
セドリックたちはいま、森の周りを囲うように伸びている道を進んでいた。黒い森に立ち入る前に、まずはその周囲の様子を下見しておこうと考えたのである。
魔の領域と人間の領域の、いわば境界とも言える小川の幅は、実のところそれほどでもない。土手を駆け下りる勢いを借りれば、簡単に飛び越えられそうである。
深さもそれほどではないようだから、足が濡れることを厭わなければ歩いて渡ることもできるだろう。
ただ、その先は藪や灌木が行く手を遮るように生い茂り、少なくとも馬で分け入るのは難しそうだった。中に入るのなら徒歩で、ということになろう。
立ち塞がる森の木々を仰ぎ見るように、セドリックは視線を上にあげた。こちら側では高い樹木に遮られ、遙か彼方まで広がっているはずの青い空はあまり見ることができない。
道の左右で異なるその空の見え方が、なんだか自身の運命の分かれ道を暗示しているように感じられ、慌ててセドリックは不吉な想いを振り払った。
「ホント、長閑だよなあ……」
相変わらず森から目を逸らしながら、ユージンがまた言った。
「青い空、そよぐ風。川のせせらぎと、美しい小鳥の声。それから……馬のいななきと、女の悲鳴……」
「…………」
「…………」
思わず二人は目を見合わせた。
数瞬の後に馬を駆り、声が聞こえた方へと急ぐ。
「どこからだ!?」
「この道の先でいいと思う!」
全力で馬を走らせてすぐに、それは見えてきた。
道幅が広がってちょっとした空き地のようになった場所に、一台の幌付き荷馬車が止まっている。
そこに群がる、剣を持った幾人もの男。
最も目に付いたのは、鎧を着けずに剣だけを手にした巨漢の男だった。
他の男たちと同じように布で覆面をし、山賊か野盗の首領のように見える。
荷馬車からもその男からも少し離れた場所に、行商人らしき中年の男がいた。小剣を構えて男たちと対峙し、背後の母娘らしき二人の女を庇っている。
その娘の方には、見覚えがあった。
昨日、花売りの老婆にぶつかった騎士が、老婆の腰の革袋を奪うところを見たと証言していた娘だ。確か、エルマとかいったか。
彼女の父親と思われる男の剣の構えは、それなりに堂に入ったものではあった。商人とはいえ危険な荒野も旅する行商人のこと、妻子を守るために多少の剣の技は身につけているのだろう。
だが、如何せん多勢に無勢すぎる。
「こっちへ! 早く!」
馬を急がせながら、セドリックは叫んだ。
一方、ユージンは馬を止めて飛び降りていた。手には杖を握っている。魔法を使うつもりだ。
彼らに気づいた親子が、賊を剣で牽制しながらこちらに走ってくる。
まずはエルマとその母親とすれ違い、続いて父親と賊の間にセドリックは割って入った。同時に、馬上から長剣を賊に向けて振り下ろす。
「ぐわっ!」
舞う血飛沫。斬られた賊が、肩を押さえてうずくまる。
「我が名は、グラスヴァル家のセドリック! 無辜の民を襲う狼藉、見過ごすわけにはいかない!」
名乗って、次の相手に向かおうとした瞬間、ゾワリと首筋に寒気を感じた。
反射的にかがめた背中の上を、何か怖ろしく速いものが通り過ぎていく。後頭部の毛先が数本、切られて宙に舞い踊る。
「避けおったか……。思ったよりも勘が良い」
馬上にいるセドリックの首を、剣で狙ってきた男が言った。首領らしきあの巨漢の男だ。
セドリックの背筋には、冷たい汗が流れ出ていた。
男は巨体を揺らして飛び上がり、セドリックの首を狙ってきた。彼の首を外したその剣は、勢いそのままに馬の首に命中している。
