その21 閑話・”魔王の妻”ロクサリア
夜の帳に沈む”湖の魔女”の庵の中から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
甲高い子供の笑い声。エレインとアゼルスタンの子供たちの声だ。ユージンが、本で読んだ滑稽話を面白おかしく語って聞かせているのだろう。
日課にしている素振りを終えたセドリックが庵の中に戻ろうとしたら、ちょうど扉が開いてエレインが出てきた。
彼女に近づき、セドリックは声をかける。
「エレイン……。ちょうど良かった。貴女に伺いたいことがあるのです」
皆の前では訊きにくいことだ。そのことを考えていて、今日の素振りはずっと身が入らなかった。
「なんでしょう?」
「その……」少しだけ言い淀んでから、意を決してセドリックは口を開いた。
「ロクサリアという人は……私を産み出してくれた後にどうなったのか、ご存じですか?」
セドリックの問いに、エレインは哀しげな表情になってかぶりを振った。
「分かりません……」
魔王領に行って帰ってきた者、ウルリカのような人と交流のある魔族、あるいは魔族の捕虜。彼らは、口を揃えて聖女・ロクサリアが魔王の妻になったと言っている。だが、その後の彼女がどうなったかは語られていない。
子を産み落としたという事すら口にする者は稀で、いまのロクサリアがどこでどうしているのかはまったくの不明である。
「ですが、おそらく……」
もう、この世にいないのではないか──。
だから、現在の彼女の情報が何も入ってこないのだろう。
そう言って、エレインは友人の死を悼むように目を閉じた。
「そうですか……」
セドリックの胸を寂寥とした風が通り抜けていく。
それは、顔も知らぬ”母”の死を悼んでいるのか。それとも、彼の奥底に眠るイーヴァンの心が、恋人の行く末に慟哭しているのか。
いまだセドリックは、ロクサリアという女性が自分の中でどのような立ち位置にいるのか混乱している。
母なのか、恋人なのか──。
チラリとセドリックは、庵の方に目を向けた。
子供の笑い声はやみ、代わって女性の美しい歌声が聞こえてきていた。ロクサーヌの声だった。荒れ狂うハーピーすら聞き惚れた自慢の歌声を、子供たちに披露している。
その、耳に心地よいはずの歌声が──いつまでも聴いていたいと思っていた歌声が、いまは何故だかチクリと胸に痛い。
セドリックと同じ方に目を向け、しばしロクサーヌの歌声を耳にしていたエレインが、彼の方に視線を戻して口を開いた。
「セドリック様。貴方は、ロクサーヌ様を愛しておられるのですか?」
「!」
唐突な問いかけに、しばしセドリックは言葉に詰まる。
答えは決まっている。
イエスだ。
出会ってまだ間もない女性だから──などというのは関係ない。
彼女には、ずっと自分の傍にいて欲しい。
もしも彼女のためならば、自分は火の中にだって飛び込めるし、強大な竜や魔王とだって躊躇なく戦える。
少なくとも今この瞬間、彼はロクサーヌただ一人を愛している。
その心に、嘘偽りはない。
だが、セドリックはその答えをどうしても口にすることはできなかった。
特に、聖女・ロクサリアの親友であったというこの女性の前では。
”セドリック”にとってはロクサリアは産みの母だが、“イーヴァン”にとっては生き別れになった恋人なのである。
黙してしまったセドリックに、ふっと小さな息を吐いてエレインが言った。
「ごめんなさい、酷な質問でしたわね……。ただ、これだけは貴方にお伝えしておかなければならないと思って」
その前振りとして、セドリックの気持ちを確かめようとした。
いったい何を──とエレインを見たセドリックに、彼女は言った。
「私の<変装>の術は、よく知らぬ者には変身できません」
どういうことか──?
セドリックは目だけでエレインに問う。
追想するように一度まぶたを閉じた後、エレインが言った。
「あのとき……竜の洞窟で私は、ロクサーヌ様に変身したわけではないのです」
出会って間もない彼女に変身することは、エレインにはできない。
「では、どなたに……?」震える声で、セドリックは訊いた。「いったい貴女は、どなたに変身したつもりだったのです」
あの時セドリックは、変身したエレインをロクサーヌだと思った。だからこそ、灼熱の竜のブレスに晒されそうになった彼女を、何が何でも守らねばと思った。
例え、自分の身を犠牲にすることになったとしても──。
そしてセドリックが、ロクサーヌの顔を見間違えるはずはないのだ。離れていても、ずっと心の中で恋い焦がれていた彼女の顔を。
「あのとき私は……」しばしの間を開けて、エレインはその名を口にした。
「ロクサーヌ様ではなく、ロクサリアに化けたのです」
エレインの無二の親友であった聖女に。
呆然と、セドリックはその場に立ち尽くした。
※※※※※
時は少し遡る。
神や人間と敵対する魔王の領内の奥深く──。
魔王が、彼に従わない魔族や人間たちには触れさせたくないものを隠すための城がある。
彼の妃を住まわせるための城だ。
いまや魔王の妻となった聖女・ロクサリアは、その城の最奥にある彼女の居室で、廊下をドスドスと走る重い足音を耳にしていた。
バタン!
