その15 湖畔の森で
セドリックたちに「この場所で待っていて欲しい」と言った森の魔女は、しかし日が暮れる頃になっても戻っては来なかった。
森の中を歩き回るなとも釘を刺されていたから、仕方なく彼らはその場で夜営を行うことにする。
パオラとエルマが持たせてくれた干し肉とパン、それにロランドが作ってくれた即席のスープで夕食をとった後、ユージンとロランドが相次いで毛布にくるまって横になる。
スヤスヤと早くも寝息を立てている二人を見ながら、焚き火に薪をくべようと木の枝を手にしたセドリックは、そこでふと、
(遅いな……)
と思った。
湖の魔女ではなく、ロクサーヌのことである。
少し前に彼女はさりげないふうで焚き火の傍を離れ、すぐそこの茂みの中へと入っていった。
用を足しに行ったのだろうし、カイがついていったから大丈夫だろうと、セドリックは何も言わずに見送ったのが、それにしては時間がかかりすぎているようで、何だか急に不安になってきた。
少し大きな声を出せば届きそうな距離ではあるが、気持ちよさそうに眠っているユージンとロランドの姿を見て、大声は自重した。立ち上がって茂みのそばまで行き、その向こうに小声で話しかける。
「ロクサーヌ、大丈夫かい?」
「あっ、セドリック様……」
彼女の声はすぐに返ってきた。姿は見えないが声の調子は普通で、ほっとセドリックは胸をなで下ろす。
「ごめんなさい。星空が綺麗で、つい見とれてしまって……」
「星?」
言われてセドリックは頭上を見たが、生い茂る木の葉に遮られてあまり空は見えない。
「こちらに、少し開けたところがあるんです」
「そうなのか……。私もそちらに行って構わないかい?」
「ええ、どうぞ……。すごく綺麗な星空です」
背後の焚き火の明かりを頼りにセドリックが茂みをかき分けて行くと、なるほど、すぐに木々が途切れて小さな広場のようになっている場所に行き着いた。その真ん中近くで、ロクサーヌが空を見上げている。
「セドリック様……」こちらに気づいた彼女が声をかけてきた。
「本当に綺麗な星空だね……」
頭上に広がる夜空を見ながらロクサーヌに近づき、セドリックは言った。
雲一つない黒い暗幕を背景に、無数の星が瞬いている。
「今夜は、月もありませんから」
セドリックの隣に立つロクサーヌの姿が、闇夜に浮かび上がっていた。
白い肌に銀色の髪。
まるで、彼女こそが地上に降りてきた銀の月の女神のようだとセドリックは思う。
美しいのに、どこか儚げで──。
しっかりと掴んでいなければ消えてしまいそうな不安に駆られ、思わずセドリックは彼女の方に手を伸ばす。その瞬間、ロクサーヌがこちらを振り向いた。
慌てて手を引っ込めるセドリック。
驚いたような顔をするロクサーヌ。
赤面をするセドリックに、やはり頬を染めながら彼女がすっと寄り添ってくる。
自然と重ね合わされる二人の手。掌に感じる彼女の体温。幻などではなく、彼女が確かにここにいるのだという実感。
女神のようなロクサーヌの横顔をしばらく見つめた後、セドリックはまた空を見上げて言った。
「ずっと、このまま見ていたいな……」
「ええ……」小声でロクサーヌが応える。「わたしも、ずっと……」
そこまで呟いた彼女の手が、ハッと気づいたようにセドリックの手から離れた。
「ロクサーヌ?」
「ごめんなさい……」目を伏せて俯き、彼女は言う。「わたしなんかが、セドリック様と……」
そう言うロクサーヌの儚げな手を、セドリックは逃がすまいとばかりにはっしと掴んだ。
「セドリック様!?」
「離したくない……。もう君と、離れたくない……」
つい数日前に出会ったばかりの女性。それなのに、どうしてこんなにも惹かれるのだろう。二度と手放したくないと、もう離ればなれになりたくないと、そう思うのだろう。
セドリックの中の冷静な部分が、自分でもあまりに性急だと、女性に対して手が早すぎると渋面で批難してくる。
自分は、彼女のことをまだよく知らないというのに。
黒い森の魔女に育てられた娘で、聖女のような不思議な力を持っていて、綺麗な唄を歌う。
セドリックがロクサーヌについて知っていることなど、その程度だ。
それなのに一方で、なぜだかずっと昔から彼女のことを知っているような気もしていた。この世に生まれ出た瞬間から、自分は彼女のことをずっと探し求めていたのだと、なぜだか確信のように強く感じる。