顔を上げたセドリックの目に、地に落ちていく馬の首が見えていた。
「馬鹿な……」
倒れる馬から慌てて飛び降りたセドリックは、思わずそう呟いた。
宙に足を浮かせた不安定な体勢で、腕力だけで太い馬の首を斬り飛ばすとは──。
あまりにも人間離れした膂力だった。
その覆面の巨漢が、剣を構え直して彼の方を向く。
「セドリック!」
突然のユージンの声。素早く反応し、セドリックは後方に跳んだ。
燃え盛る炎の壁が、彼と敵の間に立ち上る。ユージンの魔法の炎だ。
逃げる行商人親子の背後にも、同じように炎の壁が立ちはだかっている。
「魔術師か!」
親子を追っていた男たちの足が止まる。炎の壁を回り込もうと、散開しはじめる。
一方、セドリックの目前で燃える炎の向こうからは、苛立ちを含んだ声が聞こえてきた。
「しゃらくさいわ!」
声と共に、炎の中心に縦に一筋走る銀色の線。鋭い剣閃に割られた炎が、一瞬だけ左右に別れる。
その隙間を通って、巨漢の男が飛び込んできた。
手に持つ剣が、セドリックに向けて振り下ろされる。
咄嗟に剣で受けようとしたセドリックは、すぐに思い直して剣先を下に傾けながら体を横にずらした。馬の首を斬り飛ばすほどの剛力の男だ。まともに受ければ、剣が折れてしまうだろう。
ギィンッ、ギギギギギィィィッ!!
敵の凶刃が剣の腹に当たる。滑った刃が、大地に向けて斜めに進んでいく。
いなすように剣を傾け続けるセドリック。
腕に、とてつもない衝撃を感じていた。力を逃がすように受け流しているはずなのに、剣を支える腕が折れてしまうのではと思うほどだ。
ドガァァァアアンッッッ!!
敵の剣が、地面に当たった。
横に跳ねるセドリックの体。自分で跳んだというより、衝撃に吹き飛ばされかけていた。
すぐに地に足を付けて体勢を立て直しながら、セドリックは目を見張った。
巨漢の男が振り下ろした剣先を中心に、固い大地に大きな裂け目が生じている。文字通り、岩をも砕く一撃だ。
(化け物じみている……!)
先ほどの馬を斃した攻撃といい、とても人間とは思えぬほどの威力だった。実は人間ではなく、魔族ではないのかとすら思えてくる。
だが、その規格外の腕力は敵にとっても徒になったようだ。
ビキィッ!
男の持つ剣にヒビが入る。大地と衝突する威力に、素材の鉄が耐えられなかったのだ。
バキィインッ!
折れて砕ける剣。
「安物がッ!」
吐き捨てるように言って、男が壊れた剣を投げ捨てた。
好機とばかりに斬りかかるセドリック。
敵は鎧を身につけてはいない。分厚い筋肉が鎧のようになってはいるが、人間である以上は鋭い斬撃を完全に防ぎきれるはずもない。
手傷を加えて相手の動きを止めるべく、セドリックは連撃を繰り出す。
剣も盾もなく、よけ続けるしかない敵の目に苛立ちが浮かんだ。
「この余に対してッ! いい加減にせよッ!」
セドリックの剣をよけざま、男が拳を固めて右腕を振り上げた。
すぐに左手の盾を構えるセドリック。
いくら人間離れした腕力をしていても、さすがに素手で金属製の盾は砕けまい。
右手に握る剣に、セドリックは力を込めた。盾で受け止めざま、反撃の一刀を叩き込むつもりだ。
剣を後ろに引きつつ、セドリックは注意深く敵の動きを観察する。
その目に、信じられないものが映った。
(なっ……!?)
振り下ろされる男の右腕が、闇のような漆黒に変わっていた。
腕回りも、先ほどより倍以上は太くなっている。
力を込めて筋肉が盛り上がったせいではない。肩から先の腕全体が大きくなっている。
(噂に聞く聖鎧か!?)