大きな音を立てて、扉が開く。
部屋の中に些か慌てた様子で入ってきたのは、筋骨逞しい髭面の大男。
いまは人間の姿をしているが、ロクサリアの夫──魔王ヴォルヅガンズだ。
「ロクサリア!」珍しく興奮した様子で、魔王が言った。「良くやった! 無事、産まれたそうだな」
彼女が産気づいたと聞いて、魔王は取るものも取りあえずこの城まで飛んできたのだ。
出産には間に合わなかったが、到着してすぐに母子共に無事であるという報を得たらしい。その厳めしい顔には、ロクサリアがあまり見たことのない純粋な喜色が浮かんでいた。
「ええ……」
答えながらロクサリアがチラリと戸口を見ると、うやうやしく礼をした使用人のラミアが、廊下に出て扉を閉めるところだった。
どうやら、しばらく夫婦だけの時間を演出してくれるつもりであるらしい。
「男か? 女か?」魔王が訊いてくる。
「男の子です」
「でかした!」魔王が声を張りあげた。「ようやく、余にも後継ぎができたわけだ!」
(そのことを望まぬ者も、この世には多いのですが……)
そう皮肉げに考えるロクサリアには目もくれず、揺り籠に近づいていった魔王が、空っぽの籠の中を覗き込んで訝しげに首をかしげた。
「……どこだ? 余の後継ぎはどこにおる?」
「隠しました」
「隠した、だと……?」
”隠れる”は、死の隠語として使われることもある。
眉をひそめた魔王に、平坦な口調でロクサリアは言った。
「あの子の命を狙っている者がいると聞きましたので。信頼できる方に預けたのです」
「そ、そうか……」
赤子が死んではいないと知り、魔王の顔に安堵の色が浮かぶ。残虐非道で自身の欲望を満たすことしか頭にないような男だが、どうやら我が子を心配する気持ちはあったらしい。ロクサリアは、また心の中で皮肉な笑みを浮かべた。
その男の妻となり、何度も契りを結んだ自分も、他人から見れば同じ穴の狢ではあろうが──。
心に暗い翳りを浮かべたロクサリアに、魔王が訊いていた。
「いったい誰に預けたのだ? 信頼できる者……。この城の者か?」
首を横に振るロクサリア。
「では、どこだ? 余の後継ぎをどこにやった?」
魔王の顔に苛立ちと疑念が浮かぶ。
「そもそもこの城の者以外に、お前に”信頼できる者”などいるのか?」
(おりませんわ。魔王領内にはどこにも……)
魔王の妻となって以来、ロクサリアはこの城から一歩も外に出たことがない。そうでなくとも、魔王に与する者を信頼などできるわけがない。
その思いを魔王に悟られぬよう、無表情を作ってロクサリアはキョロキョロと辺りを見回した。
──どこで誰が聞き耳を立てているか分からない。
そう見えるように振る舞った後、また魔王の方に目を向けて彼女は口を開く。
「魔王様、お耳を……」
「うむ……」
近づいてきた魔王が、ロクサリアの口元へ耳を近づけるようにかがみ込んだ。
と、その目が大きく見開かれる。
魔王の胸に、深々と短剣が突き刺さっていた。
ロクサリアが、赤子に使った<転移>の護符と共に肌身離さず隠し持っていたもの。
魔王がこの部屋に入ってきたときからずっと握りしめていたその懐剣を、彼女は警戒なく近寄ってきた魔王の胸に突き刺したのだ。
彼女の細腕では、魔王に致命傷を与えることはできないであろう。
それでも、せめて一刺し。
彼女から愛する者を奪った憎き相手に対する、せめてもの報いだ。
ロクサリアが成すべきことは、もう成した。
恥辱と悲哀、そして罪悪感にまみれた生活も今日で終わりである。
「ロクサリア、貴様……」
呻くように言う魔王。短剣の柄を握る手に、ロクサリアは力を込めた。
一度抜いてまた突き刺すか、それともこのまま剣の切っ先を抉って内側を傷つけるべきか──。
彼女がその判断をする前に、魔王の大きな手がガシリとロクサリアの頭を掴んだ。
軽々と引き剥がされる聖女の体。
足が宙に浮き、頭を魔王に掴まれてぶら下げられながら、ロクサリアは憎々しげに仇の顔を見た。
彼女と魔王では、腕の長さが違う。どれだけ手を伸ばしても、もう魔王に短剣を突き刺すことはできない。
だが、彼女は聖女だ。
武器を使わずとも、魔の者を滅する奇跡を使うことができる。
ロクサリアの口から、祈りの言葉が発せられた。
その右手に、白い光が生じる。
