その19 魔女の推測
前エピソードに引き続き、本エピソードでは物語の重大な秘密の一つが明かされます。興ざめとなる可能性がありますので、恐れ入りますが、初見の方は本エピソードと前エピソードから読み進めるのはお避け下さい。
「セドリック様……今は便宜的にそう呼ばせて頂きますが、貴方はイーヴァン様と共に消息を絶った聖女・ロクサリアが、その後どうなったかご存じですか?」
「…………。噂程度には、ですが……」
セドリックがすぐに答えられなかったのは、それはグラスヴァル家ではタブーに近い噂だからである。
あまり信じたくはない──事実だとすれば、彼女の婚約者の家族にとって相当に不愉快な内容を含んでいるのだ。
魔王領に行って帰ってきた者、魔族の捕虜、あるいはウルリカのような人間と交流のある魔族たち──その者らが、口を揃えて言う。
「聖女ロクサリアは……伯父・イーヴァンの婚約者であった彼女は……魔王の妻になってしまったと……」
「その通りです……」
悼むように目を閉じたエレインが、ポツリと言った。
「ロクサリアは、私の大切な友人でした……」
再び目を開け、エレインがセドリックを見る。
その目には、真摯な光が宿っていた。
「私は、彼女のことをよく知っています。彼女は……例えイーヴァン様がすでにこの世には亡いのだとしても、それでも彼への愛を裏切るような女性ではけしてありません。噂が本当だというのなら……そこには必ず、何かそうせねばならなかった事情があるはずなのです」
友人の名誉を守るようなそのエレインの言葉は、もしかしたらセドリックではなく、”イーヴァン”に向けて語りかけているのかも知れなかった。
「私がこの森に来てしばらくたった頃……。一度だけ、天使が現れたことがあります」
「天使?」
唐突な言葉にセドリックは戸惑う。
「ロクサリアの使いのようでした……。天使は、私にこう告げたのです。彼女が、”愛する者を身籠もった”と」
だが、ロクサリアはその子を育てることができない。だからグラスヴァルの縁の者にその子を託すつもりだが、それが無理ならばエレインに子を預けることになるかもしれない、と。
「グラスヴァルの縁の者というのが、シャーリー様のことであろうとはすぐに想像がつきました。ただ疑問に思ったのは、天使が”愛する者を身籠もった”と言ったことです」
”愛する者との子”ではないのである。
「天使が言い間違いをするはずはありません。自身が産んだ子を愛することは取り立てておかしな事ではありませんから、”愛する者を身籠もった”という言い方も変だとは言えませんが、しかしやはりわざわざそのような言い回しをした理由が、ずっと気になっていました」
そして、セドリックの聖鎧を見たことでようやくその疑問が解けた。
「ロクサリアは、貴方を……愛するイーヴァン・ホーを身籠もったのです」
「な……?」
一瞬セドリックは、エレインが何を言っているのか分からなかった。
「聖女ロクサリアが、私の母だということですか……?」
「いまの貴方の肉体を生んだ者──という意味では、その表現でもいいのでしょう」
ただし、身籠もったのは”イーヴァン・ホーとの子”ではなく、あくまで”イーヴァン・ホー本人”である。
「いったい……どういうことなのです?」
「貴方の本当の母は、やはり……」そこで、エレインがチラリと竜の方を一瞥した後に続けた。「貴方が叔父と言うアゼルスタンの母と同じ人物であると、そういうことになりましょう」
”セドリック”にとっての育ての母であるシャーリーの、そのまた母。つまり祖母に相当する女性のことだ。
「いったい、何を言っているのか……」
まったくわけが分からない。
混乱するセドリックに、エレインは続けた。
「貴方の肉体を生んだのはロクサリアですが、彼女は貴方を自身の子として産んだわけではないのだということです。従って、魂も含めた一人の人間としての貴方の母は、ロクサリアではないということになります」
ますます混乱するセドリックにエレインが続けて語ったのは、さらに信じがたい内容だった。
「貴方が……イーヴァン様が魔王に害されて致命傷を負ったとき、ロクサリアは肉体から抜けて天に昇りゆく貴方の魂を捕まえたのです」
そして自身の胎内に──子宮の中に封印したのだ。
「前例のないこと……聞いたことのない秘術です。おそらくは聖女である彼女に天啓が……神のお告げがあったのでしょうね」
そしてロクサリアは、母親が胎児を育むように自身の子宮内でイーヴァンの新たな肉体を育てた。その肉体に、封印していた魂を入れたのである。
「転生……というのとは、似て非なるものでしょうね。どこか別の誰かとして生まれ変わらせたわけではありません。肉体を失ったイーヴァン様に、新たな肉体を創りだして与えたにすぎないのです。元の肉体が回復不能な損傷を負ってしまった以上、イーヴァン様を助けるにはそれしか方法がなかった」
単なる転生としなかったのは、それでは生まれた者は厳密にはイーヴァン本人とは言えないからか。
ロクサリアがしようとしたことは、あくまで”イーヴァンの肉体の再生”なのだから。
「ただ、そのときのロクサリアの体の状況としては、客観的には普通の妊娠、出産と何も変わりがありません」
彼女が何も言わなければ周囲の者は、彼女が現夫との──魔王との子を産み落としたのだと、そう見えることであろう。
「しかし彼女の産道を通って出てきた者は、この世に新たに生を受けた赤子ではなく、あくまでイーヴァン様ご本人なのです」