一瞬そう考えたが、しかし黒い聖鎧など聞いたことがなかった。
黒は、魔族を象徴する色だ。聖鎧に祝福を授けてくれる神とは、相反する存在である。
加えて、聖鎧はあくまでも鎧なのだ。見た目も鎧そのものか、あるいは昆虫や甲殻類のように体を固く覆うものだと聞いている。
いまセドリックを襲いつつある男の腕は、鎧というよりも腕そのものが巨大化しているように見えた。元々腕に生えていた剛毛も太く固そうに変化して、まるで無数の針金のようになっている。
ドガァアンッ!!
セドリックの盾に叩きつけられる男の拳。
ズズッと、セドリックの足が後ろに下がる。
押し返すことはできなかった。吹き飛ばされぬよう踏ん張るのが精一杯だ。
ビシィイッ!
そして聞こえてきた音に、セドリックはまたも驚愕に目を見開いた。
(まさか!)
金属製の盾に、ヒビが入っていた。
次の瞬間、粉々になって飛び散る盾。
呆然とするセドリックの目に、盾に隠れていた男の拳が映った。
黒く巨大な拳の動きは、まだ止まってはいない。
盾を破壊した勢いのまま、セドリックの前腕も殴ろうとしている。
(砕かれる!)
腕の骨が粉砕されることをセドリックは覚悟した。
衝撃と激痛に備え、奥歯をぎゅっと噛みしめる。
(!)
その瞬間、彼の目にはまたも不思議な光景が映っていた。
今度は、自身の左手が青い光を放っている。
(えっ……?)
ドズン!
男の拳が左腕に当たる。
しかし、覚悟していたような衝撃も痛みもなかった。
盾を割り砕くほどの力が、青い光に触れて雲散霧消している。
多少の衝撃を感じはしたが、盾越しに拳で殴られた程度の──まさに最初に想定していた程度の衝撃だった。
(ユージンの魔法か……?)
兄の──もとい弟のユージンは、旅の合間も暇さえあれば魔術の研究に余念がない。
昨日の花を集めた魔術もそうだが、セドリックがまだ知らない魔術をいくつも彼は有している。
おそらくは、防御か何かの魔術を使ってくれたのだろうと、セドリックは判断していた。それ以外に、いま自身の左腕に起きたことは説明がつかない。
ふと見ると、セドリックの左腕を殴りつけた男の目にも驚愕と戸惑いの色が浮かんでいた。
まさか──と、その目が言っている。
男の右手は、もう元の人間の腕に戻っていた。セドリックの左腕を包んでいた青い光も消えている。
刹那の幻を見たかのようにセドリックは思った。
だが、少なくとも金属製の盾が割り砕かれ、その衝撃をまともに受けたはずの左腕には、なぜだか何のダメージもないことだけは確かだ。
互いに戸惑いを覚える中、先に動いたのはセドリックの方だった。
構えていた右手の剣を、真っ直ぐに男に向けて突き出す。
狙うは、男の喉。
どんな分厚い筋肉の鎧を身につけていても、そこを刺し貫けば致命傷を与えられる。
「ぐぬっ!」
男が身をよじって、剣を避ける。
喉は外されてしまったが、突き出した切っ先が覆面越しに男の頬を抉った。
顔を隠していた布が、斬り裂かれて千切れ飛ぶ。その下の頬が、真っ赤な鮮血に染まっていく。
「ぬうっ!」
一声唸って、男が後ろに飛び退いた。片手で顔を覆っている。切られた頬の傷ではなく、顔全体を覆っていた。まるで、露わにされた顔を隠すかのように──。
だが、男の努力も虚しく、覆面が外れた瞬間にセドリックは確かに男の顔を間近で見た。
いかにも野盗の首領らしき、エラの張った粗野でいかつい髭面だった。
ただ、血まみれの頬以外の肌は意外にもつるりとしていて、育ちの良い貴族の坊ちゃんのように見えなくもない。
顔を隠すように男が背を向け、炎の壁を回り込んで逃げようとする。