そして、もしも今ここで手を離してしまったら、そのまま彼女はどこか遠いところに行ってしまって、もう二度と会えないような──そんな悪い予感がしていた。
「セドリック様……。でも、わたしは……」
揺れる瞳のロクサーヌ。その手が、するりとセドリックの手から抜け落ちてしまいそうになる。
離すまいとばかりに、もう一度セドリックはその手を握りしめた。
自分の想いを、彼女に伝えるかのように。
絶対に彼女を離さない──という、その固い意思を。
「ウルリカ殿から聞いたよ。君の生い立ちを……」
ピクリと肩が震えた後、ロクサーヌの体が強ばった。
シルバーホーンの背の上で、「自分は魔王の娘である」としか言わなかった彼女の出生時の事情を、セドリックはウルリカから聞いていた。
魔王の娘として──人間とは相容れぬ存在として産まれ、しかしすぐに父であるはずの魔王から“できそこない”と評されてしまった娘。
「でも、私はそんなことは気にしない」
真っ直ぐに彼女を見ながら、セドリックは言った。
「君が誰の娘であろうと、生まれたときの君がどうであろうと……。私は、いまの君のことが知りたい」
いまのロクサーヌのことを。彼女がいま何を見て、何を感じているのかを。
「いまの君に、私は傍にいて欲しいんだ」
「セドリック様……」
キュッと、ロクサーヌの手がセドリックの手を握り返してきた。
「わたしも……ずっとセドリック様のお傍にいたい……」
俯いたまま小さな声で、しかし確かに彼女はそう言った。伏せられていた顔がゆるゆると動き、セドリックを見上げてくる。
濡れて揺れる綺麗な瞳。小さく震える可憐な唇。
互いに瞳を見つめ合いながら、セドリックの手がゆっくりと彼女の白い頬に添えられた。
ロクサーヌが目を閉じる。
その顔に、ゆっくりとセドリックは自身の顔を近づけていき──。
「ニャーオ」
突然に聞こえてきた猫の鳴き声に、パッと二人は身体を離した。
視線を下ろすと、九本の尾を持つ黒猫が、どこか申し訳なさそうな顔で彼らを見上げている。
この黒猫の存在を、セドリックはすっかり忘れていた。
ロクサーヌはカイと共に焚き火の傍を離れたのだ。一人ではないのならと、セドリックはそのまま彼女を見送ったのである。
湯気が出るほど顔を真っ赤にしている二人に、カイが言った。
「お邪魔をするようで、ホントに申し訳ないんだけどさ……」
カイの耳はピンと立てられ、その口調は緊張で強ばっている。
「誰かが近づいてきてるよ」
夜行性の猫の耳と鼻は、どんな人間よりも信頼できる見張りだ。敏感に、こちらに近づいてきている者の存在を察知してくれた。
ロクサーヌを背中に庇いつつ、セドリックはカイの視線の先に向き直る。
と、鼻をひくつかせていた黒猫がまた口を開いた。ほんの少しだけ、その緊張が緩んでいる。
「良かった。敵じゃないかも。湖の魔女みたいだ」
「湖の魔女?」
こんな夜更けに?
セドリックが眉をひそめたとき、暗闇の向こうに人影が現れた。見覚えのある暗色のローブ。カイの言うとおり、湖の魔女のようだった。
「遅くなって申し訳ありません」
彼らの姿を認めて、魔女の方から声をかけてきた。
「他の方は、もう就寝されてしまいましたか?」
ロランドとユージンのことだ。
セドリックが頷いたのを見て、魔女はもう一度来訪が遅くなったことを侘びた後、言った。
「貴方を竜の所にご案内します、セドリック様」
ただ、それは明日の朝にしたいとも言う。
当然と言えば当然の話なので、セドリックも首を縦に振って同意の意思を示した。
「ただ、その前にどうしても……」そこまで言った魔女の目が、セドリックからロクサーヌの方に向けられる。
「ロクサーヌ様、貴女にどうしてもお尋ねしたいことがあるのです」
「わたしに……?」
戸惑うロクサーヌに、有無を言わさぬ口調で魔女が言った。
「できれば、二人だけで……。とても大事なことなのです」
「分かりました」
ロクサーヌが同意したのを見て、セドリックは魔女に言った。
「あの茂みの向こうに、焚き火があります。できれば、明るいところで」
「ありがたいです」
セドリックとしては警戒をしての言葉だったのだが、魔女は気遣いからのものであると受け取ったようだ。彼に礼を言い、茂みの向こうへと歩きだす。