死滅した肉体の代わりに新たな肉体を得て、聖女の胎内から出てきたのだ。
「ですが……」セドリックは言った。「それならば、私にはイーヴァン・ホーとしての記憶や能力があるはずです。しかし、私にはそんなものは……」
「あるではありませんか」
言って、エレインがセドリックを指差した。いや、指差したのは彼ではなく、その身を包む聖鎧だ。
「貴方は聖騎士の力を得るべく、神の祝福を得たことは?」
「ありません……」
得たりと、エレインが頷く。
「それなのに、貴方はいま確かに聖騎士として聖鎧を纏っていらっしゃる。それこそ、貴方がイーヴァン様ご本人である証。貴方は、祝福を受けたことがないわけではないのです。ただ、その記憶を失っているだけなのです」
前の肉体のときの記憶を。
「貴方の肉体を再生させたロクサリアですが、さすがに以前の肉体と完全に同じ状態で産み落とすわけにはいかなかった」
成人男性の肉体をそのまま産むには、彼女の体は小さすぎる。
「ですから通常の出産と同じように、赤子の体として産み出したのです。そしてその後も、貴方の肉体は通常の子供と同じように成長していった」
厳密には”成長した”ではなく、”元の状態に戻っていった”という表現の方が正しいのかもしれない。
ただいずれにしろ、小さく未熟な赤子の体や脳では、成人男性の記憶や能力をうまく処理することができなかった。それで、脳を含めた体が成熟するまで、それらの記憶は封印されたのであろう。
言われて、セドリックには一つ思い当たることがあった。
幼い頃の彼は、なにをするにつれても「物覚えのいい子だ」と評されていた。
剣技にしてもそうだし、言葉や文字についてもそうだった。
文字を読むことに先に興味を示したのはユージンの方だったが、学び始めてからの習得速度はセドリックの方が速く、先に本を読み始めたユージンにすぐに追いついていた。
あれは文字を学習していたのではなく、すでに知っていた文字を思い出していただけにすぎなかったからだ。
それが、傍目には習得の速い子のように見えた。
「私の推測が正しければ、肉体の方に十分な許容力が戻れば、そして何かきっかけがあれば、貴方はかつてのイーヴァン様としての記憶や能力を思い出すはずです。おそらく、貴方の体が以前の──肉体を失ったときと同じ状態にまで戻ったとき、自然と全ての記憶が蘇るのでしょう」
「信じられません……」
セドリックは言った。
あまりにも荒唐無稽な話だと思った。
ただ、有り得ぬ事と思いながらも、心のどこかでエレインの推測の正しさを認めている自分がいる。
しかしその一方で、自分は自分であると──あくまでもセドリック=グラスヴァルという人間なのだという、強い矜持のような思いもある。
貴方はイーヴァン・ホーという別の人間なのだ、と突然に言われても──いくら話に聞いて尊敬していた人物とはいえ、容易には受け入れがたいものがある。
そんな彼を「当然でしょうね」というように見ていたエレインが、何かを思いついたような顔をして竜を見上げた。
「それでは、一つ試してみましょう。彼が誰だか、覚えていますか?」
「竜・ファブニール……」
いったい何を今更と、戸惑いながらもセドリックは答えた。
「だ、そうですけれども……」
竜を見上げたまま、エレインが言う。
黙して語らぬままの竜に、珍しく冗談めかして彼女は続けた。
「私も、ずっとこの格好で話し続けるのは首が疲れます」
それを聞いて一つ嘆息をした竜が、口を開いた。
「これ以上混乱をさせるのも、どうかと思ったのだがな……」
「貴方が正体を現せば、それが刺激となってまた彼の記憶が戻るかもしれません。些かでも記憶が戻れば、それこそ彼がイーヴァン様であるという何よりの証になるでしょう」
「そうか……」
言ってもう一度嘆息した後、竜の体がみるみると小さくなっていった。
同時に、その姿形も変わっていく。
森で戦ったあの魔族よりも小さくなり、セドリックと同じぐらいの大きさになり、さらに縮んで長身の彼よりも指三本分ほど小さくなったところで、竜の変化は終わった。
いまそこに立っているのは、巨体の竜ではなく中肉中背の一人の男。
「貴方は……」呆然と、セドリックは呟いた。「アゼルスタン叔父上……?」
竜の代わりに現れたのは、昨夜森の中で出会ったあの男だった。彼の叔父・アゼルスタンと名乗った黄色い鎧の聖騎士。
いまは鎧を纏っていないが、体格や醸し出す雰囲気は昨夜森で見たときと同じだ。昨日は暗闇であまり良く見えなかった顔が、今は洞窟内に設けられた灯りによってくっきりと映し出されている。
「うっ……!」
その顔を見た瞬間、セドリックの脳裏に一瞬の映像がよぎった。
地に片膝をつくアゼルスタンを、自身が見下ろしている。
アゼルスタンの右手の剣は、セドリックの左足裏の下にあった。足首を狙ってきた剣をセドリックが踏みつけたのだ。
昨夜とよく似た光景だったが、アゼルスタンは聖鎧を纏ってはいない。片膝をついて悔しそうな顔をしている。
そのアゼルスタンの向こうには、固唾を呑むような表情で彼らを見守っている一人の女性の姿が見えた。エレインだった。
──不意討ちとしては面白いが、どうせ刃は鉄靴で防がれるし、こうして踏みつけてしまってもよい。そうなったときの隙も大きいしな……。
相手の技を評するようにそう言っているのは、セドリック自身だ。
(なんだ、この記憶は……?)