セドリックは追わなかった。ユージンたちの救援に向かおうとして体の向きを変える。
その彼の背後から、焦りを含んだ声が聞こえてきた。
「顔を見られた、ですと!?」
あの巨漢の男の声ではなかった。
どこかで聞き覚えのある声と思うが、いったい誰のものだったか──。
そう考えている間に、その声が叫ぶように言った。
「……殺せ! 顔を見られたからには、可哀想だが生かして帰すわけにはいかぬ! 何がなんでも、全員殺すのだ!」
言葉の内容よりも、やはりその声の方がセドリックは気になっていた。
確かに、聞き覚えがある。
そう──つい昨日、聞いたばかりの声だ。
花売りの老婆と、美しい女性を助けたあの広場で──。
名前は、確かジェラルド。
訳あって家名は明かせぬが、騎士だと名乗っていた──。
そこまで思い出したセドリックは、ぐるりと周囲を見回して敵の姿を確認した。
全部で七人。
全員が覆面で顔を隠してはいるが、セドリックが今しがたまで対峙していた巨漢の男を除く六人の敵の体型は、言われてみれば、昨日の五人の兵士とジェラルドのものに一致している。
となると、昨日は姿が見えなかったあの巨漢の男こそが彼の主君なのだろうか。
セドリックは昨日、ジェラルドが仕えるその人物は、相当の上級貴族か王族ではないかと推察をした。
いま、襲い来る男たちの目の色は、明らかに先程までとは違っている。ジェラルドの一声に従い、巨漢の男の顔を見たセドリックたちを確実に殺しにきている。
そこまでして目撃者の口を封じようとするということは、やはりあの巨漢が相当にやんごとなき人物であるという証ではないのか。
(しかし……それほど高貴なお人が、どうして野盗の真似事などをしているのだ?)
疑問を感じつつ、セドリックはユージンたちと合流すべく走りだした。
ゴッ、ゴゴゴゴゴォォォオッ!
セドリックの背後で炎の壁が大きく伸び、敵と彼らを完全に分断してくれる。
「セドリック!」行商人親子を引き連れて、ユージンもこちらに駆けてきた。「逃げるぞ!」
騎士ではないユージンは、”転身”などという飾った言葉は使わない。
それでも素直に頷くセドリック。
だが、続くユージンの言葉には仰天した。
「森の中だ!」言いながら、ユージンが森の方を指差す。
「”黒い森”の中に!?」
「他に方法があるか!? 早くしろ!」
炎の壁越しに、セドリックは敵の男たちを見た。
聳え立つ炎に、多少は怖じ気づいているように見える。
だが、先ほどのジェラルドの言葉から察するに、やがて覚悟を決め、身が焼けるのも構わずに炎を突っ切ってくるのではないか。
それに、ユージンの魔力は無限ではない。
道幅を超えて立ち塞がっている炎の壁は、しかし土手を越えた辺りで途切れていることだろう。そこから大きく一度回り込めば、敵は逃げる彼らを追ってくることができる。
彼らがそれに気づく前に、できる限り大きく引き離して逃げ切りたいと思うが、しかしセドリックは馬を失っていた。
行商人の荷馬車を引いていた馬は、壁の向こう側にいる。ユージンの馬一頭に全員が乗るのは、到底無理だ。
そして街道上での徒歩での追いかけっこになれば、女性が二人いるこちらの方が明らかに不利である。
「くそっ!」
仕方なくセドリックは、森の方へと体を向けた。
ユージンと行商人の父親は、すでに森との境界の小川を跳び越え、エルマとその母に手を伸ばしている。
セドリックも滑るように斜面を駆け下りると、そのまま一気に小川を跳び越えた。
ユージンたちと合流し、森の端を覆う藪を無理矢理にかき分けていく。
そうして彼らは、昼なお暗い”黒い森”の中へと飛び込んでいった。