純粋な聖なる力。
人間にとっては祝福の力だが、魔の者が浴びれば炎のようにその体を焼き尽くす。この至近距離で食らわせれば、魔王の体にだって傷をつけることができるだろう。
「痴れ者がッ!」
ブウンッと、魔王がゴミのように彼女の体を投げ飛ばした。
背中をしたたかに壁に打ち付け、激痛に顔をしかめながらもロクサリアは祈りの言葉をやめない。
イーヴァンが感じた痛みは、こんなものではなかったはずだから──。
「主よ! 私に大いなる力をお与え下さい!」
伸ばしたロクサリアの右手から、白い光が迸る。
対抗するように魔王も、その右手を挙げた。その手に生じているのは漆黒の闇。神の祝福とは真逆の力。魔王の礎となっている暗黒の力だ。
魔王が放出した闇が、ロクサリアの放った光を包み込んだ。
闇はそのまま突き進み、ロクサリア自身の体も呑み込んでいく。
全身を襲う、先ほどとは比べものにもならないほどの激痛。ロクサリアの命の灯火を根こそぎ奪っていく絶望の暗黒。
すぐに、ロクサリアの意識は闇の底へと落ちていく。
「ああっ……、イーヴァン様……」
死の淵に赴く彼女の目に、愛するイーヴァンの幻が浮かんだ。
先ほど転移させた赤子は、そのイーヴァンと同じ髪の色をしていた。その事実だけが、いまの彼女にとっては心の救いだ。
「イーヴァン様……。私も……貴方と共に……」
その言葉を最後に、聖女ロクサリアの体は物言わぬ屍へと変わっていった。
──ロクサリア!!
その光景を、遙か遠くからずっと見守っている者がいた。
ロクサリアが魔王に嫁いだとき、一度だけ祝福に訪れたその者は、祝いの品として彼女に造花とフクロウの置物を贈っていた。
新たな魔王の妃が気に入って自室に飾っていたそのフクロウの目玉が、部屋の中の光景をずっとその人物の元に送ってくれている。
魔王の足音を聞き、決意のこもった瞳でロクサリアが懐剣を握りしめる姿を見たとき、その人物はすでに動きだしていた。
類い希なる力を持った聖女・ロクサリアとて、彼女一人では魔王に致命傷を与えることはできないであろう。
激情家の魔王のことだ。その後、自身に刃を向けた妃をどうするかは火を見るよりも明らかである。
ロクサリアと魔王の会話の間に急ぎ秘術の準備を整えたその人物は、じっとその時を待ち続けた。
──お母様。
心に浮かんでくるのは、かつて生涯唯一愛した男との間に産まれた娘の言葉。
──その術は、私ではなくこの子のために取っておいて。私は、もう十分に幸せをもらったから。
目を閉じ、愛娘のその言葉を深く噛みしめる。
娘に言われて温存していたこの秘術を、今こそ彼女は孫娘のために使う。
ヴォルヅガンズに投げ飛ばされたロクサリアに向けて、闇の波動が放たれた。
同時に、彼女は高らかに呪文を唱える。
『花よ! 世界樹の花よ! 儂に力を貸しておくれ!』
フクロウの置物が弾け、隣に飾られていた造花を破壊する。
ヴォルヅガンズは気づいていない。いや、気づいてはいても自身の放った暗黒の余波だとでも思っているのだろう。
破壊された造花の中には、本物の花粉が隠されていた。今はもうここにしかない、古代の神々が育てていた植物の花粉。
飛び散った花粉が部屋の中を舞う。一度天井付近に集まった後、開け放たれた窓から風に乗って外へと出ていく。
(どうか、どうか成功しておくれ……)
彼女自身も初めて使う術。そしておそらく、もう二度と使うことはできない術。
床に落ちたフクロウの目玉からは見えなくなってしまった花粉を──飛び去っていったその先をずっと見つめながら、彼女はただただ術の成功を祈り続けた。
そしておよそ一年後。
知人の家で出会った赤子の姿に、彼女は術の成功を確信する。
(ジャンヌ……)
心の中で、今は亡き娘の名を呼ぶ。
(お前の……お前たちの娘は、今度こそ幸せになるよ。そうなるように、祈っておくれ……)
そう考えながら、彼女は知人の老夫婦に向けてある提案を口にした。
ここまでお読み頂いた方、本当にありがとうございます。
”魔王の妻”としてのロクサリアは、これで退場となります。
彼女とロクサーヌ、そしてセドリック、イーヴァンがこの後どうなるか。悲劇を悲劇で終わらせず、大団円を目指して物語を進めていきますので、今後も応援をお願いします。