自身の脳裏に浮かぶ映像と声に、セドリックは混乱する。
あり得ない記憶。
自分がアゼルスタンを圧倒しているばかりか、叔父である彼に対して、このような上からの発言をするなどと──。
ただ一方で、このときの記憶があったから、自分は昨夜アゼルスタンの技に瞬時に対応できたのだなと、妙な納得もしていた。
それは、この記憶が──兄として弟・アゼルスタンに稽古をつけている記憶が、間違いなく自分のものであるとセドリックが認めた瞬間だった。
「アゼルスタン叔父上……いや、私の弟……?」
混乱の中で呟くセドリックを、アゼルスタンとエレインがただ黙って見つめている。
「私は……私が、イーヴァン・ホー……」
先程、目の前の”湖の魔女”の本名が口をついて出たこと。アゼルスタンを見たときに浮かんだ過去の稽古の記憶。
これらの謎の記憶が、間違いなく自分のものなのだとすれば──前世の記憶とやらではなく、失っていた自身の記憶を思い出しただけにすぎないというのなら、やはりエレインの推測は正しいのだということになる。
記憶を失っている間は、彼は”セドリック”と便宜的に呼ばれていた。
だが、彼の本当の名前は、イーヴァン・ホー=グラスヴァルなのだ。
一度は魔王に致命傷を負わされてしまったが、いま二十年近くの時をかけて、その肉体を再生させている途上なのである。
片手で顔を押さえながら懊悩する“セドリック”に、アゼルスタンが──こちらも戸惑いを含んだ口調で呼びかけてきた。
「セドリック……いや、兄上……」
「セドリックと、そう呼んで下さい……」
いまだ衝撃の余波が去らぬまま、それでも顔を上げてセドリックは答えた。
「少なくともいまの私は、セドリック=グラスヴァルです……」
イーヴァンとしての記憶はまだ断片的だ。アゼルスタンが叔父ではなく、弟なのだと言われても実感が湧かない。
そして、アゼルスタンの姉でもあるシャーリー=グラスヴァル。
彼女は、けして自分の妹などではない。
遠くにいても思い慕う大切な母だ。
シャーリーの夫・ケアードは敬愛する父。そして彼らの息子であるユージンこそが、自分にとっての大事な兄弟なのである。
彼らは、けして“妹夫婦と甥っ子”などではない。
かけがえのない、セドリックの両親と兄弟だ。
「それでよいと、私も思います」
優しく微笑みながら、エレインが言った。
そもそもロクサリアは──そして彼女にこの前代未聞の秘術を捧げた神は、イーヴァンを救うのに、どうしてこのような迂遠な方法をとったのか。
死んだ者がまたすぐに生き返る──それは自然の摂理に、神の説く理に反することだからではないだろうか。
一度死んだら、二度と同じ者は戻らない。かけがえのないものだからこそ、命は尊い。
もしも死んでもすぐに生き返ることができるというのなら、「死んでもいいや、殺してもいいや」と、そういう安易な考えが世にはびこりかねない。
だから、イーヴァン・ホーはやはり死んでいるのだと、そういうことにしておいた方が良い。ここにいるのは、あくまでもイーヴァンによく似た”セドリック”という名の別の人物なのだと──。
「ロクサリアも、きっとそれを望んでいるに違いありません」
また哀しげな顔になったエレインがそう言った後、岩陰の方に目を向けた。
「ですからあなたも、ここで聞いたことは他言無用ですからね?」
その言葉に、岩陰からあえて人の言葉ではなく、
「ニャァーオ」
という黒猫の鳴き声が聞こえてきた。