ロクサーヌに続いてセドリックが歩きだそうとしたとき、魔女が怪訝そうにチラリとこちらを見た。
(成る程。私がここに残ると受け取ったわけか……)
ロクサーヌと二人きりで話をするという点については、魔女も譲れないところらしい。
そう悟ったセドリックは、茂みの前で立ち止まると同時に、さりげなく足元に目を向けた。音も立てずに歩いていた黒猫が、「任せとけ」というように頷いて茂みの向こうに消えていく。
さすがに護衛は難しかろうが、ロクサーヌに危険が迫ればすぐに教えてくれるだろう。焚き火の傍には、ユニコーンの”銀角”もいる。
それでも茂みの向こうにじっと注意を傾けながら、セドリックが歩哨のように立ち続けていると、
カサリ──。
背後から、ほんのかすかにそんな音がした。
葉と葉が擦り合わされる音。ただ、風で動いて擦り合わさったというふうではない。
いつも危険が近づいているときに感じる、例のチリリという首筋の違和感はなかった。それでも、セドリックは警戒心を高めて背後の暗闇を見る。
彼が剣に手をかけたところで、相手も気づかれたことを悟ったのだろう。ガサガサと隠すこともなく茂みをかき分け、一人の男が出てきた。
「何者だ?」
セドリックの誰何の声に答えようとせず、黙ってこちらの方へと歩いてくる。
中肉中背だが、引き締まった体つきをした男だった。顔は暗くてよく分からない。手に、抜き身の長剣を持っている。
星の光を反射してかすかに光るその剣を見て、セドリックの緊張は一気に高まった。自身もいつでも抜けるように剣の柄を握りしめ、男の方に向き直る。
空き地の中心まで来たところで、男は立ち止まった。ゆっくりと正眼に構えられる剣。男の口が開かれ、低く朗々とした声が暗い森に響いた。
「我が名は、グラスヴァル家のアゼルスタン。そこな騎士よ、手合わせをお願いしたい」
「アゼルスタンだと?」
訝しげにセドリックは問い返す。
それは、彼が捜している叔父の名ではないか。
しかも、相手は”グラスヴァル家の者”だと名乗った。だが、目の前の男をセドリックは知らない。いまのグラスヴァル家には、このような者はいない。
「戯れ言を……」セドリックは返した。「貴様がアゼルスタン叔父上のわけがない」
「ほう……」男が片眉を吊り上げた。「私のことを”叔父”と呼ぶとは……。知らぬ間に兄姉の誰かが子供をもうけたということなのか……。まあ、家を出てから二十年の時が経つ。当然と言えば、当然のことではあるな」
(家を出てから二十年、だと……?)
セドリックは考える。
では、やはり目の前の男は叔父なのか──?
半信半疑で相手を睨み続けるセドリックに、男がまた言った。
「若き騎士よ。名を名乗れ。そして、できれば貴様の両親の名を教えてくれぬか」
男に倣って剣を正眼に構えながら、セドリックは言った。
「私はグラスヴァル家のセドリック。父の名はケアード、母はグラスヴァルのシャーリーだ」
「そうか……」剣の構えを崩さぬまま、男がどこか懐かしそうに目を細めた。「シャーリー姉上が……。ケアードは知っているのか? 当然、知っているのだろうな……」
独り言のように呟く男の言葉を聞き咎め、セドリックは訊いた。
「知っている……? 何をだ?」
そのセドリックの問いには応えず、男の目が再び厳しいものに変わった。
「来い、セドリック。お前が誉れあるグラスヴァルの騎士を名乗る資格がある者か、私自身の手で試してくれよう」
力強い相手の言葉に気圧されぬよう心を強く持ちながら、もう一度セドリックは訊いた。
「貴様は、本当にアゼルスタン叔父上なのか? もしもそうなら、何か証拠を見せろ」
「証拠、だと……?」
「叔父は聖騎士であった。ならば、貴様も聖騎士だというのか!?」
目の前の男は鎧を身につけてはおらず、平服だった。ただ、剣の構えはいっぱしのもので──というより、かなりの使い手であると推測できるほど堂に入っていて、その構えを見る限りは、騎士であるというのは本当かもしれない。
とはいえ、それでもあの平服姿では、聖騎士であると言われても俄には信じられない。
「面白い……」
セドリックの言葉に、一瞬丸くなった男の目がすぐに細められ、ニヤリというふうに口の端が吊り上がった。
「怪我をさせぬようこの姿で手合わせをと思ったが……お前が望むのならば見せてやろう。だが、後悔はするなよ」
言った瞬間、男の体が黄色く眩く輝きだした。